山菱佳奈子
そこを小走りで駆け抜けようとした訳だから、当然のように泥水が跳ね上がってしまった と言うのが経緯。
それでそんな跳ね上がった泥水は、寄りによって御影村一番の権力者、山菱酒造の初代社長の娘、山菱佳奈子の画用紙に、見事着地を成し遂げてしまったの。
「ちょ、ちょっと、なんてことしてくれるの?! せっ、せっかくここまで描いたのに......やだ、もうどうしてくれるのよ?!」
とにかくもの凄い剣幕。額に青筋が浮かび上がってるし。
ライオンの雄叫びにも引けを取らないそんな叫び声はきっと、山々を超えて麓の街まで轟いてたんじゃ無いかしら。
「あわわわわ......ご、ご、ごめんなさい」
一方、蛇に睨まれた実菜ちゃんの顔は完全に血の気を失ってる。見ている方が気の毒になって来ちゃうわ。
「ごめんで済んだら警察なんか要らないわよ。さぁ、この絵を早く元通りにしてよ!」
これは親友実菜ちゃんの大ピンチ! 直ぐに助けなきゃ! なんて思う気持ちを一旦は封印して、
「ちょっと大地君、彼女が困ってるよ。助けなくてもいいの?」
『ここは男の見せ所』だと思って、まずは大地君に大役を譲ってみた。
「い、いや......な、なんて言ってやったらいいんだ?」
でも結果は完全に尻込みしてる。
仕方が無いなぁ......
そんな訳でスタスタスタ。仲裁を買って出るあたしだったの。こう言いことは、早く動いた方がいいからね。
「ちょっとかして」
未だヤカンから湯気が立ち上がってる佳奈子の画板を一方的に取り上げてみた。
「ちょっと、何するのよ?!」
見れば泥跳ねは数ヶ所に及んでるけど、上手くやれば何とかなりそうな気がする。
「大丈夫、任せて」
まずは、ああして、こうして......ここを刷毛でボカして......次に水で薄めて......指で延ばして......またああして......こうして......どうして......それで遂に程なく、
「はい、出来上がり!」
見事修正完了だ。
解説すると、
泥跳ねは幸いにも絵の下の方ばっかだったからその部分を水で薄めて、絵の中の地面とまずは同化させた。
更に元々塗られていた絵の具の色と上手く混ぜ合わせることが出来たから、グラデーションまで形成することが出来た。まぁ凡そ、そんなところ。
はっきり言って、これなら文句無いでしょう! なんてあたしは、自画自賛してた訳なんだけど......
「あら、意外といいかも」
直ぐ左隣の裕福女子が、素直な感想を述べてくれた。
「前の絵より良くなったんじゃない?」
更に隣の裕福女子も思ったことをそのまま述べてくれたりもする。
ここまでは思惑通りだ。それに対し、勝手に絵を描き変えられた当の佳奈子はと言うと......
「ふざけんじゃ無いわよ! 他人に手心加えられた絵なんてコンクールにあたしの絵として出せる訳無いじゃない! あんたあたしのことバカにしてるの?!」
ある種、正しいことを言ってるような気もするけど、こうする以外に親友を助ける術が無かったことも事実だったと思う。
でも結果は、凶と出たか......あたしは少し佳奈子を見くびってたらしい。
ちなみに、実菜ちゃんはさっきから泣いてるし、大地君はオドオドしてるだけだし、当の佳奈子は、頭から大噴火を引き起こして黒煙を上げてるし。
困った......どう収拾をつけたらいいんだろう?
そんな困り果ててたあたし達に、ここで突然救世主が現れたの。
それはまたしても......
あの人だった。
「佳奈子、ちゃんと絵描いてるか? ちょっと見せてみろ」
そこに現れた青年は、身長180センチ。細身の身体では有ったけど、決してなよってる印象は受けなかった。
切れ長の目、整った鼻筋、そんな精錬された顔立ちの青年に声を掛けられた佳奈子の方はと言うと、
「あっ、悠真くん!」
『よそ行き仮面』への切り替えスイッチを、素早くオンにしたのでした。
そう......今ここに出没した男子は、昨日濡れたあたしの頭をタオルで拭いてくれた不良集団のリーダーだった。
ちょっとびっくり!