教訓
「キンモクセイ......それと、スイートピー......」
突然そんな言葉を漏らす琴音。そして次の瞬間には、
「なんで?」
思わず首を傾げてしまう。
因みに......
彼女の記憶が始まったのは今からちょうど5年前。この大都会へやって来て以降の記憶だけ。そんな彼女の短い半生において、緑に囲まれた環境での生活なんかは存在しない。
ならばなぜ遠くから樹形を見ただけで、それがキンモクセイと分かったのか?
更にまだ花も咲いていないのに、なぜそれがスイートピーと分かったのか?
琴音が首を傾げてしまった理由は、凡そそんなところだった。でもいくら考えたところで、答えなど出る訳が無いことを、きっと彼女は理解していたに違い無い。
そんなこんなで......
時刻は9時50分。
時間の経つのは早いもの。とは言っても約束の時間までまだ10分も残ってる。
すると琴音は思い出したかのように、バッグから1枚のメモ書きを取り出した。それはきれいに折り畳まれたA4用紙。何やら文字がぎっしりと詰め込まれてる。
実は昨晩のこと。
琴音が母に今日の話をしたら、母は大いに喜んで愛娘にいくつかの教訓を与えたそうな。そんな教訓を余すところ無く書き込んだ紙がそれだったのである。
まずは教訓一つ目。
『約束の5分前に訪れなさい』
遅刻はもっての外だし、あまり早く行っても先方に迷惑。なので訪問時間は『9時55分』。まぁそんなところ。
なので琴音は四季折々の花に囲まれたアプローチを進んで行くも、入口の手前で足を止めた次第。
因みに、入口の扉は1枚ガラス。そんなガラスに映る自分の顔を横目で見ながら、ここで琴音は母から賜った2つ目の教訓に視線を移した。
『身だしなみだけはしっかりと』
とにかく人の印象は最初で決まる! だからお店に入る前に必ず鏡で自分の姿をチェックしなさい。まぁ、そんな内容。
琴音は操り人形の如く、今度はガラスに自分の姿を映し出し、身だしなみのチェックを始める。
まずは上から。
(頭)
しっかりと前髪で火傷の跡は隠れてる。ムースで固めてるから多少の風ごときでベールが剥がれることは無いだろう。
(顔)
母からは、『お客さんの前に出る仕事なんだから面倒でも最低限の化粧はするように』と言われてたので、ナチュラルメイクだけはしておいた。化粧崩れもしてない。難なくクリアー。
(首)
母が若い時に買ったシルバーのネックレスを借りて来た。『クロムハーツ』そんな名のメーカーらしい。
なぜドクロのマークが付いてるのかは不明だけど、曲がってないからこれもOK。
(上半身)
飾り気の無い真っ白のブラウスに、真っ黒のリクルートスーツ。
万が一上着を脱いだ時に透けるから下着は白にしろと言われてたけど、忘れて黒いのを付けて来てしまった。
でも上着を脱ぐことは無いだろうから大丈夫。よし、クリアー。
(下半身)
上着とセットのリクルートスカート。丈は膝より上。
母曰く、短い方が採用され易いとのこと。なぜかは分からないけど、こちらも問題無し。
(足)
肌色のストッキングにヒール高めのパンプス。
これも足が長く見えた方が採用され易いとのこと。歩くのに一苦労したけど、踵が折れて無いからこれもOK。
そして、時刻は9時53分。 いよいよ大詰めだ。
徐に視線を脇に向けてみると、そこにはキレイなポップ文字で描かれたメニュー看板が。ざっと見てもメニューの種類は30以上。それら全てに金額も記されている。
そんなメニューをじっと見詰める琴音の目は、心なしか輝いてた。
するとここで、ちょっとしたハプニングが巻き起こってしまう。
「あら、あなたは......」
なんと、メニューとにらめっこ三本勝負を繰り広げていた琴音の存在に、店内のウェイトレスさんが訪問予定の1分前に気付いてしまったのである。
「山村琴音さんね、お待ちしてたわ。どうぞお入りになって」
それは30才半ばの美しい女性だった。
霧島翔子の話によると、夫婦だけで店を切り盛りしてるらしいから、きっとこのウェイトレスさんは奥さんなんだろう。
そんなこといきなり言われても、母からは55分になったら訪問するようと厳しく言い付けられてる。なので、
「いいえ、まだ9時54分なんで入りません」
「え? なに? どうしたの?」
「はい、今ちょうど9時55分になったので入ります」
「え、あ、ど、どうぞ......」




