1冊のノート
一瞬顔が、??? になる智美ちゃん。そんな彼女の視線が兄に向けられると、
「そう言うことなんだ......智美」
兄は首を縦に振りながらそんな言葉を呟く。すると、
「あら、そう。それは良かったわ!」
一方、あたしの目を見ようともせずに階段を駆け上がって行く智美ちゃん。きっと重く成り過ぎた空気に耐えられなくなったんだろう。
正直言って、あたしは智美ちゃんのことを恨むどころか、むしろ感謝の気持ちでいっぱい。だってあたしと琴音が一番苦しかった5年前、この家に住まわせてくれたんだから。
あの事件のせいで故郷に居られなくなったあたし達は、もう路頭に迷うしか無かったの。そんな時、手を差し伸べてくれたのが兄さん。もう、本当に嬉しかったわ。
兄の妻、和子さんは、あたし達がこの家に上がり込む半年前に病気でこの世を去ってたの。
とにかく智美ちゃんは近所でも有名なお母さん子。その時はかなりのショックだったと思う。
まだ悲しみの絶頂だった時に、他人の親子が雪崩れ込んで来た訳だから、それはもう嫌で嫌で仕方が無かったと思うわ。
だからあたしと琴音はどんなに酷いことを言われようとも、それを受け入れるしか無かった。
でも全てはこれで終わり。なんせ来月になったら、あたしと琴音はこの家を出て行くんだから。
そんな中、最近になって一つだけ気掛かりなことが出来てしまったの。
それは、
「ゲホッ、ゲホッ......」
突然胸と背中が痛くなって、咳が止まらなくなる。
「おい、美和。大丈夫か? 最近やたらと咳込んでるみたいだが......」
「大丈夫よ。疲れが溜まってるだけ。健康だけがあたしの取り柄なんだから」
「少し仕事休んで大きな病院で診て貰った方がいいんじゃないか? お前が倒れたら一体誰が琴音の面倒を見るんだ?」
正直、兄さんの言う通りだと思った。琴音が元に戻るまでは、何がなんでもあたしが頑張らなきゃならない。 やっぱ病院に行って来よう。愛する琴音の為にもね......
あたしが顔を上げ、塞ぎ掛けた心に火を灯したその時のことだった。
ギー、ガチャン。
今度は予告無く玄関扉が開放を見せる。今誰が帰って来たのが誰かなんて考えるまでも無いこと。
「あ、あら琴音、早かったのね」
「セ、セミナーに行ってたんじゃ、な、無かったのか?」
「セミナーは......途中で......帰って来た」
どうやら...... 予定より早く帰って来た理由はそんなことだったらしい。
「お前、もう22才だろ。いつまで母さんの世話になってるつもりなんだ?! 少しはお母さんのこと考えて......」
「いいのよ! 琴音、行きたくなったらまた行けばいいの。そんなことより、今日もソルトを散歩に連れてってくれてありがとね」
兄さんの言いたくなる気持ちはよく分かってる。
5年経った今でも、まともに働くことすら出来ない姪に苛立ちを覚えてるんだろう。でもそんな感情をぶつけたって今の琴音には逆効果。
琴音は琴音のペースで、少しづつ回復していってくれればいいと思ってる。
するとここで......琴音は思いもよらない言葉を発したの。
「まず......土に1~2センチほどの穴を開けます。1つの穴に......2~3粒を蒔きます。蒔いたら......1センチ位の土を被せます。その後......水をたっぷりあげて......終わりです」
何を言い出すのかと思ったら、そんなことだった。
「お前、何を言ってるんだ?」
もちろん兄さんにそんな話の意味が分かる訳も無かった。でもあたしは彼女の手を見て直ぐにその意味を理解したわ。
その時、彼女の両手は間違いなく土で汚れていた。それは家に入って来る前に泥いじりをしていたことの証なんだと思う。
やがて琴音はテーブルの上にゆっくりと手提げ袋を乗せた。するとそこから一冊のノートが直ぐに顔を出す。
そんな2人の疑問符を他所に、琴音は自分の部屋へと戻るべく、
トントントン......あっさりと階段を上がってしまった。




