別人
「誰って? 僕は光太だ! そんなのどうでもいいだろ。早くこのボードどかして! 足が挟まって逃げれないんだって! ああ、もう火がすぐそこまで来てる......熱い、熱い......お姉ちゃん、助けて、早く助けて!」
「......お姉ちゃん」
「そうだよ、お姉ちゃん、助けて!」
恐らく光太は、迫り来る死への恐怖から訳も分からずに、琴音のことをそんな代名詞で呼んでいたんだろう。
しかしこの時、そんな言葉を聞いた琴音は、明らかなる変化を見せたのである。
その証拠に、それまで身体を支配していた『震え』と言う名の足枷が、いつの間にやら消えて無くなっている。
一体彼女の脳の中で何が起こったと言うのだろうか?
やがて琴音はしっかりとした足どりで立ち上がると、
「賢也......」
そんな言葉をポツリと漏らしたのでした。そして次の瞬間、琴音は光太の足を押し潰してるボードに手を掛けると、一気に持ち上げた。
そして、
「えいっ!」
バサバサバサッ!
なんと! 明後日の方向へ投げ飛ばしたのである。一体この細い身体のどこにそんな力が宿っていたのか? 全く持って理解不能だ。
「すっ、すげーっ!」
驚きの表情を浮かべてる光太を他所に、琴音の方はと言うと、今度は埃の付いた手をパンパンと叩きながら余裕の表情を浮かべてる。
さっきまで頭を抱えてブルブル震えていたその者とは、まるで別人にしか見えない。
「さぁ......逃げるわよ! あんた何ボーっとしてんのよ?! 気合い入れなさい!」
「こ、琴音ちゃん、ど、どうしちゃったの?! まるで別人なんだけど......それはそうと、逃げるってどこへ?! 火に囲まれちゃって逃げる所なんか無いじゃんか!」
「それが有るんだって! いいから付いて来なさい。リリーとゴローに笑われたく無かったら早くして!」
「は、はい......」
そんな琴音の言に反応して光太くんは東西南北、更には天井までも隈なく見渡した。しかしどこもかしこも炎と黒煙ばかり。
逃げる場所なんか有る訳無い! 即座にそう思った光太くんの思考は、むしろ自然と言えよう。
果たして......
別人と化した琴音はこの窮地をどう潜り抜けようとしてるのだろうか?
もしその答えを知る者が居るとすれば、恐らく琴音以外には神様だけだったのかも知れない。
今はただ祈るとしよう。2人が無事この窮地から逃れられることを......
※ ※ ※ ※ ※ ※
一方その頃、
純喫茶スイートピーでそんな惨事が起こっていることなど露知らず。
明日の仕入れの一部を業務用スーパーで終えたばかりの隆美さんは、どんな様子だったのかと言うと......
さぁ、早く帰ろう。ちょっと心配になって来たわ。悪い子じゃ無いんだけど、あの子はほんとぶっきらぼうだから。琴音ちゃんに失礼なこと言わないか心配だわ......
そんな事情も有って、いつもより少しだけアクセルを強く踏みながら帰路を急いでいたのである。
ちなみに高見家の車は、ダークグリーンのミニクーパー。店のイメージとシンクロさせたのかどうかは分からないが、主人たる店長のこだわりらしい。
そんなコンパクトとも言える車の中では今日もBeatlesのメロディがしっかりとBGMの役割を担っていた。
Help! I need somebody
(助けて!僕には誰かが必要だ)
Help! Not just anybody
(助けて!ただ誰でもよいというわけではないけれど)
Help! You know I need someone
(助けて!わかるだろう 僕には誰かが必要だ)
Help!
(助けて!)




