身代わり宮の明玉 四
明玉は透明な水に感動した。
『流石王宮だわ。こんな綺麗な水で顔を洗えるなんて』
さてさて、明玉はうっとりしながら、水苦の刑を堪能している。
『三日も洗顔していなかったから、気持ち良いわ。……飲んでもいいのかしら?』
はてはて、明玉は少しだけ舌を出す。
『なんて、美味しいの!』
明玉は実家の裏山を思い出した。
貧乏名家の沈家が唯一手放さない、宝の山である。いや、食材の宝庫。
清流に潜り魚を捕っていた明玉は、それなりに息が続くのだ。
しかし、屋敷まで水路は引けず、明玉は溜めた雨水でしか生活していない。時折、半日かけて裏山を登り水浴びするしかなかった。
もちろん、食材の確保をしてからの下山で、屋敷に着く頃には汗だくであったが。
本末転倒の水浴びだ。
『水苦っていうから、汚い泥水にでも顔を浸けるかと思いきや、これじゃあご褒美ね』
明玉が、そんなことを思いながら、水苦を堪能している中、陰宮に新たな人物が入ってくる。
「御上!」
綺羅々后が素早く椅子から立ち上がる。
汀良王が陰宮に入ってきたのだ。その顔は怒っている。
綺羅々后や白梅正妃、麗羅正妃は体を震わせた。
すぐに膝を折ろうとするが、汀良王は『止めよ、動くな』と眼光鋭く言い放った。
中途半端な膝折れのまま綺羅々后らは動きを止めた。
「陰湿だな」
後宮のことは、全て汀良王に報告されているのだ。
汀良王が鼻で笑う。
「后宮で一番この陰宮が使われているとは」
汀良王がギロリと綺羅々后を睨む。
「不敬を」
「誰が口を動かしていいと許可したのだ?」
綺羅々后に汀良王が問う。
綺羅々后が頭を下げようとするが、動くなとの命令に反するため青白い顔で瞳を揺らすだけだ。
「後宮が開宮してまだたった一カ月しか経っていない。身代わりが全滅するほど、正妃らは妃教育が成っていないのか? 后よ、申してみよ」
「き、妃教育だからこそですわ。小さな失態も見逃していません」
汀良王がニヤリと笑う。
「先ほど、后は我の命令に反し口を開いたな? その自身の失態にも、もちろん処罰を科すのだろうな? 申してみよ」
綺羅々后がヒュッと息を吸う。
「も、もちろんにございます」
「身代わりは許さぬ」
汀良王の言葉に、綺羅々后が目を見開いた。
「妃教育もまま成らぬ后。妃の資質がない正妃ら。后宮も後宮も、まだ開宮には早かったようだ。未熟な宮に、我は足を運ぶことはない!」
「御上!」
綺羅々后が思わず声を上げる。
「また、命令に反するのか。后の資質も問わねばらなん状態」
ドンドンドン、バシャバシャ……
突如、陰宮に荒々しい騒音が起きった。
『……流石に、ちょっと苦しいのだけど』
明玉は息苦しさにたじろぐが、女官二人に押さえ込まれているため、動けない。
『ウクッ、これが水苦の刑。確かに苦しいわ。そうね、苦しまなきゃ処罰にならないのだわ!』
明玉は綺麗な水を堪能するあまり、罰であることを忘れていたのだ。
『それらしく、苦しまなきゃ……いや、すでに苦しいしぃぃ』
明玉は渾身の力で手足をバタつかせる。
首も上下に動かし、バチャバチャと水を跳ねさせた。
だが、女官の力は明玉をさらに押さえ込もうとする。
なぜなら、汀良王が『動くな』と命じていたからだ。后や正妃でさえ、それに倣っているのに、女官が逆らえるはずもない。
『ヤバい……意識が遠退いて……私、明玉、天に昇るの、ね……』
汀良王が明玉の状態を認識し、『殺すな!』と女官に命じる。
明玉は、いきなり顔を持ち上げられ、水しぶきが舞った。
「プッハ、ハァハァ」
明玉は大きく口を開けて空気を吸い込む。
「身代わり宮は一カ月の休宮だ!」
汀良王が大声で発した。
皆がいっせいに膝をつき、頭を垂れた。
明玉は、拘束していた女官の手が解かれ、ふらつく。
汀良王が倒れそうになる明玉の腕を掴む。
「大丈夫か?」
「美味しゅうございましたぁ」
「は?」
明玉は視界が霞む。
体の力が抜け、白く霞む世界でチカチカと光が弾ける。
「お迎えですかねぇ」
明玉はニヘラと笑った。
「極楽、極楽ぅ」
明玉は、天へ昇っている気分だ。
パッチーン
明玉に別のチカチカが弾ける。
汀良王が明玉の頬を叩いたのだ。
「おい、しっかりしろ! これを運び労れ」
花鈴が進み出て、明玉を支える。
「明玉代妃、宮に戻りましょう」
「へ?」
明玉はそこでやっと周囲の様子を見回すことができた。
そして、汀良王と視線が交わる。
「麗しきお方……」
汀良王のこめかみがピクッと動く。
汀良王は眉目秀麗の容姿なのだ。故に、後宮の争いが起こるのも当然と言える。
艶やかな黒髪、切れ長な瞳、鼻筋が通り、唇は薄く、清廉を絵で描いたような顔面に、スラリと長身。にもかかわらず、鍛えられた肉体が衣服の上からも窺える。袖から出る武骨な手が証明していた。
柔な王ではない。
兄弟の血の争いの勝利者であるからだ。
「明玉代妃、御上です」
花鈴が明玉のひざ裏をガッと叩き、膝を折らせた。
「イタッ」
明玉は床に両膝を打ち付けた。
だが、花鈴が明玉の頭を押さえつける。
「本日、身代わり宮に入宮したばかりの右も左も分からぬ妃にございますれば、どうか、寛大なお心を施しくださいませ、平に平に」
花鈴がひれ伏して告げた。
明玉もふわふわした、否、クラクラしている頭を床に付け、ひれ伏す……休んでいる。
「今日入ったばかりで、すぐに身代わりとは……」
汀良王が綺羅々后を睨む。
「も、申し訳ありません」
綺羅々后も床に手を付いて伏した。
正妃や女官らも同じくひれ伏す。
「そこの二人以外は中腰の体勢をとれ」
汀良王が言い放ち、侍従に『一刻監視せよ』と命じた。
それから、明玉と花鈴に向き直る。
「宮に戻り休め。……身代わり宮に労い膳を」
「ありがたき幸せに存じます」
花鈴が答え、明玉を支えて立ち上がった。
とはいえ、面は伏したまま腰を曲げて、後ろに下がる。
明玉はされるがまま従ったのだった。
輿に揺られながら、明玉はうとうとする。
「どうぞ、罵倒でもなんでもおっしゃってください」
花鈴が悲痛な声で言った。
「はへ?」
明玉は口元を拭いながら花鈴をみる。うとうとして、よだれが出ていたかもしれないと、明玉は照れた。
「入宮し、いきなり身代わりを命じられ、恨み辛みを口にするのが普通でございます。どうぞ、その辛さを私にぶつけてくださいまし!」
それが、身代わり妃付きの女官の役割なのだ。
「えっと……別に辛いことはなかったけど?」
花鈴が目を見開き、ぽやーんとした表情の明玉をまじまじ見つめた。
「水苦っていうから、泥水かと思ったら綺麗な水だったし、堪能しちゃって苦しむのを忘れちゃったのよ。もっと、演技力を磨くわ」
「……はぁ」
花鈴が呆けて感嘆を漏らした。
「ところで、上乗せの給金は誰からいただけるの?」
「……今回は、麗羅正妃の身代わりですから、麗羅正妃の個人出金になります」
明玉は瞳を輝かせた。
「身代わり宮に支給される給金は別途ございますが……」
花鈴がそこで思案する。
明玉もハッと気づいた。
「休宮よね!?」
「はい。一カ月は役割のない宮ですから、給金は出ぬかもしれません。後宮の予算は、后が握っておられますので」
汀良王に絞られた八つ当たりを身代わり宮に科すと、花鈴は予想したのだ。
つまりは、一カ月分の給金はないだろう。
明玉は口を尖らせる。
「濡れ損かぁ」
「……明玉代妃は、悲壮感がありませんね」
「それ、なんの役に立たないじゃない」
明玉は明快に答えたのだった。
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