身代わり宮の明玉 十七
『野猿の見張りか』
後宮に身を潜めながら移動する青衛は、内心で呟く。
『それにしても……あの野猿只者ではないな』
そんなことを思うのは、例の裏山で明玉を見失いかけたからだ。
自身の密偵としての能力を、根底から覆された。
それも、十代の娘に。
明玉の下山の速さに、追いつけなくなりそうだった。あの時の心の衝撃は口では言い表せない。
『碧月城の密偵が追いつけないほどの脚力だ。心して見張らないと』
明玉が脱走でもしようものなら、必死に追いかけなければ、脱走は成功してしまう。いや、それを未然に防ぐようにとの命令だ。
『……あれだよな』
青衛は、明玉の姿を視界に捉えた。
思いもよらぬ所に、明玉はいる。
『柿の木の次は、冷宮の屋根とは恐れ入った』
冷宮とは、その名の通り冷たい宮殿、廃された妃や、御上から罰せられた者の幽閉場だ。
陰宮が后の特権である懲罰宮で、それを上回る場が御上管轄の幽閉を主とする冷宮である。
后宮殿にありながら、御上の管轄となる。
日当たりの悪い場にある冷宮の屋根に、明玉らしき者を青衛は確認し、気づかれぬように近づく。
「嘘だろ?」
青衛は思わず声が出た。
それもそのはず……明玉が屋根で寝ていたからだ。
高履きを枕に。
スーヤスヤと。
青衛の驚きは裏山同様に匹敵する。
屋根でバランスを崩さず寝るなど、常人にあらず。仙人の域である。
『……』
言葉も出ない。いや、出してはいけないのが密偵だ。
『人にあらず……野猿のなせる技』
青衛は、明玉を超人だと納得しかね、野猿なのだと自身に言い聞かせる。
『えっと、見張っていればいいんだよな……昼寝を』
青衛は明玉から見られぬ位置で、息を潜めて明玉を見張る。いや、昼寝を見守るといったほうが合っているだろうか。
『まじかよ。脱走を危惧したのに、昼寝かよ。それを見張る俺の気持ちにもなってみろよ。ただただ、寝人を見続けるんだぞ。はぁ……気負ってきたのが馬鹿らしいじゃないか』
などと、青衛は内心で愚痴っている。
『あんな妃がいるとはな』
青衛は愚痴りながらも、明玉を眺めて無意識に笑んでいた。
そこに、状況を把握するためか同僚の密偵が現れる。
『……まじか』
青衛同様に、驚いていた。
『報告は、対象者昼寝中でいいぞ』
青衛は同僚にそう託した。
周辺に人がある場合の密偵同士の会話は、基本手話である。
『他には?』
同僚が青衛に追加を要求した。
昼寝中だと報告しても、訝しまれること間違いない。それに対する返答も促されたわけだ。
青衛は、少しばかり思案して手を動かす。
『詳細に報告すればいい。冷宮の屋根で高履きを枕に睡眠するは野猿の如し』
同僚が口元を押さえた。噴き出すのをなんとか我慢したようだ。
『了解』
同僚が軽く手を上げてから、報告に向かった。
青衛は、陽の高さを確認する。いつまで寝ているのかと、明玉から視線を外すこと一瞬。
視界の隅に翻る何かを察知し、慌てて明玉の方を確認する。
揚羽蝶のように艶やかな色が、屋根から降りていくのを青衛は眺めてしまった。
ハッとして、青衛は明玉を追う。
『嘘だろ、俺が覚醒の気配に気づかないなんて』
青衛は、艶やかな衣装を翻しながら歩く明玉をつけた。
「……昼寝だと?」
汀良王の口元がヒクつく。
「あっのっ、猿め!!」
もしや、脱走かと気をもんでいたのに、まさかの昼寝ときたものだ。
安堵とともに、ムカつく気持ちになったのは言うまでもない。
と、そこに后妃の集会に潜ませた間者から報告があがる。
汀良王はイライラしながら報告書に目を通す。
報告書を読み進むにつれ、汀良王は目を見開いた。
「あの猿、なかなかやるものだな」
汀良王は、徳膳にも報告書を渡した。
徳膳もすぐに目を通し、内容に唖然とする。
「陰湿な正妃の一人を陥落させ、后からも扇子を賜ったとは……知略も長けているということ。身体能力だけでなく、頭の回転が速く、機転が利く。代妃ではもったいない、失敗しました」
「確かに、福妃あたりでも良かったかもな」
徳膳の発言に続き、汀良王は少しだけ残念そうに言った。
だが、徳膳がとんでもないと、手を横に振る。
「密偵や間者に引き抜けば良かったと後悔しています」
汀良王以上に、なんとも残念そうな徳膳である。悔しげの方が大きいか。
「……」
それを無言で汀良王は見て、はぁーと息を吐きながら脱力した。
「まあ、一人放り出されて、気晴らしにぶらぶらしたのだろう。青衛には猿……コホン、代妃明玉を身代わり宮へ自然に戻らせるよう、促してくれと指示してくれ。どうせ、迷ってのふて寝だ。迷わず戻れるよう、それとなく上手くやってくれとな」
徳膳が頷き手配する。
先ほど昼寝の報告にきた密偵に、汀良王の命令を指示した。
もちろん、天井に待機していた密偵に。
だが、一時もしないうちに、その密偵と青衛が戻ってきたようだ。
天井から合図を受けて、徳膳が状況を確認している。
「もう一度訊くが……確かか?」
再確認しているのが耳に入り汀良王は政務書類を机に置き、徳膳の側に寄る。
徳膳は軽く頭を下げ一歩下がって控えると、汀良王の目配せを受け人払いに向かった。
汀良王には、常に横に侍る徳膳の他に、部屋の出入口に二名、部屋の外には控えの侍従らが十名ほど待機している。
部屋の周辺から、お付きの者らが遠ざかった。
徳膳が人払いを終えると、汀良王は天井の密偵青衛に、降りるように命じる。
スタッと降りた青衛が、汀良王の前で片膝をついて頭を下げた。
「報告を」
「はっ」
青衛が息を吸い込んで口を開く。
「昼寝より目覚めて、迷うことなく身代わり宮へ進み」
「待て」
汀良王は、青衛に『本当なのか?』と訝しむ瞳を向けた。
青衛が頷く。
「正確に言えば、冷宮より身代わり宮に一番近い嬪屋敷まで最短の道で歩き、そこでいきなり……ヨヨ、と泣き真似をしながら、屋敷を管理する女官に助けを乞うていました」
「は?」
青衛が口にした内容に、汀良王は理解が追いつかない。
「その女官が身代わり宮まで案内し、そこでてんやわんやしている身代わり宮の女官らが、明玉代妃を大いに労りながら出迎えていました」
てんやわんやしていたのは、花鈴が綺羅々后の扇子を身代わり宮に運んだ後、また彩輝宮へ戻ったが、妃の集会は終わっており、妃らは帰したと彩輝宮の女官に門前払いされたからだ。
それも、明玉だけ案内なし輿なしで帰したと嘲笑されて。
かくして、身代わり宮の女官や官女らにより明玉の捜索が始まる予定だった。そこに、明玉が嬪屋敷の女官に連れられて帰ってきたというわけだ。
身代わり宮の門前では、彩輝宮の女官もニヤニヤしながら、てんやわんやしている様子を見ていたが、明玉が思いの外早く帰ってきたことに、残念がっていた。
ただ、明玉が、ヨヨ、と素顔で泣いていたので、『いい気味』などと陰口を叩いていた。
「門前では、ヨヨ、と泣いておりましたが、門を潜ってからはケロッとしておりました」
汀良王はこめかみを自身の手で揉んだ。
「内容からして、あの猿は」
最後まで口にせず、汀良王は青衛に視線で促す。
青衛がコクンと頷き口を開く。
「猿芝居をしていたように思います」
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