酒に酔う。
しばらくの間、どこかに置いて忘れていた歯車を、急にはめたかのように、ぎこちなく動き出していた。
大人になった。そう言われたのは30を回ろうとした頃だった。会社の同僚や上司達から、揶揄された幼さは、一体何をもって「大人」になったのだろうか?
明確な答えを示す事をしないまま、会社は俺を評価していた。
不満という程の意地もなく、陰鬱になる程の情熱も、仕事にはもうなかった。
嫌いな仕事では無かったし、確かにあった熱意は、時間の経過と共に、古くなった染物のように色褪せた。
そうする事で会社は、俺を評価して、順調な出世へと導いた。
6年間一緒に過ごした彼女は、とうに冷めた熱の捨て場を無くしたかのように、短くごめんねと告げて、離れていった。
漠然と結婚という先を見ていた、見ていただけだから痛みも無く、薄ら寒い空白だけが残った。
空白を埋めるために、外で飲み歩いてみた。
もとより酒は好きで、馴染みの店も、飲み友達も簡単に見つかった。
今ではコレが当たり前で、何も不自由がなくなった。
「あれ?今日は一人じゃないんすね。珍しい。」
いつもの店のカウンターで、俺よりも2、3個歳下だったはずの好青年に言われて、ハッと右隣を見た。
濃い栗色の髪の毛を後ろでまとめた女が、一人でジョッキを持ち上げていた。
店内が混み合ってきたから、カウンターに通されたのだろう。
連れでも知り合いでも無いのを確認すると、俺は知らぬふりをして、日本酒に戻った。
視界の横でジョッキが置かれ、耳の隅で佐賀の酒を頼んだ声がした。
女性で日本酒を呑む人は珍しいな、それくらいの好奇心で盗み見た。
彼女は綺麗に注がれた日本酒を、満足そうに眺めると、神聖な儀式のように慎重な動作で、一口つけた。
キレのある華やかな酒で、後味もいい好みの酒だった。
良い趣味してるな。ただそう感じた。
視線を戻して、イサキの刺身を口に放った。
半分ぐらいの長野の酒を、ゆっくりと口に含んで、明日の休みはどうしようかと、他愛のない事柄を、周りの喧騒に任せながら考えるのが好きだった。
ただその時は、違った。
「せっかくの連れなので、良ければお話ししませんか?」
右隣から、程よく俺にだけ聴こえる声量とトーンで女は声をかけてきた。
盗み見るでもなく、視界に捉えた相手は少女だった。
瞳がイヤに印象的な少女だった。肩ほどの髪を外に跳ねさせ快活さと大人の女性らしさを、纏っているようだった。そして、少女の割には少し低めの鼻にかかったような声だった。
名前はサチと名乗った。
それからは、馴染みの店で会えば、必ず一緒に呑んだ。
連絡先を交換はしておらず、待ち合わせもしない、ただカウンターで横並びに呑むのが、ルールだった。
彼女は留年が決まった大学生らしく、彼女の世界の話をたくさん聞いた。
バイトの話、家族の話、友人の話。恋人の話。
俺は俺で仕事の話や、去っていった恋人の話。
別段話題があった訳ではないが、他愛のない話を肴に、サチと呑む酒は美味かった。
目の前に置かれた、蒼色のラベルに金色の文字で銘柄が刻まれた日本酒。
キレがあるが、飲み口はしっかりしており、後味も悪くない。
冷やしてもぬるめでも、締めに燗にしても楽しめた。
サチが良く好んで呑む酒だ。
いつものように刺身を、つまみながら飲んでいると、分かっていたかの様に、サチが隣に座る。
程なくして煮卵を肴に、サチも日本酒を飲み始めた。
「美味しいなぁ。」
身体に沁ませる様に、彼女は呟いた。
「おつかれさま。」
「おつかれさまです。」
そうして二人の酒は始めるルールだった。
お互い酒が呑めた。
酔いに任せる事なく、店の閉店まで酒を呑む。
店を出れば、手を振り別れる。
ある夜に店の店長から、メッセージが届いた。
「今日はいいあん肝が、あるよ。」
魅力的な肴だったが、明日の仕事が早いのを考えると億劫だった。
迷う様に時間を置いていたら、知らない番号で電話が鳴った。
普段なら知らない番号は出ないのに、咄嗟に出てしまったのを、のちのち後悔した。
「来ませんか?あん肝、美味しいですよ?」
よく知る声だった。媚びる事のない低音の声が、聞こえた。
いつもより少しペースの早い彼女の横に座った。
一杯目から日本酒を頼む。
「ルール違反じゃないか?」
頬を赤らめたサチに、言うセリフが思いつかず意地悪な様を、見せてみた。
俺の前に置かれた日本酒を確かめると、黙ったまま自分の小皿のあん肝を少し齧り、残った半分くらいのあん肝を、有無を言わずに、俺の口に放られた。
「ね?美味しいでしょう?」
「たしかに、こりゃ美味しいね。」
いつもよりペースが早い時、それは何かあった時。
「ほら、何があったのさ。話しを聞くよ?オジサンに話てごらんさ。」
こちらのペースを乱されたくなくて、おどけてみせて、普段の二人の酒の席にした。
いつもの様に、アレやコレやと話す彼女の話を聞きながら、実は話の半分も記憶に残らなかった。
話の合間に、サチが漏らした。
「ルールなんて、ありませんよ。」
その一言が、鮮烈な熱を持って、喉元に残っていた。
季節は緩やかに変わり、ひやおろしも殆どなくなり、はつしぼりの時期も過ぎ、そんな風に時間は流れていた。
仕事は変わらず単調で、順調すぎる社会に、漠然とした不安と不満を募らせていた。
なんの気なしに、普段と違う場所で上司と飲んだ。
仕事の愚痴を言い合う中で、仕事に対する空虚な部分が、浮き彫りになるようだった。
味気のない、好みではない酒を飲んでいると、無性に苛立ちが募り、上司と別れいつもの店に帰ってきた。
サチは居ない事に、僅かな怒りを感じつつ、4合目を呑んだところで、意識は切れた。
久しく体験していなかった程の吐き気と、頭痛に目を覚ませば、自分の部屋だった。
記憶を飛ばしたのは、どれほどぶりだろうか?
それほどまでに鬱屈が溜まっていたのだろうか?
重い身体をひきづって、水を一気に飲み干すと、放り投げられたように置いてあるスマホを拾う。
昼ごろを指す時刻に、休みで良かったと安堵して、再びベットに横になった。
ふと気づく。
サチとのやり取りの履歴があった。
メッセージを数回やり取りした後、通話していたようだ。
少し血の気が引いた。
一体俺は何を話したのだろうか?
メッセージの時点で荒唐無稽な事を言っている。
電話で30分以上も、何を話したのだろうか?
思い出そうにも思い出す材料もなく、程なくして自責の念に観念して、目を逸らすように眠りについた。
「ごめん。酷く酔っ払っていたみたいで、全然記憶にないんだ。迷惑をかけた。」
「いいんですよ。酔ってるのはすぐ分かりましたし、楽しかったです。」
いつもの席で再開した彼女に、素直に詫びを入れた。
さも気にした様子は見えない。
下手に掘り返して、恥を上塗りするのも億劫で、いつも通りの酒の席にした。
ただ、泥酔し酩酊している時に、安堵を求めた相手がサチだった。
その事が、自分自身に大きな楔を打ち込まれた様な衝撃だった。
知ってしまえば抗えず、自覚してしまえば止まれない。
幾度も見た笑顔が、幾度も聞いた声が、今までに無い鮮やかさを持って、思い起こされる。
大きなため息をついて、いつもの席に居た。
認めてしまいたい自分と、まだ認めたくない自分。
ほとんど意味のない論争を、自分の中で冷静に整えたかった。
結局のところもう一度会えば分かるのでは?なんていう陳腐な言い訳をたてて、席についてしまった。
分かっていたかのように、隣に座ったサチの瞳を、真っ直ぐ見据えた時。
自分を嘲笑うかのように、ため息がついて出た。
茨城の酒が、スッキリと抜けていく喉に、言葉にしてはいけない異物を、しっかりと認識した。
渡りに舟と言うべきか、昇進をかけて舞い込んできた半年の出張話に、飛びついた。
半年間、遠い地で仕事に明け暮れた。
その地、その場での酒と出会いもあり、サチに対する全てを半年かけて蓋をした。
だが終わっていないものは、過去には出来ない。
出ていった彼女に教わった事を、俺は全く理解していなかった。
帰ってきたいつもの席には、誰もいない。
帰郷の挨拶もそこそこに、懐かしい場所での酒を楽しんだ。
春の名がついたこの酒は、超辛と銘打ってあるように、スッキリと最後まで抜ける旨さがある。
なかなか酔えずに、蒼いラベルの酒を熱燗にして貰った。
店長と他愛のない会話を繰り返して、閉店前に家路についた。
抜ける風が、火照った身体を冷やしていく。
酔いたくて呑んだのに、冷静さを突きつけられる。
ああ。なんて間抜けなのだろう。
ただあの子の声が聞きたいと渇望している。
酔いきれなかった自分が惨めで、しばらく酒は控えようと夜空に嘯いた。
読んで頂きありがとうございます。
感想頂ければ幸いです。