彼女にキスをしたら吐かれたのだが?
彼女とキスをした。デートスポットとして有名な川辺の公園で。
運動場には少年野球の試合の応援に来た保護者達。川辺には初夏の暑さから逃れるために川遊びに興じる親子連れの賑やかな声が聞こえてくるが、木々に遮られ奥まったこの場所には俺たち以外の姿はない。
世界から二人だけ隔離されたようなこの場所で、俺からキスをした。
人生初めての彼女。キスも人生初めて。心臓が飛び出そうなほどにうるさい。彼女の肩に添えた手は緊張から少し震えている。肩にかかる髪が手に当たる。髪に温度なんてないはずなのにほんのりと温かみを感じるような気がした。
常日頃から柔らかそうだと思っていた唇は、俺の想像通り。いや、想像以上に柔らかくて、滑らかで、俺のガサガサな唇とは完全に別物だった。
女の子の唇とは皆こんなに柔らかいものなのか、それとも彼女の唇がことさら柔らかいのかは現在の彼女が人生初めての彼女である俺には皆目見当つかない。
抱きしめた彼女の体はとても細くて、少しでも俺が力を入れると折れてしまうのではないかと心配になる。彼女も年頃の女子らしくダイエットとか気にしていたが、むしろもう少し太ってもいいぐらいだ。
彼女からほのかに香る甘い香りは香水ほどきつくない。きっとシャンプーかコンディショナーの香りなのだろう。主張するほど強くはないけれど、確かに記憶に残る清潔感のある品のいい香りだ。白百合の様に気品のある彼女にはとても似合っている。
付き合い始めて早一か月。今まで恋人など出来たことがない恋愛初心者の俺は彼女に嫌われるのが怖いとか、タイミングがつかめないとか、雰囲気がある所がいいとかそんなこんなでいままで手すら繋いでなかった。
そんな現状を知った友人に焚き付けられて今日のデート中に手をつなぐ、キスをする。というミッションを課せられた。俺としては正直荷が重すぎるミッションだったが、「人妻もののAV隠し持ってるって彼女にばらされたくなければやれ」と脅されたので渋々従うことになった。
ひとつ訂正させてもらうが、人妻ものAVは俺の私物ではない。ミッションを貸してきた友人が前に無理やり押し付けてきたものだ。断じて俺の趣味ではないのだ。実に理不尽極まりない。
まあ、彼女と少しは進展したいと思っていたのは事実なので、俺はミッションに従いそれなりに頑張ることとした。公園をのんびり散策しながら (俺にしては)さりげなく手をつなぎ、一つ目のミッションはクリアし、二つ目のミッションであるキスも今こうしてクリアと至った。
まるで夢を見ているかのではないのかと思ってしまう。焚き付けた友人に若干感謝しつつ、夢心地だった俺の肩に彼女の手が触れた。小さく震えている様子に彼女の緊張しているのかと思うと俺だけではなかったのだと嬉しく思う。
しかし次の瞬間、ガシリと肩を鷲掴みされたかと思うと彼女は俺の体を強引に引きはがした。
「巴さん……?」
どうしたというのだろうか。彼女は胡桃色のつぶらな瞳を大きく見開き俺から二メートルほど距離をとると、崩れるかのようにその場に蹲った。
艶やかな栗色の髪が、緩やかに肩から滑り落ち彼女の顔を隠す。
今の巴さんに俺の声など聞こえてないようだ。
様子のおかしい巴さんに駆け寄ろうとした瞬間、彼女は嘔吐く。声をかける暇もないまま彼女はその場で嘔吐した。すえた匂いがツンと鼻につく。突然の事態に踏み出した足が固まったかのように動かない。
頭が混乱してて、まず何をするべきなのかわからない。
「……ごめん」
俺が役立たずにも一人あたふたしていると、ぽつりと聞き逃しかねない小さな声で彼女は呟いた。
謝ることなど何もないだろ。突然体調を崩すとか誰にでもあり得ることだ。そんな泣きそうな顔で謝らないでほしい。
身長は百六十は超えて女子の平均より高い巴さんが今は酷く小さく感じた。
「き、救急車……!」
スマホをズボンのポケットから引っ張り出して慌ててロックをはずそうとするけど、急いでいる時に限ってパスワードを間違える。
ようやく鍵を開けたはいいが、番号がわからない。正確には110と119どっちが救急車なのか思い出せない。焦る指先は酷く震える。
「大丈夫」
そう気丈にも彼女は言った。何が大丈夫なものか。先ほどまで桃色に染まっていた彼女の頬は青白く変わっているじゃないか。こんな時に強がらないでくれ。
「よく、あることだから」
よくあることってなんだよ。もしかして、重い病気でも抱えているのだろうか? 学校で見る彼女は健康そのものにしか見えないが。
「ごめんね。折角のデートだったのに嫌な思いさせちゃったね」
悲しげな瞳を伏せながら巴さんは再度謝った。
だから、謝る必要なんてないんだって。どこか諦めたように笑う君を無性に抱きしめたくてたまらなくなったが、病人にそんなことは当然できない。
なおも救急車を呼ぼうとしたが彼女に必死に止められてしまった。そこまでのことではないという。健康優良児の俺としては吐いただけで大事なのだが……。
当然デートはそこでお開きとなり、そこで解散となった。俺は家まで送ると言ったのだが、巴さんの母親が車で迎えに来てくれるらしい。高校生の俺は当然車など持っていないのでそこは任せるしかなかった。
ただ一つ、帰ったら無事帰り着いたという連絡だけ入れてくれと約束した。どこかで倒れてでもしたらと思うと気が気ではなかった。それほどに俺は彼女が心配だった。
想定外の事態に頭が真っ白になったまま一人帰路に着く。彼女の事ばかり考えていたので、家までの記憶は全くない。
気が付いたら見慣れた自室だった。
※※※
俺、佐伯日出紀が彼女である四童子巴に出会ったのは今から一年以上前の話。高校一年生の春、入学式のことだった。
とか言っても大したエピソードなんてものはない。クラスが違ったし、式での席も当然離れていたので式中は会ってもいない。当然巴さんも俺の事など視界にも入っていなかったことだろう。
それでも俺は今でも鮮明にその日のことを思い出せる。
だるい式も終わり、真新しい着なれない制服に身を包んだ新入生たちが友人と談笑したりしながらぞろぞろと体育館を後にする。
俺はまだこの学校で友人と呼べる人間もいなかったので、一人ぼんやりと歩きながら外に向かう列に加わる。
式の間中意味のない面倒で退屈な話を散々聞かされたおかげで生あくびが次から次へと出てくる。眠気を払うように俺は凝り固まった首を解すために首を何度か回した。
その途中ふと、俺の動きが止まった。首だけではなく、歩みを進めていた足まで。後ろを歩いていた奴が、俺の背中にぶつかって文句を言っていたが俺はそれどころではなかった。
俺の視線は、ある一か所で視線が釘付けとなっていた。
二メートルほど先を行く、凛と歩く清潔感の漂う黒髪の少女。肩より少し長めの髪が、彼女が顔を動かすたびにさらさらと揺れる。陽の光を受け艶めく髪はきっと指どおりが滑らかなのだろうとか考えてしまう。
彼女は隣を歩く眼鏡の少女 (友達だろう)と時折笑顔を見せながら楽しそうに談笑していた。笑う度に口元に軽く手を当てる仕草に品の良さを感じる。
渡り廊下をさしかかった際に突然の花風が吹きつけた。ギリギリ入学式まで咲いていた最後の桜が、今の風で盛大に舞い散る。視界が桜色に染まる中、風に乗った桜の花びらが一片ふわりと彼女の艶やかな髪に舞い降りた。
その様はまるで桜の妖精のようだ。いや、女神かもしれない。
「四童子巴」
「え?」
突然真後ろからかかった声に、俺は間抜けな声を上げた。声がした方へと視線を向けると、そこには俺と同じ制服に身を包んだ一人の男子生徒。坊主頭だったのだろうが中途半端に伸びてイガグリのようになっている。高校生デビューするつもりが間に合わなかったのだろうかとか邪推してしまう。
人当たりのよさそうな顔に見覚えはあるので同じクラスのはずだが、あいにく俺はまだ彼の名前を知らない。
「お前が熱心に見てた黒髪の美女の名前。四童子巴ってゆーんだよ。俺、同中だったからさ」
にやにや笑う彼に揶揄うように指摘され、俺は初めて自分が黒髪の美女――巴さんを食い入るように見つめていた事実に気が付いた。
「な、ち、違う! ちょっと目に入っただけで、熱心に見てたとか、そんなんじゃ……!」
「こら、こそ! 静かにしろ!」
自覚すると妙に恥ずかしくなり、とっさに彼の言葉を否定する。恥ずかしさゆえか、無意識のうちに大きくなった声に近くにいた教師に注意されてしまった。
教師の声で視線が俺に突き刺さる。皆に注目されてしまい妙に恥ずかしい。頬が熱くなるのは注目された恥ずかしさか、はたまた巴さんを見ていたことをバレた恥ずかしさなのかは俺には判断できなかった。
「ハハ、お前面白いな」
先ほどのクラスメイトが俺の肩をバシバシと叩く。本人は軽く叩いているつもりかもしれないけれど地味に痛いのでやめてほしい。誰のせいで怒られたと思っているんだと思うものの口にはせずにギロリと睨む。しかし彼は楽しそうに笑っていて何の効果もなかった。
「隈武雄。お前は?」
突然告げられて名前に、それが彼の名前なのだと理解したのは数秒後。慌てながら、俺も自分の名前を口にする。
「佐伯日出紀」
これが俺の最愛の彼女巴さんとの出会い及び、親友である武雄との出会いだった。
※※※
気が付いたら俺は自室にいた。暫くベッドの上で何をするでもなくぼんやりしていたのだが、ふと窓の外を見ればとうに日は沈み辺り一面真っ暗闇。
いったい今は何時だ、あれからどのくらいたったのかを確認するためにスマホに手を伸ばすとタイミングよく着信を知らせるために震えはじめた。
きっと巴さんだ。無事に家に帰り着いたという趣旨の電話だろうと決めつけ、俺は画面に表示されている名前も見らずに着信ボタンを押す。
「もしもし、巴さ……」
「おぉ、珍しく出るの早いじゃん」
違った、巴さんじゃなかった。スマホ越しに聞こえてくる陽気な武雄の声に盛大なため息をつく。お前はお呼びじゃないんだよ。
「おいおい、開口一番ため息とか失礼すぎるくね?」
うるさい、今俺はそれどころではない。用が無いなら切るぞと凄むと、武雄は慌てて引き留められた。
ここで切っても月曜日に学校に行ったらうるさいのが目に見えたので、俺は十分だけだぞ、と前置きして渋々武雄の話に付き合うことにした。
「っで、どうだったんだ今日のデートは? キスぐらいはしたのか?」
電話越しでもニヤニヤしているんだろうなとわかるテンションで聞いてくる。
「あー、まぁ、したっちゃした」
面倒に思いながらも律儀に答える。付き合い始めて一か月も経っているのに、キスすらまともにしていない俺らを心配してくれているのだから。
まあ、そんなものは建前で内心は面白がっているだけなのだろうが。
「おぉ!」
武雄が歓喜の声を上げた。残念ながらそんなに喜べる内容ではない。いや、キスしたこと自体は喜ばしいことなのだがその後の事件でそれどころではなくなったというべきか。
「で? で? どこまで行ったんだ? この時間に電話に出るってことは今はもう解散後か? それとも隣に四童子さんいたりすんの?」
巴さんといたらお前との電話なんぞに出るわけがない。
「今、家だって」
「え? まさかお持ち帰り!?」
「違う!!」
妙な勘違いをしだした武雄の言葉を即座に否定する。も、持ち帰りとまだ早いだろ!
「だよなー。チキンのお前がそんな大胆なこと出来るわけないよなー」
俺が否定すると、納得したようにうんうんと武雄は頷いた。なんかムカつくが、事実なので何も言えない。
「っで、ちゃんと家まで送ったのか? ちゃんと最後までエスコートしないと嫌われるぞ」
「いや、親御さんの迎えが来た」
「四童子さんの親過保護なんだな。いや、あれだけ可愛いと心配にもなるか……」
確かに巴さんは超絶可愛い。学年一の美女だと言われているし、密かにファンクラブまであるって噂があるくらいにはモテる。登下校中に変な輩に絡まれないか毎日心配であるくらいには可愛い。
でも、今回親御さんが迎えに来たのはそういう理由ではない。俺は武雄に今日あったことを簡単に説明した。
「え、それってお前嫌われないか?」
「はー!?」
なんでそんな答えが出てくるんだ。失礼な俺たちは付き合って一か月のラブラブカップルだぞ!
「いや、だってさ、それまで調子よさそうだったんだろ? なのにキスした途端吐いただなんてお前のことが気持ち悪かったか、お前の口臭が臭かったかのどっちかしかないだろ?」
「く、臭いわけねーだろ! 昼飯食べた後歯磨いたし、直前まで口臭防止のガムも噛んでたんだぞ! それに一週間匂いのキツイモノ (主にニンニクと納豆)断ちしてたんだぞ! 臭いわけあるか!」
巴さんに「関次君くさい」なんて言われたら絶対へこむのでそう言われないためにめちゃめちゃ匂いには気を使った。家出る前に制汗スプレーもめっちゃした。
う、想像しただけでへこみそうだ。
「必死かよ……」
若干引き気味で、武雄が言う。あんなに可愛い彼女とのデートなんだから必死にもなるだろ!
「ま、家着いたら連絡くれるんだろ? そんな時聞いてみたら? もし教えてくれなかったり誤魔化したらお前が臭かったってことだ!」
カラカラと武雄は笑うと、「俺今から見たいテレビあるから」と言って一方的に通話を切った。反論する暇すらなかった。こいつ俺を揶揄うためだけに電話かけてきたのだろうか。
通話の終わったスマホに目を落とすと、メッセージが一件着ていたのに気が付いた。今度こそ、巴さんからだ。喜び勇んで開くと、そこには「今自宅に着きました」の文字。素っ気ない文面に少し残念に思うものの、体調が悪くてそれしか送れなかったのだと思うことにした。
武雄の言ったように俺が臭かったなんてことは決してない。無いに決まっている。だから理由を聞かなかったのは別に他意はない。多分。
※※※
月曜日の朝、俺はいつもと同じように学校へと登校する。
巴さんからの連絡はあれからなかった。ただ体調が悪くて連絡できなかっただけだと自分に言い聞かせて学校へと向かう。
澄みきった青い空、軽やかな小鳥のさえずり、初夏にしては柔らかな日差し。まごうこと無き爽やかな朝だ。
それに反して俺の心は全くもって晴れやかではない。どんより曇っていた。ちゅんちゅん喚くスズメどもが煩わしく感じる。
土曜日の夜は「嫌われていたらどうしよー」ぐらいに軽く考えていたが、日曜日一日中一人で悶々と考えた結果、俺は完全に疑心暗鬼に陥っていた。
もう今の俺には巴さんに振られるビジョンしか想像つかない。振られたら放課後、近場のファーストフードにでもよってやけ食いしようと今日は多めに財布に入れてきたぐらいだ。その時は武雄も強制連行しよう、そうしよう。部活があるとか言っても無視だ。無視。
魂まで抜けるのではないかと思う深いため息をついて、俺は見慣れた教室の扉を開く。
「おはよー」
無言で教室に入って来た俺を気にするでもなく、いつも通りの挨拶をするクラスメイトが数名。俺は重々しい口を開き、気のない挨拶を返しながら自分の席へと向かう。
いそいそと鞄を開けて中の教科書やら筆記用具を机へと移動させていると、俺の真横に誰かが来た。
武雄が面白がって、土曜日の話でも聞きに来たのかと面倒に思いながらも頭を上げると、そこにはなんと巴さんがいた。
いや、同じクラスなのだからいても不思議でもなんでもないし、お付き合いしだしてから毎朝HRの時間まで話していたのだからいつものことと言えばそうなのだけれど。
ただその表情が非常に硬いのがすごく気になる。まるで今から俺に別れを切り出す、そんな真に迫った顔だ。自然と顔が強張る。
「お、おはよ。体調はもういいの?」
やけにぎこちない挨拶をしてしまった。
しかし巴さんはそんな俺を気にする様子はなく、事前に用意していたかのように口を開いた。
「話があるんだけど、今からいいかな?」
やっぱり来た。俺の予感悪い方にばかりいつも当たる。
ちらりと俺は壁にかかった時計に視線をよこす。予鈴が鳴るまであと十分以上ある。俺は巴さんの提案に頷くことで了承した。
こっちと言って巴さんは出入り口へと向かって行く。どうやらここでは話しづらい内容のようだ。俺は無言でその背を追った。
辿り着いたのは、屋上へ続く階段の踊り場。屋上へ続く扉には鍵がかかっているのでこの階段を使う人はほとんどいない。
不良の多い学校ではたまり場になっていそうだけれど、我が高校では不良なんてほとんどいない。なのでここを使うのは、今の俺たちにみたいに人に聞かれたらマズい話をする時に使うくらいだ。
武雄の言ったように彼女が嘔吐した原因は自分で、俺に嫌気のさした巴さんが別れを切り出すに違いない。それ以外の可能性は、巴さんの思いつめた表情を見て全て消えていく。
今すぐ逃げて現実逃避したいがそれは出来ない。というか、そんなことをしたらさらに嫌われるだけだ。
口臭や体臭が原因ならそれらを改善するから別れないでくれ! と縋って別れることを回避することもまだできるかもしれない。みっともないし、男らしくなんかないことは百も承知だ。でも本気で俺は巴さんのことが好きなのだ。とにかく別れたくはない。
だが俺のような平々凡々の男が巴さんのような美女と付き合えただけ充分幸せだったのではないか?
いい加減現実を見て、身の程というものをわきまえるべきなのかもしれない。と、冷静な俺が囁く。
確かにそれも一理ある。この一か月夢のような時間を過ごせたのだ。後々思い出して、高校生活は楽しかったといい思い出で締めくくるには十分だ。これ以上を求めるのは強欲すぎる。
俺が惨めたらしくあれこれ考えている間、巴さんはというと、ジッと足元ばかり見つめ俺と視線が合わない。もじもじとひどくなにか言いづらそうにしている。
これは振られる。そう確かに感じた。
恋愛経験の少ない俺だが、流石にこれは察せた。巴さんは俺が嫌になったのだ、と。しかし、優しい巴さんのことだ、俺が傷つかないように言葉を選んでいる。
そんなに言いづらいのなら直接会って言わないでメッセージアプリからでも良かったのにとも思うが、根が真面目なのだから直接言うことにしたのだろう。
そんな巴さんもまた大好きだ。
数十秒経った後、意を決したように巴さんが俺の目をまっすぐに見つめてきた。俺も同様に覚悟を決めた。
一カ月だけでも学年一の美女と名高い巴さんと付き合えたんだ。十分じゃないか? 平凡な俺にとってはまさしく高嶺の花だ。最初から釣り合う相手じゃなかった。この一か月は奇跡だったのだ。
巴さんの口がゆっくりと開かれた。
彼女にその言葉を言わせてはいけない。最後くらいは男らしく終わらせたい。ならばいっそ、引き金は自分で引くべきだ。俺は決意した。
「日出紀くん、あのね……」
俺は巴さんの言葉を遮って、叫ぶように言葉をねじ込んだ。
「別れてくれ!」
「え?」
俺からの別れの言葉に、巴さんは大きな目をさらに見開いて俺を凝視している。訳が分からないといった感じだ。
それはそうだろう。自分が言う言葉を、相手に先に言われたのだから。
これで今後巴さんもきっと安心して学校生活を送れると俺は安堵した。失恋したわけなので、悲しくない訳がない。でもそれよりも、おれは巴さんの幸せを願わずにはいられなかった。
用件は済んだとばかりに俺は踵を返し颯爽と階段を降りる。このまま巴さんと向き合っていると、泣いてしまいそうだ。最後はかっこつけたい。
「バカ!」
「え?」
階段を下りている途中の俺の背中に巴さんの叫びがぶつかる。何事かと振り返った俺は、巴さんを見て固まった。
「!」
真っ赤な顔に潤んだ瞳。瞳に溜まった涙がゆらゆらと揺れる。なんでそんな顔をしているのかわからない。わからないけど、今にも泣いてしまいそうな彼女に俺はただただ狼狽えた。
何が原因かなんて、そんなものわかりきっている。俺のせいなのだろう。でも俺の何に巴さんが何そうなのか全然わからない。
よく考えろ、なにが巴さんをそうさせたのか。さっき巴さんは何て叫んだか思い出せ。確か、「バカ」って言ったのだ。俺が勉強が得意ではないのは自分でもわかっている。でも多分、間違いなく、今はそういう話じゃない。じゃあ、どういう意味だ?
混乱した俺の眼前にいつの間にやら巴さんが立っていた。何か言わなければと口を開いたが、何か喋る前にバシンという乾いた音が耳に届いた。
何が起きたのかわからない。ただただ右頬が熱い。遅れてきた痛みに自分が叩かれたのだと理解した。
「絶対に別れてなんかやらないんだから!」
巴さんは追撃の如く俺にそう言い放つ。言った瞬間ぼろりと重力に負けた涙が落下した。
何故か俺はその粒がひどく気になって目が離せなくなって、落ちていくのをただ見つめていた。タイルに落ちた涙は床にしみこむこともなくぷっくりと形を保ったままその場に残る。
目の前にある巴さんの足が動く。すぐにバタバタとせわしい足音が続き、彼女が階段を下りて行ったのだと知る。俺は顔を上げることも出来ず、呆然とただただその場に立ち尽くしていた。
巴さんの去っていった踊り場は妙に静かだった。
一人になってようやく気が付く。どうやら俺は間違ってしまったらしい。
「痛てー」
叩かれた右頬がひどく痛んだ。
※※※
その後休み時間の度に俺は巴さんに話しかけようとしたのだが、彼女は華麗に俺のことをスルーした。俺の話かけるタイミングで友人に話しかけたり、チャイムが鳴った途端教室を出て帰ってくるのは教師が来るギリギリだったり。
最初は偶然かと思ったが、放課後まで来るとさすがに俺もわざとなのだとわかる。ちなみに、巴さんはもう教室にはいない。HRが終わると同時に教室を飛び出していったからだ。窓際の席の俺は、廊下側の席の巴さんに声すらかけれなかった。
そんなこんなで、俺はあれから一度も巴さんと話せていない。間違いなく誤解が生じているようなので、改めて話し合いたいのだがこのままではすれ違ったまま恋人解消だ。
いや、巴さんの去り際の言葉を文面通り受け取るなら俺たちはまだ恋人同士という事でいいのだろうか? よくわからない。
「彼女に振られて傷心中の日出紀君。なんか奢ってやるから一緒に帰ろうぜ」
武雄が労わるような笑顔で俺を誘ってきた。
「……振られてねーよ」
思っていたより低い声が出た。目もさぞ死んでいるとこだろうが致し方ないことだ。
今日散々に振られたと思い込んだクラスメイト達 (男子のみ)に「やっと振られたか」とか「最初っからお前とは不釣り合いだった」など言われまくっていい加減嫌気がさしていたのだ。
「いやいやいやー、そりゃ無理あるって。朝から顔にあーんな立派な紅葉マーク付けてたら誰だってわかるって! いくら強がってもこのクラス全員。いや、この学年全員には既にお前が四童子さんに振られたのは百も承知だっての! 明日には全校生徒に知れ渡ってるって」
流石にそれはないだろうと思ったが、巴さんの人気を考えるとそれくらいは普通にありそうではある。
「佐伯」
武雄の誘いをどうやって断るか考えあぐねていると、第三者の声が俺の名前を呼んだ。
その声にぞくりと背中に寒気を感じた。俺はこの声の主を知っている。そして振り向くことで俺の命が脅かされかねないことも。
しかしこのまま振り向かないという選択肢は俺にはない。何故なら無視した時の方がダメージがデカいことは既に把握済みだ。
俺は錆びついたブリキのおもちゃの如く、ひどくゆっくりと振り向いた。
「あんた巴に何言ったわけ?」
振り向いた先には、俺が予想していた通りの美女が仁王立ちで立っていた。
目の前の美女の名は須藤沙綾。このクラスの委員長で、巴さんの友人の一人である。数いる友人の中でも特に仲が良く、クラスも同じということもあって一緒に行動することも多い。
彼氏である俺よりもはるかに長い時間一緒にいると思う。
女友達に嫉妬するほど俺は狭量じゃない。うん、別に悔しくはないし。
そんな須藤は、巴さんに対しては過保護かってくらいに甘い。友達通り越して、保護者かなって、思うぐらいには甲斐甲斐しい。そしてそれに反比例するように、俺に対してはひどく当たりが強い。
今も射殺さんかばかりの眼力がアンダーリムのメタルフレームのしから俺を睨み上げている。美女の鋭い眼差しはかなり怖い。
巴さんが春の妖精のような朗らかさを持っているとしたら、須藤は冬の女王だ。涼やかな切れ長の瞳は空気を凍てつかせ、薄い唇から零れるのは氷の刃。……の如し毒舌。しかも俺限定。
誰に対してもあけすけにものをいうタイプではあるけれども、明らかに攻撃対象になっているのは俺だけだ。その原因は俺が巴さんの恋人として不甲斐ないかららしい。俺としてもスーパーダーリンには程遠いと自覚済みなので反論のしようもない。
今回も俺が巴さんに対して何かやらかしたのだと思って、こうして声をかけてきたに違いない。確かにやらかしたのでまあ、あながち間違いでもないのだが。
今朝教室に戻った時点で既に須藤は俺に鋭い眼光を飛ばしていたので、今日中には何か言ってくるだろうと思って今日一日中ビクビクしていたものだ。
放課後になって今日は何も言ってこないのかと安心しきったときにこれだ。少し油断していた。
「あんたが朝、巴と連れだって教室から出て行くの見たのよ! あの後から巴、なんか様子おかしいし絶対あんたがなんかしたんでしょ!」
決めつけるなと言いたいところだけれど、俺のせいであることは間違っていない。
「いや、別に何かしたわけじゃ……」
「うるせぇ黙れ。言い訳は聞いてない」
巴さんのモンペである須藤に首を突っ込まれても面倒なことになるだけなので、とりあえず誤魔化そうと言い訳を考えていたが、待ってくれる相手ではなかった。
お前が聞いてきたんだろ!
「はあ、とりあえずここじゃ人目が多すぎる。場所変えるよ」
須藤そう言い放つと俺の返事も聞かずにさっさと教室を出ようとする。
しかし今須藤についていくと、確実に殺されると本能が警鐘を鳴らす。これは嘘をついてでも回避するしかない。
「今日は用事があって……」
何とかして回避しようと無難な理由を挙げてみた。勿論実際には用事なんてものはない。
「あぁ?」
「……気のせいでした。何もないです、暇です」
ギロリと冷気のこもった冷たい目で睨まれる。威圧されると、俺のようなの小物はひとたまりもない。拒否権など与えられておらず、ただ頭を垂れ冬の女王に付き従うしか俺には残されていなかった。
教室を出て行く際に、助けを求めて武雄に視線を寄こしたがあからさまに視線を逸らされてしまった。
覚えていろよ、明日スネを蹴っ飛ばしてやるからな。
須藤に連行された先は今朝も行った屋上へ続く階段の踊り場。朝と同様にそこには誰も居らず、俺と須藤の二人きり。
切り離された空間は酷く静かだ。校庭から部活に励む声がうっすら聞こえてくる。
閉ざされた場所に女子と二人きりのシチュエーション。こんなシーンになれていない俺はドキドキしないわけがない。今朝も巴さんと二人きりめちゃめちゃ緊張したが、あの時とはまた違った緊張感だ。
朝のドキドキが甘酸っぱい恋のドキドキなのだとしたら、今のドキドキは百パーセント命の危険からのドキドキだ。
俺の心臓も早鐘を打つかのようにうるさい。ああ、なんだか目の前の須藤が凄腕の暗殺者に見えてきた。
「っで?」
「え?」
須藤に鬼の形相で詰め寄られる。一瞬なんのことかわからなくてが、首を傾げると大きな舌打ちが返ってきた。チンピラか何かかな?
「朝、それと土曜日何があった? 洗いざらい吐け」
ヤクザだった。
そうだ、ヤクザの恐ろしさに忘れかけていたけれど、巴さんのことだ。
俺は刑事に詰め寄られながら事情聴取を受ける犯人の気持ちになりながら 土曜日のことと今日の朝のことを洗いざらい話す。
話すにつれ、次第に魔王の切れ長の瞳が細められていくのを俺は恐々としながらも最後まで話しきる。
「おい、ヒジキ」
話し終え一息つくと、須藤は俺を睨みつけながら俺をそう呼んだ。俺の名前、無理やり読まそうと思えばヒジキと読めないこともないが読まないでほしい。
「いや、ひでのり……」
「あぁ?」
訂正しようと口を開くが、魔王に凄まれてしまっては始まりの村の村人Aのような俺は震えながら口を閉ざすしかない。
話を聞くまでの須藤も既に怒っていたが、今はさらにおっかない。不機嫌さがありありと顔に出ているし、怒気が背後からオーラとして見えてしまいそうなほどに禍々しい。
間違いなく、俺の話が須藤の逆鱗に触れたことだけは理解できる。こうれはもう死を覚悟するしかない。
「お前馬鹿か?」
直球&辛辣―! 本日二度目のバカ頂きました。
「いや、馬鹿じゃ足りない。アホでおおまぬけのクズ野郎だ!」
流石にそこまで言われると傷つく。
「何が、潔く身を引くだ。何が、身の程をわきまえるだ! 巴が別れたいって言ったのか? 違うだろ! それとも今言ったのは全部建前で、本当はお前が巴のこと飽きて別れたかっただけなのか?」
畳みかけるように矢継ぎ早に言われて脳が混乱する。それでも、最後に言われた言葉だけは聞き逃すことはなかった。
「違う! 俺が巴さんの事好きじゃなくなるなんてことはない! 絶対に」
そうだ。何があっても俺は巴さんのことが好きだ。だからこそ自ら身を引いたのだ。
飽きるだなんてことは絶対ない。美人は三日で飽きるなどという言葉が昔からあるけれど、あんなのウソだと俺は身をもって知った。
付き合ってから一ヵ月という短い期間だけれど、巴さんの人となり知れば知るほどもっと好きになっていった。昨日よりも今日。今日よりも明日。ずっとずっと好きが大きくなってきたのだ。
「じゃあ、あいつの話も聞かずに勝手な解釈して、一方的にふるな。おそらく巴はお前にふられたことで、ただいま傷心中だ」
傷心中、と今須藤は言った。彼女が巴さんのことでウソをつくなんてことは考えにくい。ならば、須藤の勘違いなのではないか。
「いやいや、それはないって。だって巴さんは俺の体臭か口臭が臭くて、そのせいで嘔吐して……!」
「あいつがそう言ったの?」
呆れたような、憐れむような瞳を向け須藤はそう聞いてくる。
「……言ってない」
巴さんからは何も言われてはいない。それは巴さんなりの優しさなのだと俺は解釈したのだけれど、もしかしてただの早とちりだったのではないかという疑念がよぎる。
思い出せば、巴さんが何か言おうとしたところを俺が遮ったのだ。本当は巴さんはもっと違うことを言おうとしていたのではないか?
押し黙った俺に、須藤のため息が聞こえる。
「なんでそういう考えに至ったのかは興味ないけど、考えが飛躍しすぎてるんだよ! テメーは棒高跳びでもしてんのか!」
「じゃあ、まさか本当にただ体調が悪かっただけ!?」
「いや、そうじゃない。キスが嫌だったってのは、まあそうだろうな」
やっぱり、思い違いでもなんでもなかった。一度持ち上げて落とすだなんてひどい。
「本当は私の口から言うべきことじゃないんだろうけどさ……」
須藤が締め切った屋上へと続く扉を見ながらぽつりと呟く。一旦言葉を切ると、ガシガシと癖のない髪の毛をかき混ぜてぶつぶつと何事かを口にする。
小声過ぎて俺には聞こえなかったが、次に俺に視線を向けた時には何か重大なことを決意したような強い瞳をしていた。
須藤は「一回しか言わないからな」と前置きすると再び口を開く。
「あいつは、潔癖症だ」
シーンと静まり返った踊り場に須藤の声だけがやけに響く。
潔癖症と言えば、大衆が使用する場所ではアルコール消毒をしなければつり革や手すりなどに触れることも出来ずに手袋を着用したり、部屋は常にきれいに掃除されており、塵ひとつない。そんなイメージだ。
巴さんが潔癖症。そんな話は初耳だけれど、たいした意外性はない。消毒用のアルコールを常備していたり、常にビニール手袋を着用しているのは見たことないが、いつも清潔感漂う巴さんだ。そうだったのか―、ぐらいの感想しかない。
それが何故、巴さんが吐いたことにつながるのだろうか。
「巴は佐伯とキスが嫌だったんじゃない。キス自体にあいつの体が拒否反応を起こしたんだ」
「え? そんなことってあるのか?」
聞いたことがなかった。
「私は専門家じゃないから何とも言えないけど……。少なくても巴はただの綺麗好きってだけじゃないよ。ホコリとかゴミとかに関しては人より少し綺麗好きって感じだけど、対人に関しては特に潔癖だ。人に触れる、または触られるのを極端に嫌がる」
「人に対してだけって……」
そんなことあるのか? と言おうとしたがふと思い出す。巴さんと付き合い始めて、一カ月間キスどころか手すら繋いでいなかったことに。
俺が勇気が出せずに手すら繋げないチキン野郎であることは勿論なのだが、それでも全く手を繋ごうとしなかったわけではない。
横に並んだ時にさりげなく手を繋ごうとしたことも何度もあった。その度に巴さんは俺に話しかけたりして気を逸らしていたように思う。今思えばあれは、俺の気を引いて手をつなぐのを防ごうとしていたのではないか?
潔癖症だと聞いた今、今までたいして気にも留めていなかった巴さんの言動が点と線でつながっていく。
「とりあえず巴と話し合え。以上!」
相変わらず険しい瞳で俺を睨みつけながら須藤は階段を下りて行った。
またも一人取り残された俺は尻のポケットからスマホを取り出し、履歴画面を出す。上から二番目、武雄のすぐ下に『巴さん』の文字。そのまま着信ボタンを押そうとした指を一度止め、そして引っ込めた。
巴さんが学校から出てまだ三十分もたっていない。今頃彼女はまだ電車の中だ。電話したって出てくれるわけがない。
俺はスマホを再び尻ポケットに突っ込むと、教室へと向かった。
今すぐ伝えなければならないことがある。でも焦っても意味がない。今の俺には冷静さが足りない。家にたどり着くまでには多少頭も冷えているだろう。電話はそれからでいい。
今ほど自分が電車通学だったことがよかったと思ったことはなかった。だって、自転車だったらきっと暴走自転車と化していただろうから。
俺はもう引かないし諦めないと決意をした。
※※※
家に帰り着いて、すぐに俺は自室へと向かうために階段を駆け上がる。母親の「ただいまぐらい言いなさい」という声が階段の下から聞こえてくるが、俺はそれどころではないので適当に生返事を返した。
部屋に駆け込むと同時に首元を締め付けるネクタイを引っこ抜き、適当なとこにほうりやって着替えもせずにベッドへと飛び込んだ。
スプリングが軋む音を聞きながら、スマホを手にする。流れるように操作すると、画面に巴さんの名前を表示させ俺は今度こそ迷うことなく着信ボタンを押した。
プルルルと聞こえてくるコールに緊張が増していく。彼女はまだ怒っているだろうか。このまま電話に出てくれなかったらどうしよう、などと不安がわいてくる。
『はい』
朝以来の巴さんの声。たった一言ではまだ怒っているかどうかまでの判断はできない。
電話は三回目のコールでつながった。案外早くて、もしかしてスマホの前で待機していたんじゃないのかとか邪推してしまう。
自分から電話しておいて、いざ話すとなったら何を話すべきか迷ってしまって言葉が出てこない。
そうこうしているうちにスマホ越しに、不機嫌そうな巴さんの声が聞こえてきた。
『……何の用?』
つっけどんな態度の巴さん。やっぱりまだ怒っている。ぶるりと背筋が冷たくなる。
怒らせたのは俺だ。その自覚はあるし、理由もわかっている (須藤のおかけだが)。
要は俺の勝手な思い違い。だからきちんと話し合えば誤解は解ける。はずだ。
緊張しながら俺は口を開いた。
「あのさ……」
『うん』
「須藤から聞いた。潔癖症って」
『そう……』
淡々とした口調に心が折れそうになる。
『幻滅した?』
「え?」
『キスしただけで吐く女なんて、嫌でしょ? 別れたいって言ってたもんね』
感情のない冷えた声が耳に届く。
あぁ、俺のせいだ。彼女がここまで地を這うような冷めた声を出すのは、おそらく怒りを抑え込んでいるからなのだろう。
誤解を解かなければならない。
「その、……誤解なんだ」
意気込んでいたもののいざ話すとなったら、言葉が思付かずに端的な言葉しか出てこない。これじゃ何に対してのことかもわかりゃしない。
『……何が?』
当然の如く巴さんにも指摘される。
「別れるって言ったのは、その、俺の思い違いで……」
ぼそぼそとした気持ちの悪い声が響く。
「……てっきり俺のことが嫌で、吐いたのかと思って……それで……嫌われているのかと……」
誤解を解く為に電話をかけたはずなのに、なんでただの言い訳を重ねているんだ。思っていたように話せなくて、自分に苛立ってくる。
あれだけ張り切って電話したっていうのに、出てくる声は迷子の様にひどく頼りない。
『いいよ、言い訳は』
突き放すようなきつい言い方。でも怒っているのとは違うような気がした。
諦めとか、落胆に近い声色。漠然とそう俺は思った。
『別れたいんだよね? うん、いいよ、別れよ』
怒鳴るでも、泣くわけでもなく、引き際の良いあっさりとした言葉。淡々と冷静に巴さんは言葉を紡ぐ。役所の人間が淡々と書類を分類しシュレッターに掛けるかのような、感情のこもっていないただの作業のような言葉。
朝の感情をむき出しにした彼女とはまるで別人だ。
「絶対に別れてなんかやらないんだから!」といったのは何だったのか。俺はただの俺の幻聴だったのだろうか。
『佐伯君もゲロ吐く女なんか、嫌だよね……』
ぽつりと小さい呟きと共に、電話はぶつりと切られてしまった。
また間違った。彼女の淡々とした口調は怒っているのかと思い込んでいたけれど、違った。あれは泣きそうなのを隠していたのだ。
電話を切られる直前の最後の言葉。微かに涙声だった。きっと涙があふれそうなのを堪えて必死に言った言葉。
訴えにも似た呟きはきっと、巴さんが一番恐れていたことで、俺に一番確かめたかったことなのだろう。
だというに俺は馬鹿だ。一番言わなきゃいけないを言ってない。
ツーツーと虚しく鳴るスマホを一度切ると、俺はそのまま同じ名前をタップし、そのまま掛けなおす。
引かないし、諦めないと決めたのだ。
頼む出てくれと、念じながらスマホを握る。ジワリと手が汗ばむ。落ち着く為に息を吐きながらコール音を数える。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、
『しつこい! 文句ならきかない……』
巴さんはさっきより長く、五つ目のコール後に出た。
巴さんの声は最後の声よりももっとわかりやすく涙声だ。一人泣いていたのだろう。ズキリと良心が痛んだが、俺はそれを抑え込み叫んだ。
「好きです! 付き合ってください!」
『え?』
「振られても、別れても、俺は何度だって巴さんに告白するから。簡単に諦める気はない」
『……呆れた。そういうのストーカーっていうんだよ』
「君が俺のことを嫌いならそうなるだろうね」
『……』
ここで嫌いと言われていたら立ち直れなかったが、無言ということはそういう事でいいのだろうか。
少しの間を開けて、巴さんがでも、と話し出す。
『どうせ日出紀君も、他の人たちと同じで私の容姿に惹かれただけなんでしょ? キスもエッチも出来ないってわかったらすぐにそっちから離れてくくせに!』
「確かに、最初は君の見た目にホレた。でも! この一か月そばで巴さんを見てきてそれだけじゃなくなったんだ。普段は真面目で大人しいのに好きなものや興味のあることの前では異常にテンション高くなるとか、何もないとこで転んだのを誤魔化そうと急に早足になるとことか、眠くなると寄り目になるとことか……。そんなの全部含めて愛している!」
俺の熱のこもった告白とは真逆の冷めた四童子さんの声が聞こえた。
『嘔吐しても?』
「涙目でゲロ吐いてる姿はちょっと興奮した」
「……変態』
素直に言ったら、呆れた声で返された。
『佐伯君の特殊性癖は聞かなかったことにします。……でもさ、キスもハグも……エ、エッチも、出来ない恋人なんてやっぱり付き合っている意味ないよ。それただの友達と変わらないもん』
「意味はあるよ。一緒に水族館行ったり、ショッピング行ったり、こないだみたいに公園のベンチでとりとめのない話を長々としたり。そんな緩やかな、他人から見たら小学生のお付き合いみたいな恋人関係でも俺は十分楽しいよ」
本心だ。付き合って一か月、キスもハグもないそんな恋人関係でも俺は十分満足していた。愛情=性欲ではないのだ。
『で、でも! 我慢してるんでしょ? 我慢するぐらいなら、我慢しなくていい人と付き合った方がいいよ。佐伯君は優しいから、すぐ次の彼女出来るよ……』
彼女の声は酷く物悲しそうに聞こえた。
「人々がキスやハグを好むのは神経伝達物質の一種であるβエンドルフィンというホルモンが分泌されるからなんだ。このβエンドルフィンは鎮痛効果や気分高揚、幸福感などが得られるらしくて、別名『脳内麻薬』とも呼ばれるんだ」
「え、え? ちょっと何の話?」
俺が以前ネットで読んだ話を始めたら、巴さんは戸惑った声を上げた。
「俺にとっての脳内麻薬は巴さん自身だから、キスもハグも、それ以上もしなくてもいつもハッピーなんだよ」
巴さんの笑顔も、笑い声も、困り顔も、眠そうに目を擦る姿も、俺の名前を呼ぶ声も、楽しそうに今日あったことを話す声も全てが極上の至宝だ。
「どんな君も大好きなんだ!」
全ての思いをぶつけるかのように、俺は愛を叫んだ。ここは世界の中心でもなんでもない、俺のたいして広くはない自室の、最近スプリングが変な音で軋む古ぼけたベットの上だ。それでも今言わないでいつ言うというのだ。
はぁというやけに深いため息が電話越しに聞こえた。
『バカ』
本日三度目。なんでいきなり罵倒されたのだ俺は。
『そして私も馬鹿だ』
そう巴さんは続けた。
『潔癖症のこと知られたら嫌われるからって、無理して必死で隠してたのにさ、そんなにあっさり受け入れられたら今まで悩んでいた自分がバカみたい』
あっさりとした口調で吐き出す。それはまるで、今までの悩みや苦悩を吐き出しているかのようだった。
『いいよ』
「え?」
一瞬何に対しての良いよなのかわからなかった。頭にクエスチョンマーク浮かべている俺に、巴さんが言った。
『もう一回付き合ってあげるって言ってんの!』
「マジで!?」
『……だって、佐伯君みたいなバカは他の人の手に余ると思うの』
今日俺は何回馬鹿と言われればいいのだろうか。でも、巴さんの『バカ』は温かみがあって言われるのも悪くないなんて思い始めてきた。これも脳内麻薬かな。
『だから、責任もって私が相手してあげる』
「末永くよろしくお願いします!」
電話越しなのも忘れて深々と頭を下げながらいうと、楽しそうな巴さんの笑い声が聞こえてきた。
『それにさ、熱烈な告白、ちょっと嬉しかった』
跳ねるような嬉しそうな、そしてどこかテレの入った声。
嬉しさと共に、ぶわっと頬が熱くなる。なんだか無性に恥ずかしくなって手元にあった布団をかぶった。なんで俺まで恥ずかしくなっているんだ。
『……私も好きだよ』
それだけ言うと、羞恥心を隠すかのように電話は切られた。
もう涙声の少女はいない。今度はかけなおすような邪道なことはしない。
「よっしゃ――!!」
歓喜の雄叫びを上げる。叫ばないとおかしくなってしまいそうなくらいに感情が俺の中で溢れていた。顔はさっきから緩みっぱなしで、きっと須藤が見たら嫌な顔をしながら罵倒してくることだろう。
そのままベッドの上で奇声を発しながらゴロゴロ転げまわっていたら隣の部屋の妹にうるさいと叱られた。今兄ちゃんは幸せ過ぎて何か叫んでいないと発狂しそうなんだから許せ。
※※※
学校へと続く長い坂を上っていく。いつもならめんどくさい以外の感想はないのだけど、今日は足取り軽やかだ。
だって隣には可愛い彼女がいるのだから。
「なーににやにやしてんの。あ、もしかして私以外の女子見てにやけてんじゃないでしょうね!」
焼きもち焼いてキッと睨んでくる姿も可愛らしい。
「巴さんしか目に入らないよ」
「……なら、よし」
顔を真っ赤にしてそっぽ向いた姿も可愛い。
「あ……」
突如漏れた声。何事かと彼女の視線をたどれば、そこには一組のカップル。その手はしっかりと握られてる。その手に注がれる羨ましそうな巴さんの視線。
俺は巴さんの空いた手を握らず、その少し上。袖口をクンっと引っ張った。
「佐伯君?」
「手、繋ぐ代わり」
「うん!」
俺が言うと、巴さんははちきれんばかりの笑顔で頷いた。俺も自然に笑顔になる。
愛の形は人それぞれ。俺たちにはこれが丁度いい。