夫妻の心
カインが皇都の士官学校に進学してより二年。いよいよ彼が帰郷する日が十数日後に迫り、浮ついた雰囲気が漂うアシャルナート邸の、オースティンの部屋。
「それは陛下の意向に反しますぞ、アルフォード殿」
「構わぬ。騎士の推薦状は貰っている。後は誰が任命式を執行しようが、こちらの自由だ」
アルフォードはオースティンに対して、有無を言わせない強い口調でそう告げていた。余人を交えないで話す時のアルフォードは、平素の彼からは考えられないぐらいの威厳があった。その為にオースティンは心の中でひれ伏してしまう。彼は、アルフォードをどこかの貴族だろうと皇王から聞かされていた。しかし、それ以上の威厳をアルフォードから感じ取ってもいる。それもあってオースティンは、彼をただの貴族ではないと思っていた。けれども、それを未だにアルフォードには尋ねられないでいる。そのぐらいに彼の雰囲気に圧倒されてしまうのだ。今も恐る恐る言葉を返す。
「しかし、数日後には陛下の使者も訪れます」
「オースティンよ、これは私が父として我が子に行える唯一の式なのだ。それを邪魔立てするならば、この推薦状は破り捨てる!」
「アルフォード殿、それは……!」
彼が手にしていた書類を破り捨てようとしたのを見て、オースティンは慌てて止める。しかしアルフォードは笑いながら、その書類を彼に突き返した。
「驚いたか? 冗談だよ。どこに息子の騎士叙勲を反古にする親がいると言うのだ」
彼の言葉にオースティンはホッとする。それを見透かしたように、アルフォードは冷たく告げた。
「だが、その役目が私に与えられないならば、式の執行は見送るしかないな」
「貴方が来ないとなれば、あの子は悲しみますな」
アルフォードの強硬な態度に、オースティンはほとほと困り果てた。
事の起こりは簡単だった。アルフォードの実子であるカインは、表向きには彼の子ではなく、オースティンの養子になっている。それには隠さなければならない理由があり、その理由こそが事態を複雑にしていた。それは、カインが彼の実子であると同時に、皇国の皇族に連なるからだ。今から四十年近く前、アルフォードは皇女を連れて駆け落ちした。その二人の間に産まれたのが、カインである。彼は誕生時には皇位継承権第一位者として、暫くを王宮で育てられた。しかしその後、皇王に男子が産まれ、カインの存在は疎まれるようになる。オースティンはカインが死んだ者として、彼を孤児扱いでこの村に連れて来たのだ。事実関係を知る者が僅かとは言うものの、簡単に公にして良い話ではない。
そのような経緯であるから、アルフォードは父として名乗れずにいる。名乗れば最後、カインの命は保証されない。
「アルフォード殿、式典にはいらして下され。ですが、その立場は後見人として頂きたいのです」
「ほぅ……、確か、後見人が任命権を優先的に得られる筈だが、違ったかな?」
オースティンはその指摘に息を呑んでしまう。
「き、貴殿はどこでそれを?」
「どれだけここで暮らし、幾つもの面倒な式典に参列して来たと思っている。このような日もあろうかと、情報収集に余念はなかったよ」
余裕に満ちた彼の言葉に、オースティンはガックリと項垂れた。アルフォードにとってのカインは、無二の息子なのだ。名乗れないならばせめて、息子の記憶に残る何かをしてやりたいとの思いが、彼をこうまで意固地にしていた。その心中を察し、ただ面倒事を惹き起こしたくないとだけ考えていたオースティンは、我が身を振り返って自らを恥じ入る。しかし、ここでカインの騎士任命式を執り行い、ましてやアルフォードが任命者を務めたとなれば、即座に皇都から追及の勅使が遣わされるのは目に見えていた。彼は、どうにかして事態の打開を計れないかと苦心する。
「そこまで知っておいでならば、何も言いますまい。ただ……」
オースティンが打開策を伝えようとしたその時、唐突に部屋の扉が勢いよく開かれた。
「こ、困ります。あの……」
屋敷のメイドが必死で誰かを制止しようとしているが、それを無視して一人の女性が室内へ入って来る。
「シェラ?」
「殿下……」
室内にいた二人は彼女の姿を認めて、呆気にとられた。オースティンはすぐさま我に返ると、共に入って来たメイドに退出を命じる。
「良い、このお方はアルフォード殿の奥方様だ。お前はもう下がりなさい」
家の主人にそう言われては従うしかない。メイドは釈然としない表情ながらも、一礼して退出して行った。退出した彼女が遠退くのを待つかのように、シェラザードはかつての近衛騎士を見据える。
シェラザード・ルフィーニア。
皇王ジュリアス三世の唯一の肉親で、この国の皇女である。二人の結婚は不承不承認められたが、彼女が皇室に戻らないので、皇王はトレリットを封土として彼女を伯爵に叙した。しかし彼女は皇室を出た際に貴族の身分を放棄したと考えていたので、実際の領地経営は夫であるアルフォードに任せ切りにしている。そのアルフォードでさえも人前に出たがらないので、オースティンを伯爵代理としているのだ。
彼女は赤紫の髪の毛を結い上げ、大きな瑠璃色の瞳で真っ直ぐにオースティンを見据えていた。そのいつにない厳しさを含んだ視線に、オースティンは身が縮む思いに襲われる。
「オースティン、わたくしがここに来たのは何故か、理解していますわね?」
「はっ……」
彼女は手にしていた扇子を片手に打ちつけた。オースティンには彼女の怒りが伝わって来る。身を強張らせた彼に対して、彼女は静かに言葉を続けた。
「カインの騎士任命式の件です。あの子は我が子ではありません。とは言え、我が子同然に育てて参りました。皇都で不慮の死を遂げた我が子同様、いいえ、それ以上の愛情を注いで来たつもりです。よもや、そのカインの騎士任命式に、わたくしの夫が出席できないとは言わせませんわ。当然、後見人並びに任命者として認めて下さいますわよね?」
彼女は淀みなく、えもいわれぬ迫力を伴わせて彼に告げた。オースティンの額には大粒の汗が吹き出している。アルフォードは少し下がった位置で傍観を決め込んでいた。