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風月佳人・前編  作者: 斎木伯彦
叙勲式に向けて
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記憶の封印

 いつの間にか、アルフォードが湖で泳いでいる。彼は綺麗な姿勢で、悠然と湖面を滑るように泳いでいた。セリナは着衣を脱ぐと、薄手の長衣(ローブ)のみになる。湖は冷たく見えた。彼女は恐る恐る爪先を水辺に寄せる。最初は足首まで、続けて膝下まで湖に入った。水温は予想よりも温かい。気持ち良い冷たさに、彼女は思い切って全身を水中に預けた。心地良い冷たさと、浮遊感が彼女の心を開放的にしてゆく。ここ数日間の憂鬱が、水中へと溶け出してゆくような錯覚にさえ捕らわれた。仰向けに彼女は水面を漂う。月の光に照らされていると、全てが幻のような、全く違う世界にいるような、不思議な感覚になって来る。いつしか彼女は、涙を流していた。

「セリナ、どうしました?」

 静かにアルフォードが尋ね掛けて来る。セリナは月を見つめながら、呟くように答え返した。

「夢を……、とても悲しい夢を見るのです」

 彼女は、最近見続けている夢の内容を彼に聞かせた。アルフォードは黙ったまま、最後まで聞く。

「先生は、誰なのですか?」

 素朴な質問にも、彼は無言で返した。その代わりなのか、彼女の左手をアルフォードは優しく握る。瞬間、彼女の頭の中で何かが動き出した。得体の知れない意識が激しく渦を巻いて、彼女の意識を飲み込もうとする。

「助けて、お兄様!」

「ルー!」

 アルフォードは反射的に呼び掛けた。頭を抱えて沈みかけた彼女を抱き上げると、岸辺に向けて慌てて泳ぎ出す。そっと草地に寝かせると、セリナはそのまま気を失った。

「うっ……」

 暫くして呻いた彼女が、ゆっくりと瞼を開く。満天の星空と金色の月が二人を見下ろしていた。彼女の瞳には、心配そうな表情のアルフォードが映っている。虚空を彷徨った彼女の瞳が、覗き込んでいた彼に焦点を合わせた。

「……お兄様?」

 彼女の口を衝いて出た言葉に、彼の表情は雲った。

「思い出したのか?」

「ええ、どうして忘れていたのかしら。貴方を追い掛けて来たというのに」

 彼女は目の前の彼に腕を伸ばす。その実体を確認するかのように、彼女は(いと)おしそうに首筋へと腕を巻き付けた。

「ああ、やっと会えた。もう離さないで、強く私を抱いて、抱き締めて、お兄様」

「ルー……」

「……ランティウスお兄様」

 彼女は、ルーディリートは目の前の兄を抱き寄せ、唇を重ねた。そのまま強く抱き締める。もう離れたくないとばかりに。熱い抱擁と口付けを交わした二人にとって、後は言葉は不要だった。互いに互いの存在を確かめ合うように求め合う。激しく息を乱れさせながら、二人は一つになった。飛び散る汗も、流れ落ちる滴さえも気にならないほど、二人は夢中になる。

 繋がり合ったまま、互いを燃やし尽くした二人は、余韻を噛みしめるように戯れていた。絡み合う指先にも、無駄な力は必要ない。満ち足りた表情の彼女は、しかし兄に疑問を投げ掛けた。

「どうして忘れていたのかしら? それに、名前を替えているのは、何故?」

 尋ねられた彼の瞳は、悲しみの色を帯びる。

「ずっと、見守っていた。お前の生命を守る為に。その為に、記憶さえも封じて」

「それは、どういう……」

 更に尋ねようとした彼女の唇を、彼は指先で押さえた。

「お前の幸せだけを願っている。許せ」

「待って、嫌よ! 折角会えたのに。また離れるのは、嫌っ!」

 激しく抵抗しようとする彼女を無視して、彼は再び記憶の封印を行おうと、妹の額に手を当て呪文を唱え始める。熱い脈動が彼女の中に流れ込み、再び暗闇が押し寄せた。

「お兄様、私は貴方を愛してる。愛して……」

「すまない……」

 消えゆく彼女の意識に、彼は謝る。

「お兄様……」

 彼女の目尻から、熱い滴が零れ落ちた。アルフォードは自らの心さえも押し殺して、妹の記憶を封印する。彼女の悲痛な叫びが耳の奥にこだましていた。

「許せ、愛しき妹よ」

 彼には他に選択肢がなかった。妹も大切だが、それよりも大切な存在、妻であるシェラザードがいたから。今の幸せな暮らしを壊したくはなかったのだ。夜空には彼らを見下ろす満月が素知らぬ顔をしている。アルフォードは月を睨み付けるように見上げた。

「今は、まだ時が満ちていない。もう暫くの辛抱なのだ」

 自らにも言い聞かせるかのような彼の言葉は、湖に吸い込まれる。セリナに衣服を着せると、眠ったままの彼女を抱え上げた。彼女にはセリナとしての生を全うさせたい。それが彼の願いだ。

 二人を風が包み込み、その衣服を乾燥させる。風が収まると、彼は妹を抱えたまま歩み出した。

「ルー、お前は何故、私を苦悩させるのだ?」

 屋敷へと続く森の中で、彼は呟く。ルーディリートとしての記憶を取り戻さなくても、彼女は彼が見慣れていたあの頃の妹のままだ。できるならば、全てをやり直したい気持ちもある。しかしそれ以上に、シェラザードの存在が彼を束縛していた。生来、束縛を誰よりも嫌う彼をしても。

「……もう、お前には戻れないと言うのに」

 腕の中で眠る彼女に、彼は(いと)おしさを感じてはいるが、それでも共に過ごす将来像は湧いて来なかった。そのような事柄を考えながら、月明かりに照らされた夜道を進む。目的地はすぐそこだ。

 屋敷に到着すると彼は何事かを唱えて、セリナを起こす。彼女はゆっくりと目を覚まし、情況を理解するまでぼんやりとしていた。

「……! せ、先生!」

「目を覚ましましたか? 随分と疲れていたようですね」

「す、すみません」

 セリナは赤面して、身体を萎縮させる。そのような彼女をアルフォードはゆっくりと地面へ降ろした。

「私、本当は先生に聞いて欲しいことがあったんだけど、忘れちゃったみたいです」

 俯いた彼女に、彼は優しい微笑みを向けていた。

「おやすみなさい、先生。楽しかったです」

「おやすみなさい。元気になって良かったですよ」

 アルフォードは微笑んだまま踵を返すと、再び森の中へと帰って行った。その背中を見送ってから、セリナは自部屋に戻る。部屋に入るなり、寝台へ倒れ込んだ。ほんの少ししか泳いでいないにも拘らず、とても気怠い。しかしそのような肉体とは逆に、精神はスッキリしていた。何で悩んでいたのかさえ思い出せない。

「流石、先生だなぁ……。行って良かった」

 心の中でアルフォードに感謝しつつ、彼女はそのまま眠りへと落ちてゆく。これなら笑顔でカインを迎えられるだろう。彼女は幸せな寝顔になっていた。

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