兄妹の絆
トレリット村の湖畔には白壁の小さな家がある。
テラスが湖の上に張り出したその家は、湿気を防ぐ為に高床式の構造をしていた。
夕闇迫るそのテラスの上に、一人の男性が佇む。湖を渡る風に身を任せ、燃えるような赤い髪がまさに炎のように揺れていた。
「カイン、ここにいたのね」
物思いに耽る彼に柔らかな声が掛けられる。彼が振り返るとテラスの下に銀色の髪の少女がいた。
「リナ、もう身体は大丈夫なのか?」
「うん。心配させてゴメンなさい」
「謝る必要なんてねぇよ」
カインはそう告げて彼女の方へ歩み寄る。
「こっちに来るか?」
「うん」
彼はテラスから身を乗り出して手を差し伸べた。その逞しい手をセリナが掴むと、グイッと彼は妹を引っ張り上げる。強い突風に煽られて体勢を崩した妹を、カインはしっかりと支えた。
「大丈夫か?」
「うん、平気」
妹は兄へ微笑み返す。連れ添って二人はテラスから湖を眺めた。幼い頃からずっと見てきた景色は何も変わらないが、家の主はもういない。セリナはそう思うと悲しみに心が支配されそうになった。
「ねえ、カインはここで何をしていたの?」
気持ちを紛らわせようと、彼女は口を開く。
「師匠にさ、言われたことを思い出していたんだ。俺の原点はここだって。この湖だって」
兄の答えは淀みなかった。凜とした視線は真っ直ぐに湖面を見詰めている。その横顔にセリナはドキッとした。
「正直に言って、師匠が何を言いたかったのか良く分からねぇけど、でもこの湖を眺めていると不思議と分かるんだ」
「何が分かったの?」
胸の高鳴りを抑えつつ、彼女は尋ねる。
「師匠に鍛えて貰った剣の腕も、掛けて貰った優しさや厳しさ、全部がこの湖に詰まっているってさ」
兄の言葉は力強かった。恐らくセリナと同じように悲しみや寂しさがその胸中にあるはずなのに、彼は弱さを見せない。
「だから、俺は頑張っていけると思う」
「カイン、無理はしないでね」
水を差すような言葉とも思ったが、彼女は純粋に兄を心配していた。
「ああ、大丈夫だ、任せろ」
何を任せるのかピンと来なかったが、兄の口癖のようなものと思い返して、セリナは笑いそうになる。
「それよりも、俺はお前が心配だ」
「お兄様、私の心配はいいから、存分にその力をみんなの為に使って来て」
セリナは一つの決心をしてここに来ていた。それは笑顔で兄を送り出すこと。多くの人々の役に立つ仕事をして欲しい、そう願っていた。
「リナ、それでいいのか?」
「うん、だってカインは私の大切な人で、みんなに自慢できる人だから」
セリナは言葉を選びながら、ゆっくりと語り掛けるように話す。
「今のまま、私がお兄様を独占していたのでは、お兄様の素晴らしさは誰にも伝わらないわ」
「俺は、それでもいい」
カインは妹を一人で残して行くのが気掛かりであった。
「ダメよ。私が許さない。カインお兄様は英雄になるの。そして、ここに帰って来るの」
彼女は口調を強くする。
「英雄の帰りを待つ人がいて、どんな苦境でも諦めずに乗り越える原動力になる。それが物語のお約束でしょ?」
「そういうもの、か?」
「そうなの。だから私はここでお兄様の帰りを待ってる。ここが原点なら、必ず帰って来るでしょ?」
最後にニコッと微笑んで尋ね掛けると、カインは後頭部を掻いた。
「そこまで言われたら、男としてはやるしかないな」
「それでこそ、私のお兄様だわ」
満面に笑みを浮かべた彼女を、カインは抱き寄せる。
「気ぃ遣わせちまったな」
「私とカインの仲でしょ?」
そっと愛しい兄の背中に腕を回して、セリナは答えた。兄妹として、そして恋人同士として、二人は強く抱きしめ合う。
「リナ、愛してるぜ」
「私もよ、カイン」
寄り添う二人の影は、夕闇へと溶けていった。
翌日、セリナは兄の部屋で朝を迎えた。昨日の出来事が夢ならば良かったのにと微睡んでいると、隣で眠っていたカインが起き上がる。
「カイン、おはよう」
「悪ぃ、起こしちまったか?」
彼女が声を掛けると、兄はバツが悪そうに謝って来た。
「ううん、私もほんの少し前に起きたから、ほとんど同時だよ」
彼女は微笑み掛ける。カインは無言のまま寝台から降りた。卓上の袋を開いて、小さな箱を取り出す。
「いろいろあって渡すのが遅くなったが、受け取ってくれ」
彼が差し出した箱には銀製の髪留めが納められていた。麦の穂を象ったその髪留めは全体を銀で造り、穂先には小さな宝石が幾つも散りばめられている。
「これを私に?」
驚いて目を丸くしているセリナに、カインはぶっきらぼうな態度になった。
「柄じゃねぇのは分かってるけど」
「嬉しい……。嬉しくて驚いているの。ありがとうカイン」
セリナは兄の首筋に飛びつく。
「リナ、喜ぶお前の顔が見つかったんだ」
「うん、大好き」
彼女は強く兄を抱き締めた。離してしまったら消えてしまうのではないかと思う彼女の心配が、そこにある。カインはそんな妹を優しく包むように抱擁した。大切な宝物を扱うように。
数日後、旅の準備を整えたカインは屋敷の広間にいた。
「カイン、家のことや村のことは心配するな。お前はお前の務めを果たして来なさい」
「ああ、分かってるよ、じっちゃん」
アルフォード夫妻から贈られた騎士服に身を包み、その腰にも夫妻から贈られた剣を佩いている。その凜々しい兄の姿をセリナは目に焼き付けようとしていた。彼女の頭には、兄から贈られた髪留めが飾られている。
「騎士カイン・アシャルナート殿、迎えに参りました」
玄関が開き、数名の男性たちが入って来た。その先頭には青い髪の男性がいる。
「シオン、暫く世話になるぜ」
「戦力として期待しているからな」
カインとシオンは固い握手を交わした。
「サルードゥン侯に失礼のないようにの」
「ああ、じっちゃんも身体に気を付けてな」
声を掛けたオースティンに、カインは普段通りの言葉を返す。
「お兄様、ご武運を祈っております」
「ああ、リナ。絶対に帰って来るから待っててくれよな」
カインは屋敷の一同をグルッと見回した。
「んじゃ、行って来る。後は頼んだぜ」
「行ってらっしゃいませ」
メイド長のカレンが頭を下げると、使用人一同も合わせて頭を下げる。カインたちはシオンが用意した馬車に乗り込み、屋敷を後にした。
「寂しくなるの、セリナや」
「うん。でもお兄様は必ず帰って来るから」
小さくなりゆく馬車を見送って、セリナはギュッと小さな拳を握り締める。
「お兄様が心配しないよう、私がしっかりしないとね」
夢の中の女性とは違うのだと、セリナは自らに言い聞かせた。決して誰も不幸にはしないのだと彼女はその胸に固く誓うのだった。




