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風月佳人・前編  作者: 斎木伯彦
トレリット村の惨劇
37/40

衝撃

「誰か、来てくれ!」

 屋敷の食堂で朝食を摂っていたセリナは、その大音声に危うく喉を詰まらせるところだった。

「お兄様、どうなさったのかしら?」

 どうにか水で喉の奥へ流し込んだ彼女は、食事の途中で立ち上がる。

「お嬢様、私どもが対応致しますので」

「いいえ、何かいつもと様子が違うみたいだし、お祖父様達に何かあったのかもしれないわ」

 カレンが食事の続きを促すように近付いて来たが、セリナは構わずに玄関へと向かった。

「カインお兄様、どうなさったの?」

「リナ……」

 玄関先で立ち尽くすカインの顔色は優れない。セリナはそのような彼の様子を訝しむ。

「お祖父様に何かあったの?」

「落ち着いて聞いてくれ」

 言っている彼の両手は震えていた。セリナは何が起きたのか分からないので、首を傾げるばかりだ。

「師匠が……、師匠が……」

「お兄様、落ち着いて。カレン、水を持って来て頂戴!」

 言葉に詰まり、震える兄の手を握り、メイド長に声を掛ける。兄の震えは彼女をも震わせるかと思える程に激しかった。

「ねえ、お兄様、何があったのか話せる?」

「師匠が……」

 同じ言葉を繰り返すばかりで話が進まない。そうこうする内に複数の使用人が集まって来た。そこへメイド長が水入れとコップを持って戻って来る。

「お兄様、慌てず、ゆっくりと」

 カインは渡された水をゆっくりと飲み干した。それで幾分か落ち着きを取り戻したのか、手の震えは治まっている。

「リナ、すまねぇ」

 ふうっと息を一つ吐き出して、カインは一同を見渡す。

「師匠の家に、夜盗が押し入った。複数の死人が出ている」

「え?」

 兄の思いも寄らぬ言葉に、セリナは鼓動が一つ飛んだ気がした。それから彼女の心臓は早鐘のように脈打ち出す。

「あ……」

 声を出そうとしたセリナだったが、声にならなかった。

「じっちゃんが待っているから、急いで行ってくれ」

「畏まりました」

 集まっていた使用人たちは緊張した面持ちで屋敷から出て行く。カインは水をもう一杯おかわりして、それを一気に喉の奥へ流し込んだ。

「じゃあ、俺も戻るぜ」

「待って、お兄様」

 セリナは兄の服の袖口を掴む。今度はセリナが泣きそうな表情になっていた。

「先生は? シェラ様は? 無事、なの?」

「……リナ」

 見詰めて来る兄の目は優しい光を帯びていたが、その表情は浮かない。それだけでもセリナは状況が絶望的なのだと薄々感づいていた。

「まだ、何も分からないんだ」

「分からないって、先生の姿がないってこと?」

「ああ、師匠も、シェラ様も、どこにもいなかった」

「あ……」

 兄の返答に、セリナの身体が震え出す。

「アリーシャは?」

 昨日、腕に抱いた赤ん坊の安否を彼女は問うた。

「ん? メイドのアリーシャがどうかしたのか?」

 しかしカインにとってのアリーシャとはメイドのアリーシャであり、赤ん坊のアリーシャの存在は知らされていない。

「違うの、先生の家には、赤ちゃんがいたの。それが、それが、アリーシャなのよ!」

 大きく頭を振って彼女は泣き叫ぶように大声を出す。いつにない妹の様子に、さしものカインも驚いた。

「俺は玄関先までしか見てないから分からないけど、赤ん坊がいる様子はなかったし、じっちゃんも気にしている様子はなかったな」

「そんな……」

 ワナワナとセリナの両手が震える。丸でこの世の終わりが来たかのような彼女の姿に、今度はカインが訝しんだ。彼女の肩を掴もうと腕を伸ばす彼の目の前で、セリナは気を失って倒れる。

「リナ!」

 暗くなりゆく彼女の視界に、赤いものが揺れた。フワリと宙に浮く感覚を、彼女は懐かしいと感じる。

「お兄様……」

 消えゆく意識の中で、彼女は兄に抱き留められるのが幾度目なのか数えようとしていた。

「お兄様、危ない!」

 彼女は思わず叫ぶ。目の前で兄は三人の男性たちに囲まれ、剣による斬撃を浴びようとしていた。しかし彼はヒラリとその攻撃を躱すと、腰から抜いた剣で襲い来る男性たちを斬り伏せる。

「良かった」

「ああ、これも……のお蔭だ」

 そう言って笑った兄の顔は見えないが、髪は黒かった。

 違う、彼女の心に違和感が広がる。途端に目の前が歪み、別の場面が映し出された。今度は石畳の舞台の上から、兄を見ている光景だ。

「お兄様」

 流れる音楽に合わせて舞い踊る彼女と、舞台下の兄は視線を絡ませる。顔は見えないが、目と目が合っていると分かる不思議な状況だ。

「お兄様、……は」

 瞬時、視線が外れる。それは兄の横にいた女性が、彼の杯に酌をしたからだった。彼女の感情が爆発する。

「……は、お兄様が欲しい!」

 感情の爆発と共に全身の力が抜け、彼女は腰から舞台の上にへたり込んだ。

「……!」

 彼女の名前を呼びながら兄が駆け寄って来る。それで彼女は安心して、愛しい兄の腕に身を任せた。

 何を見せられているのだろうかと、セリナは思う。幾つもの場面は見慣れない風景ばかりで、人物の顔は判別できないし、いつの出来事なのかも分からなかった。

 しかし、顔の分からない人物でも、一人だけは兄と認識している自分自身に困惑している。それはカインではないというのに。

「お兄様、行ってしまわれるのですか?」

「これは使命なのだ」

「行かないで下さい」

 また場面が変わった。兄がどこかへ旅立とうとしている。それを止めようと彼女は兄にしがみついていた。その彼女の後頭部を兄の優しい手が撫でている。

「必ず帰って来る」

「私も共に行かせて下さい」

「ダメだ」

 彼女に我が儘を言っている自覚はあった。恐らくカインに同じように頼んでも、彼も断るだろう。なのに何故、彼女は兄を困らせるような言葉を紡いでいるのだろう。案の定、彼女が取り縋ろうとした兄はその手を振り払って行ってしまった。後には涙を流し、無事を祈るだけしかできないか弱い女性が残るのみ。

「お兄様!」

 目尻から溢れる涙を拭わず、彼女はひたすらに兄の無事を祈るしか出来ない。

「こんな、苦しい思いはイヤ」

 セリナの心に芽生えた想いは、現実逃避に似ていた。

 苦しい想いをしたくないから逃げ出してしまった。

 相手がそれ以上に苦しんだとは思いもしなかった。

 それが全てを破局に導くなどとも思わなかった。

 ただ、ただ、独り善がりの現実逃避。

 だから彼女は、今度こそ兄を笑顔で送り出そうと決意する。

 愛しい兄だからこそ、後顧の憂いなく全力で目の前の事柄に集中して欲しいからこそ。

 兄の背中が見えた。彼が振り返ると赤い髪が揺れる。

「お兄様!」

 自らの叫び声で彼女は目を覚ました。見慣れた天井、見慣れた部屋。

「あら、気が付きまして?」

 横から声を掛けられて彼女はハッとする。声の主は彼女を覗き込むように身を乗り出して来た。

「シェラ様、ご無事だったのですね、良かった」

 声の主はシェラザードとセリナは信じて話掛けたが、相手の表情は困惑の色を隠さない。

「シェラ様、ですよね?」

「ええと……」

 セリナはマジマジと相手の顔を見詰めた。いつも見慣れたシェラザードの顔だが、違和感がある。それは髪の毛だ。赤紫色の髪をしたシェラザードに対して、目の前の女性の髪は燃えるような赤色だった。

「あの、どちら様ですか?」

 人違いをしてしまったと気付いて、セリナは顔から火が出るかと思うほどの羞恥心に見舞われる。

「わたくしは、エルフィーヌ・フェザーと申します。昨夜遅くにこちらへ参りました。初めまして」

「は、初めまして、私はセリナ・アシャルナートと申します」

 赤髪の女性に名乗られて、慌ててセリナも名乗り返した。それから改めて目の前の女性をシゲシゲと見詰める。顔立ちはシェラザードそっくりだったが、髪の毛以外にも瞳が赤みを帯びていて印象が違った。その瞳に困惑の色が見える。

「あの、そのように見詰められると、困るのですが」

「す、すみません」

 再びセリナは赤面した。見詰められていたエルフィーヌはようやく視線から解放されてホッと一息つく。それから姿勢を正して、寝台の横にある椅子へ座り直した。

「わたくし、それほどまでに貴女のお知り合いの方に似ておりますか?」

「はい、ほぼ生き写しのようです」

 注意深く観察すれば声色も少し違う。しかし、パッと見ただけでは誰もが勘違いするぐらいに似ていて、仮にエルフィーヌがシェラザードの仕草を真似た場合は、アルフォードでさえも間違うのではないかとセリナは考え、クスリと笑った。

「あら、どうなさいましたの?」

「ゴメンなさい、あまりにも似ているから、シェラ様の旦那様でも間違うと思ったらおかしくて」

 セリナの言葉にエルフィーヌが何事かを返そうとすると、部屋の扉が勢いよく開く。二人の視線は自然とそちらへ向いた。

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