先生の家で
「母親は誰なんですか、先生?」
セリナは揺り籠の中の赤子を見ながら、振り返りもせずに素朴な疑問を投げ掛けた。しかしアルフォードは言葉を濁すばかりで、ハッキリした答えは返さない。
「ですから、事情がありまして、それは言えないのですよ」
「でもそれじゃ、シェラ様が納得できないと思います」
それに、とセリナは心の中で続けた。彼女自身もモヤモヤとした感情が残っている。誰とも知れない女性の子をアルフォードの子として受け入れるなんて、とてもではないが感情が受け付けない。振り返ったセリナの視界に、本当に困り果てたような表情を浮かべるアルフォードが入った。その表情はセリナの心をざわつかせる。
「セリナ、もう良いのです。わたくしは納得しておりますから」
優しい声で彼女を窘めたのはアルフォードの妻、シェラザードである。彼女はにこやかに微笑みながら、茶碗を夫の目の前に置く。
「この方のお子であるならば、わたくしの子も同然です。よその方と不義を働いたとしても、今回ばかりは大目に見ますわ。そう決めたのです。次はありませんけれども。ね、そうでしょう、あ・な・た?」
言葉の節々にトゲを仕込みつつ、にこやかに微笑んでいる彼女を見て、セリナは背筋を冷たい汗が流れる思いだった。怒らせてはならないと幼い頃から漠然と感じていたものの、これほどとは思ってもいなかった。シェラザードが差し出した茶碗も、心なしか普段よりも熱く感じられる。
「火傷に注意して」
茶碗に口を付けようとしたセリナへ、彼女は耳打ちする。驚いた表情でアルフォードへ視線を移すと、まさに彼は茶碗を優雅に口元に運んでいた。
「熱っ!」
いつもの調子でお茶を口に含んだ彼は、舌先を火傷したようだ。
「シェラ、これは一体?」
「あら、まあ、少し熱くし過ぎたのかしら? お子のミルクを温めておりましたの」
慌てた様子のアルフォードに、シェラザードは申し訳なさそうな表情で返す。しかし、セリナには悪戯っ子のような表情で笑いかけて来る。その様子から簡単な仕返しをしたのだと気が付いて、セリナは苦笑いするしかなかった。
哺乳瓶には白い液体、牛乳が満たされている。シェラザードは赤子を抱え上げるとその哺乳瓶を口にあてがった。赤子は凄い勢いで牛乳を飲み始める。その世話の様子を見ていたセリナは、不意にアルフォードに対して申し訳ない気持ちが湧き上がって来た。その理由が分からず、彼女は戸惑うばかりだ。
「ところで、この子の名前は決まっているんですか?」
戸惑いを誤魔化そうと、セリナは無難な質問をしていた。
「ええ、アリーシャと言いますのよ。お子の名は、アルが付けたそうですわ」
「え?」
セリナは驚いて振り返った。しかしアルフォードは涼しげな表情で微笑み返して来るだけだ。
「どうかしましたか?」
どうかしたも何も、セリナは行方知れずになったメイドのアリーシャの動向を相談に訪れたのだ。それなのに、同じ名の赤子が目の前にいるのでは驚くなというのが酷である。どこからともなく現れた赤子の存在は、セリナの心を揺さぶった。
「あの……」
何と切り出して良いのか考えがまとまらない。その彼女の機先を制するようにアルフォードが口を開いた。
「ところで、オースティン殿とカインは、どうしていましたか?」
「お祖父様とお兄様は、二人で話し合いをしていました」
「そうですか、するとそろそろですかね?」
「そうですわね」
ニッコリと微笑んだシェラザードは立ち上がると、台所へ向かった。続けてアルフォードが立ち上がると同時に玄関の呼び鈴が鳴り響く。
「来ましたね。セリナ、アリーシャを暫く頼みます」
「は、はい」
突然のことにセリナは返事をするので手一杯だった。アルフォードが玄関まで訪問者を迎えに行ってしまったので、彼女は赤子と二人きり取り残される。
「あなたは、一体……?」
愛くるしい笑顔を見せるアリーシャを彼女は抱え上げた。腕の中の赤子は温かい。その温もりを感じてセリナは胸の奥から何やら熱い想いが込み上げて来る心持ちになった。懐かしさと愛おしさ、それにもう一つ別の感情を思い出しそうになって、不意に心が乱される。
「突然の来訪、失礼致す」
セリナの追憶を遮った堅苦しい挨拶の声は、オースティンの声だ。そっと扉の陰から玄関を覗くと、そこには祖父と兄が正装して立っていた。純白の騎士服に身を包んだカインの姿に、セリナの胸の奥がキュンとする。
「ようこそおいで下さいました。さあ、こちらへどうぞ」
出迎えたアルフォードは、玄関横の扉を開いた。そこは応接室になっているがセリナは足を踏み入れたことがない。三人の背中を見送っていると、奥からシェラザードが菓子とお茶を持って出て来た。
「セリナ、居間の卓上にお菓子を用意してありますから、召し上がって待っていなさい」
「はい、ありがとうございます」
応接室で何が行われているのか気になるが、神妙な面持ちの兄を思い起こして好奇心を抑え付ける。セリナは言われた通りに居間へ戻ると、卓上の菓子へ視線を向けた。皿の上には切り分けられた簡素なフルーツケーキがあった。しかしこれは兄の好物でもある。セリナは自然と口元が緩み、椅子に腰掛けるとそっと手を伸ばした。
「アリーシャも食べる?」
小さな手を伸ばして欲しがる彼女に、セリナは微笑ましい気持ちになる。フォークでフルーツケーキを小さく切り分けて、アリーシャの口元へ運んだ。あまり深く考えなかったが赤子は美味しそうにケーキを食べる。その様子にセリナは再び胸の奥に鋭い痛みを感じた。
「どうして……?」
こうして赤子を抱え、その世話を焼いているとセリナは不思議な気持ちに包まれる。遠い昔に戻ったような錯覚。何かを思い出しそうになるが、何故か靄がかかったようになって思い出せない。
「ゴメンね、アリーシャ」
口をついて出たのは謝罪の言葉だった。どうしてなのかは分からないが、それでもそれが偽らざる気持ちに違いなかった。アリーシャは嬉しそうに微笑んでいる。それがまたセリナの胸を締め付けた。玄関の扉が閉まる音が響く。ハッと我に返ったセリナは目尻から流れ落ちる滴を慌てて拭い取った。夫妻が戻って来るが、何事もなかったように振る舞おうと彼女はフルーツケーキを頬張る。
「やれやれ、これで一段落つきましたね」
「そうですわね、カインも立派になりました」
居間に戻って来た夫妻はセリナの向かい側へ並んで腰掛けた。
「これでカインも、今日から立派な騎士です」
「そうですわね。一安心ですわ、大変でしたでしょう」
アルフォードは肩の荷が下りたとばかりに穏やかな笑みを浮かべる。シェラザードはフルーツケーキを切り分けると、夫の前に差し出した。
「先生、今日からと言うことは、昨日の式でお兄様は正式な騎士ではなかったのですか?」
セリナが疑問をぶつける。すると夫妻は顔を見合わせて微笑み合った。
「昨日の式で、カインは騎士として正式に認められます」
「え、それじゃあ?」
「正式な騎士と、立派な騎士では違いがあるのですよ」
アルフォードの言い分はセリナには理解が届かない。得心できない様子を見て、シェラザードが助け船を出した。
「騎士は任命式を執り行うことでその身分を得ますが、その後で後見人に感謝を伝えるのが立派な騎士の勤めとなります。後見人の多くは血族が務めますから、最近はこの感謝の勤めを省略する者が多いのですよ。嘆かわしいことです」
「そう、ですか」
セリナはそれでもよく分からなかったが、兄が立派な騎士になれたのだと思うと、我が事のように嬉しくなる。
「ところで、セリナは何の御用でしたの?」
シェラザードの問い掛けにセリナは口籠もった。いなくなったメイドのアリーシャの行方について相談に来たのだが、彼女の腕の中にいる赤子のアリーシャとの関連が不明なので、うまく考えをまとめられないでいたのだ。
「あの……」




