夫婦喧嘩
「はっくしょん!」
大きなクシャミを一つして、アルフォードは身震いする。彼は一晩を外で過ごしたのだ。それほどに彼の妻、シェラザードの怒りは大きかった。アルフォードは彼女に対して申し訳なく思ってはいるが、そのような彼の気遣いを無視するかのように、彼女は傍らでのんびりと赤子をあやしている。
「シェラ、まだ怒っているのですか?」
アルフォードはハギレで鼻を拭いながら、優しさの籠もった声で問い掛けた。シェラザードは素っ気なく彼の問い掛けを聞き流す。
「わたくし以外の方と親密にしていらしたのですもの、ねえ。そのような悪いお人はどうなさいましょうか?」
床を這い回る赤子に彼女は問い掛けた。それが皮肉だと気付かないアルフォードでもない。二人がこのような状況に陥っているのは、アルフォードが連れ帰って来た赤子が原因である。シェラザードは全ての責任は彼にあると思っているので、怒りの色を隠そうともしない。
「あらあら、本当に可愛らしいお子ですわね、貴女は」
赤子は楽しげにキャッキャッと笑っている。赤子をあやすシェラザードも実に嬉しそうだ。その様子を見ていたアルフォードは胸が痛んだ。彼ら夫婦の実の子は、生まれて暫くしてから人質も同然に皇都へ連れ去られている。シェラザードは年に数度は会いに行っていたが、彼自身は連れ去られて以降は一度も顔を会わせたことがない。そうやって会えていたのもその子が幼い間までだった。不慮の事故で亡くなった我が子に思いを馳せる時、目の前の光景が本来は自分たちにも有り得たはずだと彼に自責の念を感じさせる。
「貴女のお名前まで決まっていたなんて、本当に不思議ですわよね」
ぼんやりと目の前の光景を眺めていたアルフォードの意識を、妻の嫌味が引き戻す。そう、連れ帰って来た赤子は既に名付けられていた。名をアリーシャという。アルフォードは自らの子だと告げたが、そうなると赤子を産んだ女性とはつい最近までそういう関係を結んでいたことになるので、シェラザードはそれが許せないのだ。しかし、アルフォードは真実を告げられずにいた。まさか目の前の赤子が十年以上も前に別の女性に産ませた子供で、しかも正確な誕生日すらも知らないとは言えそうもない。ましてや実の母親が誰であるかなど、口が裂けても言えるはずもなかった。
「シェラ、許してくれ」
弱々しく懇願する彼に、シェラザードが振り返る。満面に笑みを浮かべた彼女に、アルフォードは淡い期待を寄せた。
「い・や、ですわ」
キッパリと拒絶されて、彼は肩を落とした。てっきり許されると思っていた彼に、シェラザードは追い打ちを掛けるように口を開いた。
「ですから……」
その彼女を遮るように、玄関の呼び鈴が鳴り響く。
「あら、どなたかしら?」
シェラザードは立ち上がると、赤子を抱き上げて玄関に向かう。残されたアルフォードは再び大きなクシャミを放っていた。
「先生、風邪ですか?」
シェラザードに案内されて入って来たのは銀髪の女性、セリナだった。アルフォードの表情が気まずさに曇る。
「あの方は、悪さをした報いを受けていますのよ」
いつになく嬉しそうに話すシェラザードを見て、やって来たセリナは当惑を隠せない。いつもの優しいシェラザードとは別人のような振る舞いと、彼女の腕に抱かれる赤子が何者なのか、聞きたいことだらけでどうして良いのか見当も付かなかった。
「あ、あの、シェラ様。昨日、何かあったのですか?」
「セリナ、気を遣う必要はありません。全ては私が悪いのです」
恐る恐るといった雰囲気で口を開いたセリナに、アルフォードは優しく声を掛ける。すると、ここぞとばかりにシェラザードが口を開いた。
「分かっていらっしゃるなら、どうして最初からそう仰らなかったのですの?」
赤子を抱いたまま、彼女は夫に詰め寄る。
「さあ、お答え下さいませ。このお子の母親はどなたですの? それさえお答え下されば、わたくしは許します」
朝以来の問い掛けだった。セリナの視線も気にせず、彼女は夫に厳しい視線を送っている。しかし、夫は口を噤んだまま決して答えようとはしなかった。アルフォードの視線は、一瞬だけセリナの方へ向けられる。それから妻の胸に抱かれる赤子へ視線を落として軽く首を横に振った。
「シェラ、それだけは、言えない。いや、言ったとして、信じて貰えるかどうか……」
アルフォードは奥歯に物が挟まったような言い方に終始する。言葉を濁した夫に対して、シェラザードは失望の色を隠さない。
「何を仰いますの、貴方は。夫婦とは互いを信頼し合って、支え合ってゆくはずですわ。それを何も言わないままに決めつけるなどと……」
彼女は更に言い募る雰囲気だったが、突如として言葉を切るとグッと下唇を噛み締めた。
「そう、そうですか。分かりました。わたくしを信頼できない、と。そう仰りたいのですのね。もう……、もう、よろしいですわ、何も仰らなくても」
語気も眼差しも鋭くそう言い放つと、彼女は赤子を抱えたまま足早にテラスへ飛び出して行く。呆気にとられて身動きできないセリナと、弾かれたように立ち上がり妻の後を追うアルフォードで、対応が分かれた。テラスに出たシェラザードは真っ直ぐに湖へ向かって足を進める。
「シェラ、待て。何をするつもりだ?」
夫の呼び掛けに、彼女はテラスの端で立ち止まると、キッと睨み付けるような視線で振り返った。その眼光に、思わずアルフォードもたじろぐ。
「わたくし……、わたくしは、貴方にとって何ですの? そのように信頼なさって下さらないのでしたら、いない方が良いのですわ。どうか、もうお引き留めなさらないで下さい!」
そう言い捨てると、彼女はアリーシャを抱えたまま湖へとその身を躍らせた。懸命に伸ばしたアルフォードの手をすり抜け、シェラザードの身体は湖に沈む。立ち竦むセリナの目の前で彼は躊躇うことなく湖へ飛び込んだ。
「先生! シェラ様!」
慌ててテラスの端に駆け寄ったセリナの視界には、泡立つ湖面があるのみだ。どうして良いのかオロオロとしている彼女の目の前で湖面が盛り上がった。
「セリナ、アリーシャを頼む」
「は、はい!」
アルフォードの左手には赤子が、右腕にはシェラザード抱えられている。彼は器用にテラスへ泳ぎ寄ると、左腕を伸ばして赤子をセリナに差し出した。そっとセリナは赤子を抱き寄せる。彼女が赤子を抱きかかえたのを確認して、アルフォードはシェラザードと共にテラスへ這い上がって来た。グッタリとした彼女は意識を失っているようだ。
「セリナ、すまないが室内からタオルを持って来てくれ」
「はい、分かりました」
ずぶ濡れの赤子が泣き出したが、彼女にはどうしてやることもできない。言われた通りにタオルを持って戻ると、アルフォードは妻に口づけしていた。
「先生、持って来ました」
「ありがとう」
彼はそう言いながら、妻の身体を横へ転がす。シェラザードは咳き込んで水を吐き出した。
「これで大丈夫でしょう」
セリナの手からタオルを受け取り、折りたたんで妻の枕代わりに使う。続けてアリーシャも彼に受け渡された。彼は泣いている赤子を慣れた手つきで落ち着かせると、何事かを呟く。一陣の風が吹いて、赤子の服は乾いた。目を丸くして驚くセリナも風に包まれる。
「濡れたままでは風邪を引きますからね」
アルフォードが微笑んだ。
「ここは……?」
「目が覚めましたか?」
シェラザードが状況を把握できずにいると、アルフォードは彼女の腕にアリーシャを預けて、優しく抱き上げる。
「もう、あのような無茶はやめて下さい。私には貴女が必要です」
「……はい、申し訳ありません」
彼女は視線を腕の中の赤子に落とした。
「わたくし、怒り過ぎておりましたわ。それに意地を張り過ぎでした。このお子が貴方様のお子なら、わたくしの子でもあります。どうか、そうして下さい」
「ああ、そうしよう。この子は貴女と、私の子だ」
アルフォードは小さく驚いたが、すぐに大きく頷いた。見つめ合ったまま、夫婦の時間は過ぎてゆく。テラスの上で一人取り残された感じになったセリナは安堵の溜息を漏らしてから、小さく呟いた。
「ご馳走様です」




