不穏な動き
暁の女神がその指先で地表を撫でる頃、セリナは目を覚ました。何か嫌な夢を見ていた気もするが、眼前にある赤い塊に寝ぼけ眼が反応する。
「お兄様……」
赤い塊は兄の頭だ。昨夜、共に食事をして、共に寝た。その余韻が彼女の身体には残っている。
「大好き」
眠っている兄に小声で伝えると、不意に彼の目蓋が開いた。驚いて丸くした彼女の目を、兄が優しい眼差しで見詰めて来る。
「俺も大好きだぜ、リナ」
グイッと彼は妹を抱き寄せて唇を重ねた。二人は兄妹の垣根を越えたのだから、何も遠慮しない。
「ねえ、そろそろカレンが起こしに来ると思うの」
「そうだな、流石にこのままで見つかるとじっちゃんの雷が落ちそうだ」
セリナの言葉と、外の明るさから起床時刻と判断して、カインは寝台から起き上がった。手早く衣類を身に着けて、彼は窓辺に立ち寄る。その兄の様子を怪訝そうに見るセリナは、未だに寝台の中だ。
「じゃ、また後でな」
「うん……?」
カインは振り返って彼女にそう告げると、あっという間もなく窓から外へ飛び出して行った。開け放たれた窓から朝の空気が入る。彼女はポカンとしていたが、慌てて寝台から飛び出た。
「か、カイン?」
掛け布団を羽織った姿で窓の外を覗き込むと、赤い髪を揺らして兄が走り去る後ろ姿だけが見える。ケガをしていないと安心して、彼女は胸を撫で下ろした。それから窓を閉じる。
「また無茶して、いつまでも子供なんだから」
クスリと笑った彼女の笑顔は満足そうだった。上機嫌のまま、衣服を着てゆく。着替えが終わる時点で、扉を軽く叩く音が響いた。
「お嬢様、朝食の支度が済みましてございます」
メイド長のカレンの声だ。セリナは返事をして扉を開ける。
「おはよう、カレン」
「おはようございます、お嬢様」
いつもの日常が始まろうとしていた。セリナは足取りも軽やかに階段を下りて食堂に向かう。食堂の入り口まで来ると、祖父が難しい表情を浮かべて腕組みしていた。何やら考え込んでいる様子だ。
「おはようお祖父様、どうかなさったの?」
「セリナか」
孫娘の姿を見て、彼は幾分か表情が和らぐ。
「実はのぅ、アリーシャがおらんのだ」
アリーシャが行方不明という話を聞いて、セリナは何かを思い出しかけたが、頭の中に靄が掛かったようになって何も思い出せない。
「荷物はあるのだが、姿が見えなくてのぅ。何か報されておらんか?」
「いいえ、何も」
セリナは首を横に振った。仲良くしていたので、黙っていなくなられると寂しさが募る。
「後はカインじゃな」
祖父の言葉にセリナはキョトンとしてしまう。どうして兄が関係して来るのだろう。
「席に着いて待つとしよう」
オースティンに促されて彼女らは食堂に入り、いつもの席に腰掛けた。オースティンの視線は食堂入り口に向けられる。自然とセリナも同じように入り口へ視線を注いだ。二人が注視していると扉が開く。二人はアリーシャが入って来るのかと身構えた。
「ふあああ、眠ぃ~」
入って来たのはカインだった。大欠伸を隠そうともせず、気怠そうな雰囲気を放出している。オースティンが軽く溜め息をついて首を横に振った。
「……やれやれじゃわい」
「お兄様はいつも通りね」
セリナも流石に苦笑いを浮かべてしまう。状況が飲み込めないカインは不思議そうな面持ちでセリナの横へ腰掛けた。
「何かあったのか?」
「うむ、メイドのアリーシャが行方知れずでな、荷物は残っておるし、給金もこれから渡すところじゃったから、里に帰ったのでもないと思っておる」
オースティンの説明にも、カインは特に思い当たる節がなく、聞き流していた。彼が腰掛けたのを合図にして、使用人たちが朝食を食卓に並べ始める。
「ふーん、アリーシャ、ねぇ……」
「お兄様は、知らないんじゃないかな。つい先日入ったばかりの臨時雇いだし……」
セリナはここ数日間の忙しさで、顔を合わせていない古参の使用人がいる自らの体験を踏まえて、兄の無実を証明しようとした。その間にも食卓の上には次々と料理が運ばれて来る。
「何を言っておる。屋敷に帰って来て、最初に顔を合わせているであろう」
兄妹の会話にオースティンが口を差し挟んだ。カインはそれでも思い出せない。
「まあ良い。食事を先に済ませてしまおう」
三人はオースティンの言葉に賛同を示して、食事を始める。
「そう言えば、シオン殿は早朝に出立されたようだが、急ぎの用事でもあったのかのぅ?」
「北から蛮族が攻めて来ているみたいなことは言ってたなぁ」
カインは旺盛な食欲で胃袋を満たしながら、食事の手が止まっているセリナに気付いた。
「どうした、リナ?」
「ん、ちょっと、気になることがあるのだけど……」
彼女は頭の中に引っ掛かりを感じていたが、何故か思い出せないもどかしさと違和感を抱いていた。
「アリーシャと何かあった気がするの……」
「気にし過ぎだって。その内に戻って来るさ」
暗い表情になりつつある妹を励ますように、カインは努めて明るく振る舞っていた。
「ワシはまた、お前が部屋に連れ込んだのではないかと心配していたんだがの」
オースティンの一言で場の雰囲気が凍り付く。
「や、やだなぁ、じっちゃん。こんな時に冗談なんか言って……」
隣のセリナからドス黒いオーラが立ち上る気配を感じて、カインは誤魔化して切り抜けようとした。
「そ、それより俺、また皇都に行くかもしれねぇから」
「そうか、では後で部屋まで来なさい」
食事を終えて立ち上がったオースティンは兄妹を残して退室して行く。険悪な雰囲気のセリナに、カインは恐る恐る話し掛けた。
「なぁ、リナ、じっちゃんのあれは冗談だからな」
「ええ、信じていますわ、お・に・い・さ・ま」
ニッコリと微笑みかける妹の様子に、カインはホッと胸を撫で下ろす。
「アリーシャじゃなくて、他のメイドのことでしょう?」
「ああ、……ってリナ、どうしてそれを?」
不意を衝かれて思わず返した言葉に、彼は慌てて口元を手で押さえた。だが時既に遅し。セリナは平手で食卓を叩くと、すっくと立ち上がった。
「も~う、お兄様のバカ! 不潔よ、大っ嫌い!」
セリナは喉も張り裂けんばかりに叫んで食堂から駆け出して行く。耳元で大声を出されたカインは耳鳴りと目眩で前後不覚に陥り、後を追うことすらできなかった。階段を駆け上るセリナの視界が歪む。悔しさで涙が溢れ始めたのだ。
「カインのバカバカバカ、嫌いよ、大っ嫌い!」
部屋に飛び込むようにして駆け込むと、枕に突っ伏して嗚咽を漏らす。昨夜、カインと結ばれたばかりだというのに、彼の女性関係を聞かせられるのは最低の気分だった。涙で濡らした枕も、身を投げ出している布団も、部屋の中の全てが不潔に感じてしまう。セリナは目尻を拭いて涙の跡を消すと、メイドを呼びつけた。
「お嬢様、何用でしょうか?」
「部屋の中を掃除して頂戴。シーツも枕もカーテンも、全て洗濯して」
セリナの命令にメイドは驚く。
「お嬢様、そちらは取り替えたばかりですが……」
「いいから、言う通りにして!」
いつにない剣幕に押されて、メイドは頭を下げると命じられた通りに掃除と洗濯に取り掛かる。持ち出せるものは全て持ち出したので、室内は殺風景になっていた。セリナは着替えも済ませて、読み掛けの本を小脇に抱える。
「それではお嬢様、掃除が終わるまでこちらでお待ち下さい」
メイドに案内されて屋敷の奥の客間に向かう。昨日の式典に参加した賓客たちは屋敷に宿泊したが、使わなかった部屋もあった。そこへ彼女は案内される。




