過去との訣別
森の中を一つの影が動いていた。漆黒の外套でスッポリと覆われた姿は、何者なのか判然としない。
「……アリーシャめ、しくじったな」
影は口の中でごちた。彼は標的の部屋の窓から出て来た人物を追い掛けたが、湖の上を飛んで行ってしまい、追跡に失敗している。無論、アリーシャは飛行魔法を使えなかったはずなので、別の人物が標的の部屋から出て来たのは、アリーシャが失敗したと類推するに充分な理由足り得た。
「アリーシャを退け、更に飛行魔法を使うとは、長に違いない」
彼は無意識に唇を舐める。
「兄の無念、ここで晴らす」
森の中を疾走して、大きな館が見えて来た。夜明けまではまだ時がある。アリーシャが失敗したならば、彼自らがその手を下すのみだ。その動きを見せれば、長も姿を見せるだろう。任務遂行と仇討ちの両立を目論んで、彼は木立から標的の部屋の窓を突き破る勢いで跳んだ。
「何?」
窓を突き破るどころか、彼は跳ね返される。咄嗟に空中で身を翻して、どうにか足先から着地した。
「防御魔法?」
「その通りだ、カイザー」
窓を見上げる彼に、背後から声が掛けられる。ハッとして振り返ると、そこには忘れもしない長が佇んでいた。
「舐められたものだ。この俺の背後を取った上で、不意打ちを自ら放棄するとはな」
「お前では私に勝つことはできない。カイザー、諦めて城に帰れ」
アルフォードは冷たく言い放つ。
「生憎、ソフィア様の命令は絶対だ。長といえども一族の掟に反した女を生かしてはおけぬだろう?」
「……それでお前は、ラリアを斬ったのか?」
地の底から響くような声で彼は問い掛ける。彼の目がすうっと細くなったのにも気付かず、カイザーは少し考えて言葉を返した。
「ああ、あの女か。なかなかの手練れだったが、義手では我らに勝てる見込みはない。あのガキも手を焼いたが、流石は長の子とだけ褒めておこう」
尊大な言い方とその内容が、アルフォードの神経を逆撫でする。
「ルーディリートは掟を破ってはいないし、ラリアも破っていなかった。お前たちの行いは行き過ぎだ。よって、長が直々に誅戮する」
アルフォードは手にしていた剣を抜き放った。淡い光を帯びた刀身が夜の闇に浮かぶ。
「城にも戻って来ないのに長気取りとは、ソフィア様の苦労を少しは理解したらどうだ?」
「黙れ!」
アルフォードの剣が一閃した。しかしカイザーはヒラリと身を翻してその斬撃から逃れる。
「戦いに冷静さを欠くとは、焼きが回ったな長よ」
カイザーの手元から漆黒の礫が飛んだ。アルフォードはそれを剣で払い落とす。
「隙有り、だ」
背後に回ったカイザーの漆黒の刃が、アルフォードの胸を貫いた。
「くく、以前の俺とは違うのだよ」
喜悦の表情を浮かべた彼だったが、手応えに違和感を覚える。と見る間にアルフォードの身体は文字通り崩れ落ちた。
「何?」
カイザーの足元には水溜まりが出来ている。その水溜まりの表面が沸き立つように震えると、再び人の形になった。今度は長の姿ではなく、若い女性の姿だ。
「使い魔か!」
精霊を操り、アルフォード自身はどこかに潜んでいると判り、カイザーは舌打ちした。形勢不利と判断してクルリと踵を返すと、森の中へと分け入る。追跡する側から、追跡される立場に逆転した彼は、木々の間を駆けながら長の姿を探した。
「少し開けた所が良いだろう」
暫く走って、湖の畔に出る。夜風が火照った身体を心地良く包んだ。
「カイザー、覚悟はできたか?」
「生憎、俺はしぶといのが信条だ」
両手に短剣を構え、湖を背にして迎撃態勢を整えた。アルフォードはゆっくりと森の中から姿を現す。
「苦しむことなく、その息を止めてくれよう」
サッとアルフォードの右手が挙がった。カイザーはその手から魔法が放たれると思い身構える。魔法が放たれる瞬間を決して見逃すまいと集中した彼を、背後から水が包み込む。
「しまっ……」
失敗したと彼が気付いた時には既に遅かった。全身が水に覆われ、そのまま湖の中に引きずり込まれる。
「だから言ったのだ、お前では私に勝てない、と」
湖面の渦を見ながらアルフォードは虚しさを感じていた。愛する者の命を奪った相手に報復したところで、愛する者は帰っても来ないし、喜んでいるかも判然としない。
「ラリア、仇は討った」
地上の時間で百年近くを共に過ごした彼女は、彼の心の中で大きな存在だった。その彼の胸中に去来するのは、二人の妹だ。彼から逃れようとした末妹と、手段を選ばず彼を束縛しようとした上の妹。
「エリス、お前はルーディリートを憎み、私を恨んでいるのか?」
束縛を何より嫌う彼にとって、エリスの周辺は居心地が良いとは言えなかった。だから地上に安息の場所を求めてしまう。その行為が更なる束縛に繋がっているとは、彼も気付いていなかった。
「……終わりだ」
渦が弱まり、湖面は穏やかさを取り戻して行く。彼の心中も穏やかさを取り戻しつつあった。湖に背を向け、彼はアシャルナート邸に向け歩き出す。
アルフォードが立ち去って暫く、水中から草原に影が飛び出して来た。荒い息遣いで肩を揺らしているのはカイザーだ。
「ご無事で何よりです、兄上」
木立の蔭から金髪の女性が姿を現す。カイザーは息を整えようと深い呼吸を繰り返していた。
「助かったぞ、妹よ」
「兄上やアリーシャを助けるのは、ソフィア様のご命令」
カイザーの妹、モリーは長と兄の後を追って様子を窺っていたのだ。兄が水中に引き込まれる寸前、彼の身体を薄い空気の膜で覆ったことで、窒息と溺死を免れるように助けていた。
「長め、あの頃とは違い、容赦なかったな」
「ええ、ですが長は兄上が死んだと思っているでしょうから、そこに付け入る隙がありますわ」
モリーは妖艶に笑う。
「妹よ、お前の案を聞こう」
カイザーは彼女の作戦を聞いて不敵な笑みを浮かべた。
「ソフィア様にも伝えておこう」
「はい、兄上」
カイザーが闇の中に消えると、モリーは軽く溜息をつく。彼女たち兄妹に親愛の情はほとんどない。父の教えは冷酷非情で、ソフィアの片腕として生きる為には打算的かつ狡猾に徹するよう子供時代から言い聞かせられている。その影響で、ソフィアの前では従順な下僕を装い、本来の陰険狡猾な気質を隠し通していた。
「兄上には悪いですけど、長を殺させはしません。私も側室として寵愛を受けたいですから」
既に主のソフィアからは言質を取っているので、後は長の心象改善を図るだけだ。勿論、邪魔な存在を消すのにも躊躇はない。
「あの女を始末すれば、その心の隙間に……」
含み笑いを残して、彼女はその場を後にした。夜明けからの行動をその脳裡に描いて。




