過去との対面
「アリーシャ、何があったか話せますか?」
アルフォードは膝を曲げて、娘と同じ視線の高さに身を屈めた。彼が優しく声を掛けると、彼女は小さく頷く。
「私は、母様と離された後、ソニアによってソフィア様に面会させられました」
震える唇で絞り出すように彼女は続けた。
「ソフィア様は仰いました、全てを忘れ、命令に忠実に従うなら、母様と再び会わせてくれると」
それからとアリーシャは言葉を一旦区切り、視線を逸らせて何かを躊躇する。ややあって顔を上げると、アルフォードを真っ直ぐに見詰めた。
「私はカイザー様の下で訓練を受けました。闇の巫女として各地を回り、そして母様を、殺せと命じられました」
「そうでしたか、辛かったでしょう」
アルフォードはそっと娘の肩を抱き寄せる。その肩は小さく、小刻みに震えていた。
「父様、私は……」
「ええ、分かっています。あなたは何も悪くありません。ただ命令に従っただけ。それも記憶を消された上での行いです。誰が許さなくとも、私が許します」
娘の後頭部を撫でながら、彼は優しく語り掛ける。涙ながらに話していたアリーシャはそれで落ち着きを取り戻した。
「けれど、母様をこの手に掛けようとしたのは拭い去れない事実。父様、どうかお慈悲を」
「もう、私には慈悲を掛ける余裕はありません」
アルフォードは首を横に振る。その言葉にアリーシャは呆けたように天井を見上げるだけだった。
「ですが、あなたは私の娘です。その責任は取りましょう」
彼は娘をその腕に抱えたまま言葉を続ける。彼女は久方ぶりの温もりに身を委ねていた。
「あなたはもう一度、人生をやり直すのです。それが私とルーのせめてもの償いです」
「はい、父様」
アリーシャの頬を涙が伝う。
「身勝手な父を許して欲しい。すまぬ」
「会いたかった、ずっと……。会えて良かった、私の父様」
アリーシャの表情は穏やかになっていた。そっと父娘は離れる。しばらく見つめ合いその姿を記憶に留めようとした。
「愛する我が娘よ、決して忘れぬ。お前を犠牲にしてしまったことを……」
彼は拾い上げていたアリーシャの短剣を右手に持ち直す。黒い刀身が鈍く光った。
「父様の仰せのままに」
「力を抜きなさい。楽になりますから」
「はい」
アリーシャは素直に頭を垂れ、両手を胸の前で組み合わせる。アルフォードは娘の黒髪を束ねて左手で掴んだ。白い首筋が露わになり、彼は右手の短剣を勢いよく振り下ろす。
「すまぬ、こんなことしかしてやれぬ、アリーシャ」
彼の左手には黒い髪の毛が握られていた。沈痛な面持ちで娘の黒髪を握った左手を胸に押し当てる。
「私は長失格だ。追うな、誰も」
ボソリと呟いた彼は寂しそうに床を見詰めた。妹を守る為とは言え、娘を犠牲にしてしまったことを悔やむ。だが、こうでもしなければこの先も一族の追手が来ない保証はない。
「さて、後片付けが必要ですね」
気を取り直して、彼は室内を見回した。散乱した室内にはセリナとカインが寝転がっている。
「二人がそういう関係になるとは」
アルフォードは苦笑する。カインは彼の息子で、セリナは妹だ。地下族の慣習では結婚できない間柄ではない。
「血は争えないのでしょうかね」
魔法の力で破損した物品を修復し、寝転がる二人も寝台へと移動させる。室内はアリーシャの襲撃を受ける前の状態に復元されていた。
「ルー、お前の記憶が戻らない方が幸せなら、それで構いません。今度こそ幸せになりなさい」
彼の胸中は複雑だ。目の前で眠るセリナは本来ならば彼の妹であり、最愛の女性でもあった。しかし現在の彼にとっては妻のシェラザードが最愛の女性であり、今後もそれは変わらないだろう。一度は諦めた相手でもあり、その幸せを願う気持ちに偽りはない。
「カイン、ルーを……、セリナを頼みましたよ」
優しい微笑みを浮かべて彼は眠る二人を見下ろした。
「ゆっくりお休み、良い夢を」
彼はそう告げて燭台の明かりを消すと、窓から夜の闇へと身を躍らせた。その腕の中に小さな赤子を抱いて。
風に揺さぶられて、木立がざわめく。夜の闇の中をアルフォードは駆けていた。
「つけられているな」
セリナの部屋から出て、屋敷を離れた辺りから尾行する何者かの気配を察知していた。
「このまま戻れば、シェラを巻き込みますね」
アリーシャが師事していたのはカイザーだと言っていたのを思い出し、一族の城から脱出した時の出来事を思い起こす。
「奴は、私を恨んでいる可能性が高いな」
カイザーの兄、ヴォルターの命を奪ったのは他ならぬ彼自身だ。恐らくアリーシャを使ってセリナを暗殺しようとしたのも、彼に対する当て付けが含まれているに違いなかった。
「ならば……」
アルフォードは自宅とは反対方向に進路を変える。湖の外周を南側から西へと走った。気配はそのような彼を追って来る。頃合を見て、彼は湖上へと文字通り飛び出した。水面スレスレを飛行魔法で移動する彼に気配はついて来ない。
「やれやれ、どうにか振り切ったようですね」
それでも慎重を期して自宅から離れた位置に上陸すると、速やかに自宅へ戻った。生け垣の門を抜けて、玄関前の中庭で立ち止まる。
「しかし、どう説明しましょうか、ねえ……」
彼は腕の中で眠る赤子を見詰めた。安心したかのように眠る赤子は彼の娘、アリーシャだ。母親のルーディリートの時と同じように、魔法の力で赤子に戻したのだ。彼女のことを妻のシェラザードに説明しなければならないのだが、その糸口が見出せなかった。事情があると話せば理解して貰えるはずだが、果たして巧く物事が運ぶかは予断を許さない。逡巡して立ち尽くしていると、中から女性の声が聞こえて来た。
「そこにいるのは、どなたですか?」
「シェラ、私です」
アルフォードが優しく答えると、ガチャガチャと音がして、扉が開かれる。
「あなた、ご無事でしたか。急に飛び出して行かれ……」
扉の隙間から顔を覗かせたシェラザードは、途中で言葉を切った。彼女の視界には、夫が立っているが、その腕にはスヤスヤと眠る赤子が抱えられている。
「どなたのお子ですの?」
やっとのことで質問した彼女に、アルフォードはバツの悪そうな素振りで答える。
「私の子です。話すと長くなりますが、名はアリーシャ……」
彼が説明しようとしたのを、ふうっと大きく息を吐き出して彼女は遮った。彼女は手にしていた剣を差し出す。反射的にその剣を受け取ったアルフォードは、抱えていた赤子と交換する形になった。
「それで……」
バタンッ、ガチャ。
説明しようとした彼の目の前で扉が閉ざされ、更に施錠された。
「シェ、シェラ?」
驚いた彼に、扉越しでシェラザードが答える。
「もう一度、お答え下さい。どなたのお子ですの?」
「アリーシャは私の子です」
アルフォードは明瞭に返答した。少しの沈黙を挟んで、シェラザードが告げる。
「……わたくし以外の方と仲睦まじくされていらっしゃった罰です。今夜はお引き取り下さいませ」
「何を……?」
アルフォードが当惑している間に、玄関先から足音が遠ざかった。閉ざされた扉の前で立ち尽くしていたアルフォードは軽く首を横に振ると、玄関前から立ち去る。その様子をシェラザードは室内から黙って見送った。
「……アリーシャは、ルーディリートさんのお子。それがどうして赤ん坊になるのですか?」
彼女の腕の中で眠る赤子と、遥か昔に出会った少女にどのような関連性があるのか、シェラザードには見当もつかない。
「わたくしが落ち着いてお話を聞けるまで、間を下さい」
心の中で愛する夫に詫びながらも、生け垣の向こう、夜の闇に消え行く彼の背中を見詰めた。心無しかくたびれたように見える夫の背中は、森の中へ吸い込まれて行く。
「隠し事はしない約束ですもの」
遠い日の約束を思い出しながら、彼女は寝室へと向かった。




