闇と光と
「アリーシャ!」
燭台の灯りに照らされて不敵な笑みを浮かべているのはアリーシャだった。黒一色の服装に、漆黒の刃を携えた彼女は立ちはだかるカインを気にも留めていない様子だ。
「嘘よ、嘘でしょ……?」
セリナは目の前の情景と、これまでの彼女との信頼関係が一致せず、混乱していた。
「邪魔せずにいれば、死なずに済んだものを……」
「大口を叩いていられるのも、今の内だぜ」
カインの右手に握られているのは果物ナイフで、左手には金属製のお盆が構えられている。得意の長剣ではないが、士官学校では格闘術と共に短剣の戦い方も教えられているので、遅れを取ることはないと自負していた。
「リナに怖い思いをさせたこと、後悔させてやるぜ」
カインは一歩踏み出して威嚇するが、アリーシャには全く通じなかった。
「己の分を知りなさい」
アリーシャは予備動作なしで短剣を突き込んで来る。カインはそれを左手のお盆で受け流そうとした。しかし、アリーシャの短剣は予想以上に速く、受けたお盆は易々と貫通されてしまう。カインは咄嗟に貫通されたお盆を投げ捨てた。アリーシャの手から短剣が離れ、彼はしてやったりの笑みを浮かべると同時に、側頭部に強烈な衝撃を受ける。
「……へえ、なかなか頑丈ね」
アリーシャは左足のみで立っていた。カインは死角から頭を蹴られたと理解はできたが、それ以上のことは分からない。アリーシャの動きが速過ぎて対応できなかった。
「もう少しできると思ったけど、女を抱いて腑抜けになった?」
「な、何を……?」
カインは動揺する。その隙を逃さず、アリーシャは彼の顎と胸板に蹴りを食らわせた。
「ぐっ……」
痛みを堪えながらカインは反撃の糸口を探る。しかしアリーシャの容赦ない攻撃に、彼は防戦一方となっていた。本来、蹴りは大きな隙を作る動作なのだが、彼女は身軽に、そして自在に足を繰り出して来る。片足を捕まえて動きを封じようとしても、まるでそれを察知したかのように彼の膝を横から蹴って来た。低い位置への蹴りは防御も難しい。それではとカインが足払いを放とうとするが、体勢を低くしたところを鋭い回し蹴りが顔面を襲った。
不意打ちにも似た、その回し蹴りをこめかみに受けて、堪らずカインは床に崩れ落ちる。
「弱い。こんな者を護衛として任せているなんて、長も焼きが回ったのかしら」
「やめて、アリーシャ。もうこれ以上、酷いことをしないで」
涙目のセリナがカインを庇うように出ると両腕を広げた。アリーシャはその兄妹の有様を鼻先で笑う。
「酷いことをしたのは、あなたが先よ」
「何のこと?」
アリーシャは床に転がっていた自身の短剣を拾い上げる余裕を見せた。セリナは言われた内容が理解できず、混乱するだけだ。
「私が悪いことをしたなら謝るわ。だから、カインだけでも助けて」
「殊勝なことだけど、それはできない相談ね」
漆黒の刃を携えて近づいて来るアリーシャに、セリナは己の無力さを感じる。カインが簡単に床に倒されてしまうぐらいの実力者に、彼女では到底太刀打ちできないと理解できたからだ。
「あなたのせいで、ソフィア様は心を煩わされ、長も帰って来なくなった。私の母も……」
「何のこと? 私は知らない。この村から出たことすらないのに」
「憐れね」
アリーシャの視線は冷たい光を帯びていた。まるで害虫を見るかのような視線は、セリナに一層の不安を抱かせる。
「何も知らないままも可哀想ね。いいわ、教えてあげる」
アリーシャは目の前で小刻みに震えるセリナに刃を突きつけながら、これまでの経緯を語った。
「あなたは一族の長を誑かせ、我々の秩序を乱した。平穏に生きていた私たちの生活を狂わせたその罪、万死に値するのよ」
「……知らない。私はここで生まれて十五年、村から出たこともないの、信じて」
セリナは首を横に振って否定するが、アリーシャは全く聞き耳を持たない。
「これ以上は平行線のままね。私は与えられた任務を遂行し、母と再会するだけ。死になさい」
アリーシャは短剣を振り被る。その表情が苦悶に歪むが、一気に短剣を振り下ろした。覚悟を決めて目を閉じるセリナ。
「先生、助けて!」
思わずこの場にいないアルフォードに助けを求める。そのような行為が徒労に終わると分かっていても、彼なら何とかしてくれるのではないかと淡い期待を寄せてしまった。
「何なの?」
アリーシャの苛立つような声が聞こえて来る。いつまで経っても痛みがないのに違和感を覚え、セリナは恐る恐る目を開けた。
鈍く光る膜のようなものがセリナとアリーシャの間にあり、振り下ろされる漆黒の刃はその膜に阻まれてセリナの身体に届かない。必死の形相で何度も短剣を振るアリーシャの執念に、セリナは背筋が寒くなった。
「何者だ、姿を見せよ」
息を整える為にセリナたちから離れたアリーシャは、姿の見えない相手に呼び掛ける。すると鈍く光っていた膜がその輝きを増した。目も開けていられないほどの眩しさを放った膜は、次の瞬間には人の形を取る。
「先生!」
普段通り黒を基調とした長衣を着用したアルフォードが立っていた。
「間に合って良かったですよ」
アリーシャを牽制しながら、彼は微笑む。その手には杖が握られていた。
「しかし、この先はあまり見せたくありませんね」
アルフォードが杖を横へ一振りすると、セリナは自らの瞼が重くなるのを感じる。凄まじい眠気に抵抗しようとした彼女だったが、我慢できずに深い眠りへと落ちた。彼は眠りに落ちる彼女の様子を確認してから、その下で横になっているカインへ治癒魔法を掛ける。
「さて、悪い娘にはお仕置きが必要ですね」
微笑みを崩さず、アルフォードはアリーシャに杖の先端を向けた。それだけで彼女の表情に怯えの色が走る。
「こ、この勝負、預けた!」
アリーシャは逃げようと窓に駆け寄ったが、見えない壁に阻まれてしまった。
「な、何?」
「逃がしはしませんよ」
彼女の周囲を淡く光る半透明の壁が取り囲む。アリーシャは短剣を振って壁を壊そうとするが、全く手応えがない。
「無駄ですよ、アリーシャ」
アルフォードは一族にのみ通じる言葉でそう呼び掛けた。彼女は驚いて目を見開いている。
「あなたの目的を知りたくて自由にさせていましたが、まさかこのような暴挙に出るとは予想外でしたよ」
「貴様、何者だ?」
地下族の言葉でやりとりできる目の前のアルフォードに、彼女は恐れと驚きを隠せない。それに、名を知られていたのも意外だった。
「憶えていないのですか……。無理もありませんね、あなたと会ったのは数年前、それも数えるほどのこと」
「私は知らない、貴様など知らない」
何かを振り払うように強がるアリーシャ。アルフォードはそのような彼女の言葉に少し目を伏せた。
「思い出させてあげましょう」
「何を……?」
彼は杖を目の高さまで持ち上げると、彼女に向けて突き出して来る。杖の先端にある宝玉が眩しく光り、彼女の網膜を焼くかのような輝きを放った。
「うっ……、うわあああああ」
アリーシャの脳裡に幾つもの映像が脈絡なく溢れるように流れる。情報の奔流に意識が途切れそうになりながらも、彼女は耐え切った。そして怯えたような視線で彼を見る。
「アリーシャ、思い出しましたか?」
問い掛ける彼に当惑の色を隠せないアリーシャ。それでもどうにか唇を動かした。
「と……、父様?」
「ええ、そうです。ではルーディリートが誰かも、思い出しましたね?」
「ああ……、私は、忘れていたとは言え……、何ということを……」
アリーシャの目尻から滴が溢れ出る。ガックリと床に膝をついて、手にしていた短剣を放り投げた。アルフォードはその短剣を拾い上げる。
「この手で、母様を殺そうとするなんて」
アリーシャは自らの手を見詰めながら震えていた。




