兄は守ると言った
叙勲式の喧騒を離れ、セリナは自分の部屋に戻っていた。
戻る途中でバッタリ会ったメイド長のカレンを伴って、着用していた衣裳から普段着へと着替えも済ませている。
「お兄様に見せられなかったけど、また今度、先生の家で着たらいいよね」
日が傾き、空は茜色から、徐々に紺色へと移ろう。湖から吹き込む風が心地良い。セリナは寝台に腰掛けて、今朝の出来事を思い返した。
「お兄様は、いつから……」
いつからカインが男女の感情を持っていたのか、彼女は過去を振り返る。物心ついた頃から兄は彼女を守ってくれていた。幾つかの思い出に浸りながら意識を漂わせる。セリナはいつしか眠りに就いていた。
どれほど眠ったのか、ひんやりとした風が頬を撫でたのに気付いて、彼女はボンヤリと目を覚ます。開いている窓から、湖を渡る冷たい風が入って来ていた。掛け布団のお蔭で身体は冷えていないが、それでも室温は低い。
「もう、真っ暗ね」
星明かりを頼りに、燭台を探した。卓上にあった燭台を手探りで探し当てると、彼女は神官としては初歩的な発光の魔法を使って、燭台に備えられた魔法石を光らせる。冷たい風を遮ろうと、まずは窓を閉めた。
どれほど眠っていたのか分からないが、兄に声を掛けなかったのが悔やまれる。怒っていないだろうか心配する彼女の心とは別に、お腹が鳴った。叙勲式の後で軽く食べただけだったのを思い出し、彼女は何か食べようと腰を上げる。
屋敷の中は静寂に包まれていた。燭台の明かりを頼りにセリナは廊下を進み、階段に向かう。
「お兄様、怒ってるかな……」
心配のあまり独り言を呟いた。向かう先は炊事場だ。何か余り物があれば、それを食べようと彼女は考えていた。
セリナの行く手に光の漏れる扉がある。近づくとそれは目的地の炊事場と判明した。誰か先客がいるようだ。彼女はそっと扉を開けて中を覗き込む。
「……ったく、ろくなもん残ってねーな」
炊事場で一人の男性が悪態をつきながら室内を物色している最中だった。セリナはその人物が何者なのか見定めようと、扉の蔭から窺う。
「誰だ!」
鋭い声が飛んだ。セリナは驚いてその場に立ち竦んでしまう。声も出せず震えているセリナは灯りに照らされた。
「リナか。悪い、怖い思いをさせたな」
一転して優しい口調で近づいて来たのはカインだった。兄の姿を目にして、セリナの緊張は解ける。
「お兄様、何をしていたの?」
「ああ、お前が何も食べていないと思ってな」
カインの手元には料理が盛り付けされた皿と、パンを載せた皿があった。
「アリーシャに様子を見に行かせたんだが、返事がなかったと言っていたからな。それで疲れて眠ってしまったんだと思ってよ」
彼はそう言いながら、果物とナイフをパン皿に載せている。
「これから部屋まで持って行くつもりだったんだ」
「私も、お腹が空いていたところだったの」
兄の心遣いにセリナは嬉しさが込み上げた。
「俺の部屋でいいか?」
「もう夜更けだし、私の部屋にしましょう」
夜道をカインの部屋に向かうよりも、屋敷の中を移動する方が安全だ。それに短時間で移動すれば誰にも見られずに済む。兄妹は連れ立って炊事場を後にした。
燭台の灯りを頼りに廊下を進む。誰かに見つかったとしても、兄が食事を届けたことにすれば、どうにか取り繕うことができる状況だ。セリナは少しビクビクしながら足を進めた。廊下の隅に据えられた大きな花瓶の蔭から、今にも誰か出て来るのではないかと不安に駆られる。
彼女の心配は取り越し苦労になり、二人はセリナの部屋に入った。カインは久々に妹の部屋へ訪れたことと、朝に想いを伝えていたこともあって当惑していたが、卓上に料理を置き、椅子に腰掛けたことで幾分か落ち着きを取り戻す。
「お兄様の騎士叙勲を祝して」
セリナが微笑みながら飲み物を注いだグラスを差し出す。カインはそれを受け取り軽くグラス同士を触れ合わせた。
「これで、リナを守ってやれる」
グイッとグラスを呷り、カインは胸のつかえを吐き出すように想いを口にする。セリナは空腹を満たそうと、兄の持って来た料理を頬張っていた。
「そう言えばリナ、あのドレス、似合ってたぜ」
沈黙を破ってカインは褒め言葉を口にする。セリナは間近で見せられなかったのを悔いていたので、嬉しい言葉だった。それで彼女は決心する。
「ねえ、お兄様」
「何だ?」
「私はお兄様を好きよ」
「そ、それは朝の答えなのか?」
「うん、それも含めて、私の気持ちを伝えるね」
真っ直ぐに見詰めて来るセリナに、カインは少したじろぐ。
「私はお兄様が好き。だから……」
セリナは少し言葉を切った。
「だから、誰か困っている人がいたら助けて上げて欲しいの」
「どういうことだ?」
「お兄様は騎士になった。それだけでも自慢できるけど、私だけを守るのではなくて、多くの人を救うような騎士になって欲しいの」
「リナ、そんなの、いつになるか分からないぞ?」
「うん、分かってる。私、待ってるから。お兄様を待ってるから」
彼女はそう言うと、兄の頬に手を当てた。
「だから、約束の証に……」
潤んだ瞳で彼を見詰める。カインは何が起きるのか理解できず、妹のさせるままに任せていた。ゆっくりと妹の瞳が近づいて、唇に柔らかな感触が伝わる。
「ね、お兄様。約束よ」
「リナ、本当に、これは夢じゃないのか?」
彼の問い掛けにセリナは無言で抱き着いた。その彼女を兄の逞しい腕が包む。宙に浮く感覚をセリナは感じた。
「お兄様……」
「リナ、もう兄と呼ばず、カインと呼んでくれ」
寝台の中で、二人は兄妹の垣根を越えていた。
「分かったわ、カイン。愛してる」
「俺もだ、リナ」
二人は指と指を絡ませて互いの存在を強く繋ぎ止めようと固く握り合う。
「もう離さないで、私、後悔なんてしないから」
「ああ、離さない。お前は俺が必ず守る」
セリナは兄の言葉に視界がぼやけて見えた。
「ところでリナ、聞いて欲しいことがあるんだ」
カインは小声で話し始める。
「実は、北方の国境地帯を、蛮族が脅かしているらしい」
「うん」
「シオンの家がその国境地帯を守っているんだが、戦力不足らしくてよ」
「うん」
セリナは小さく頷きながら相槌を打った。
「あいつは、俺の親友だ。だからお前さえ良ければ、助けに行ってやりたい」
「うん、いいよ。お兄……、カインは必ず戻って来るよね?」
「当たり前だろ。誰がお前を放って行くものか。必ず帰って来る」
力強く断言した彼の言葉に、セリナは不思議な安心感を覚える。その後は他愛もない言葉を交わして、二人はそのまま眠りに落ちて行った。
カタン、と物音がする。セリナはその音で目を覚ました。寝台から壁に目をやると、窓が開いている。夜の冷たい風が部屋の中に吹き込み、カーテンを揺らしていた。隣で眠るカインを起こさないように注意しながら、セリナは身体を起こす。椅子に掛けていた寝間着を肩に引っ掛けながら窓辺に向かった。
「窓を閉めなくては」
彼女が呟きつつ窓辺へ近づくと、不意に何かが視界の上から降って来る。
「死ね、ルーディリート、月の娘!」
鋭い声と共に、黒い何かが彼女身体を掠めた。もう一歩踏み込んでいたら、セリナの命はなかっただろう。寝間着が大きく切り裂かれていた。慌てて彼女は後ろに飛び退く。
「何?」
彼女の疑問に答えはなかった。続け様に再び黒い影が襲い掛かって来たからだ。しかしその影は彼女の身体を捉えず、寝間着を切り刻むばかりだ。まるで、猫が鼠をいたぶるかのように、少しずつ少しずつ恐怖を刻みつけるかのように。
「何なの、私は月の娘じゃない。そんな名前は知らない。人違いよ」
突然の襲撃から必死で逃げつつ、精一杯の抵抗を試みる。しかしそのような彼女の声も虚しく夜の闇へ消えた。
「あなたは誰なの? どうして私を襲うの?」
矢継ぎ早に質問を飛ばすが、影は答えない。
「俺のリナに、手を出すな!」
雷鳴のような声が響いて、セリナと襲撃者の間に割って入る者がいた。
「リナ、灯りを」
カインが彼女を守ろうと飛び起きて来ている。セリナは卓上の燭台を掴むと発光の魔法を掛けた。やにわに室内が明るくなり、影のように見えていた人物の姿が明らかになる。
「お前は!」
襲撃者の顔を見て兄妹は絶句してしまった。




