セリナの葛藤
「セリナ、もうそろそろ任命式が始まってしまいますよ」
「はい……」
柔らかな表情でそう告げたのは赤紫の髪を揺らす女性だった。しかしセリナの表情は晴れない。
「あらあら、どうしてしまったのかしら?」
心ここにあらずのセリナの様子をシェラザードは心配した。夫のアルフォードは任命式の準備に出掛けてしまい、彼女たちは二人きり残されてしまった形だ。シェラザードが声を掛けようとしたのを遮るように、玄関の扉を叩く音が室内に響いた。
「あら、どなたかしら?」
物憂げなセリナを置いて、シェラザードは玄関に向かう。彼女は一人の女性を連れて戻って来た。
「お嬢様、旦那様が心配しておられます。お屋敷にお戻り下さい」
メイド長のカレンだ。彼女は有無を言わせない勢いでセリナを立たせようとしたが、それをシェラザードが押し止めた。
「お待ちなさい、セリナはわたくしが身支度を整えて送り出す所存です」
「されど、旦那様が心配して……」
「ええ、セリナがこちらにいらっしゃるのは伝えたとおりです。オースティンからはどのように指示されて来たのですか?」
カレンは息を飲む。微笑むシェラザードからは正体不明の圧力が出ているように感じられた。
「旦那様からは、お嬢様を迎えに上がるように、と」
「ええ、そうでしょうね。セリナの身支度を整えて送り出すまでがわたくしの役目です。ですが、セリナが着用するはずの服や飾りが届いておりません。あなたが携えて来たのではありませんの?」
「それは……!」
カレンは絶句する。オースティンからの指示は確かにセリナを迎えに行き、任命式の会場へ連れて来るようにとのことだった。それはシェラザードの言い分を否定する内容ではなく、むしろこの場で身支度をして行くのが前提であるかのようだった。
「申し訳ございません。すぐに準備して参ります」
一礼して慌てて彼女は飛び出して行く。その後ろ姿をポカンとした表情で見送ったセリナは、隣で笑うシェラザードに視線を移した。
「シェラ様、もしかして……?」
「あら、何かしら? わたくしがあなたの身支度をしたいのは本当でしてよ」
悪戯っぽく笑うシェラザードの表情は少女のようだ。
「さて、それでは支度をしましょうね」
シェラザードは一旦奥へ引っ込むと、その手に鞄を提げて戻って来た。鞄の中から薔薇の花が描かれた手鏡を取り出してそれを卓上に置く。台座を据えて手鏡を立て掛けると、鏡の中には憂いを秘めたセリナが映った。
「髪を梳きましょうね」
セリナの背後に回り込んだシェラザードは慣れた手付きでその美しい銀髪に櫛を入れる。ゆっくりと髪を梳かれていると、セリナは心の中にある澱が少しずつ溶け出していくような心持ちになった。
「不安なのかしら?」
髪を梳きながらシェラザードが問い掛ける。
「カインがどこか遠くに行ってしまう感覚?」
「はい」
問われてセリナは肯定の返事をした。
「騎士になっても、あの子はこの村から出ることはないでしょう。村を出たいのなら、戻って来ることもなかったでしょうから」
「それでも……」
シェラザードの優しい声にも、セリナの不安は解消されない。そもそも不安の理由がカインが残るか出て行ってしまうかではないのだから。
「シェラ様は、先生とはどうして結婚したのですか?」
「話したこと、なかったかしら?」
セリナの問い掛けにも彼女が微笑みを崩すことはない。
「わたくしが困っていた時、あの人だけがわたくしを助けてくれましたの」
弾んだ声を裏付けるように、鏡に映るシェラザードは嬉しそうに微笑んでいた。
「その時にわたくしは決めましたの、何があってもこの方について行くと」
「先生の気持ちは、どうだったのですか?」
セリナは訊ね返す。
「あの人は、初対面ではわたくしを何とも思ってなかったでしょうね」
「え?」
「それでもわたくしは怯みませんでしたわ。大切なのは、自分自身の気持ちですから」
髪を梳く手に力が入る。
「ですから、セリナもご自分の気持ちに素直になりなさい。失敗を恐れてやらずに後悔するよりも、失敗した方が反省もできますから」
ニッコリと笑うシェラザードに、セリナはこれまで習った事柄を思い出していた。いつでもアルフォードとシェラザード夫妻は彼女の挑戦を温かく見守っていてくれた。成功した時には共に喜んでくれたし、失敗した時はその原因を一緒に考えてもくれた。
セリナの脳裡には夫婦の顔と共に、カインの顔も去来する。怒った顔、泣いた顔、笑った顔、どの表情の兄も大好きだった。彼女は改めて自身の気持ちに気付く。そう、何も迷うことはなかったのだ。
「ありがとうございます、シェラ様」
「決心は付きまして?」
「はい」
「それでは、念入りに着飾りましょうね」
シェラザードは嬉しそうな表情でセリナの髪を束ね始める。その彼女にセリナはポツリと呟いた。
「あのね、シェラ様、私はお兄様の妹ではないの?」
「突然、どうなさいましたの?」
シェラザードの手が止まる。
「お兄様が、私はお兄様の妹じゃないって」
「あの子ったら、何てことを」
「でも、私は前から薄々知っていたんです。お兄様も私も、お祖父様の本当の孫ではないって」
シェラザードが怒り出しそうな気配を察知して、セリナは慌てて言葉を繋いだ。手を止めたままで彼女は、言葉を選んでいるようだ。
「あなたはその話を聞いて落ち込んでいたのかしら?」
「いえ。ただ、お兄様とどう接したらよいのか、それが気掛かりで……」
本当の理由を話せないセリナは、それでも当面の悩みの種を打ち明けた。
「カインのこと、嫌いになりましたの?」
シェラザードの問い掛けにセリナは首を横に振る。
「では、先程も伝えました通り、ご自分の気持ちに素直になりなさい」
「お祖父様は、許してくれるでしょうか?」
「オースティンが何か言うようでしたら、わたくしが許しませんわ」
心配顔のセリナに、シェラザードの微笑みは心強く映った。
「それに、わたくしはあの子にふさわしいのはあなただと思っているのですよ」
「それは、どういう……?」
「どういう意味かは、ご自身の胸に手を当てて考えてごらんなさい」
意味ありげに微笑むシェラザードにセリナは何事かを言おうとしたが、それを遮るように再び玄関の扉を叩く音が室内に響く。
「もう戻って参りましたのね」
シェラザードが玄関へ向かった少しの間、セリナは鏡に向けて自問自答した。
「私は、お兄様を好き。きっと、一人の男性として。そうよね?」
見詰め返して来る鏡の中の瑠璃色の瞳は、真っ直ぐに自分自身を射抜くかのようだった。決意を固めて彼女は鏡の中の自分自身に対して頷いて見せる。
「お嬢様、大変お待たせ致しました」
メイド長のカレンは両手に大きな鞄を携えていた。その中身が服や装飾品とするなら、どれほどの量を運んで来たのか想像すらつかない。なのに、更に二人のメイドが同じように鞄を提げて入って来るのを見て、セリナは呆気に取られた。
「まあまあまあ、これは仕上がりが楽しみですわね」
シェラザードはにこやかに笑っているが、これから始まることを想像してセリナは気が遠くなりそうだった。