カインの告白
任命式の朝、セリナは早起きをして着替えていた。寝起きの悪い兄を心配しての行動だ。そろりそろりと誰にも見つからないように廊下を進み、階段を降りる。任命式の準備で忙しい使用人たちは誰も彼女を見咎めない。朝食の用意に忙殺されている炊事場を抜けて裏口から庭へ出た。
「セリナお嬢様、どちらに?」
不意に横から声を掛けられて、セリナは飛び上がらんばかりに驚く。恐る恐る声の主を見ると、そこには黒髪の少女がいた。
「アリーシャ、驚かさないでよ」
「申し訳ありません」
律儀に頭を下げるメイドに、セリナはホッと胸を撫で下ろす。見つかったのが彼女ならば、言い訳をしても信じて貰えるとの打算が働いた。
「今日の任命式で粗相があるといけないから、私が見回りしているのよ。後でお祖父様が最終確認に来るから、しっかりとお掃除しておいてね」
「畏まりました」
「じゃあ、私は次の場所に見回りに行くけど、抜き打ちだから誰にも言わないようにね」
セリナの言葉にアリーシャは無言で頷く。急ぎ足でその場を離れるセリナは、建物の角を曲がったところでヘナヘナと座り込んだ。
「あ、危なかった」
屋敷の使用人たちは彼女と兄が二人きりで会うことに良い思いをしていない。祖父のオースティンは特に何も言わないし、むしろ二人が仲良くしているのを喜んでいるのだが。
「カレンに見つかるとウルサイから」
メイド長の彼女は特に厳しくセリナの行動を監視している様子が窺えた。だからこそ、こうして誰にも見つからないように行動する必要があるのだ。彼女は立ち上がると、スカートの裾に付着した土埃を軽く払った。
「お兄様を起こしに行かないとね」
今日の主役のカインを祝福するように空は青く澄み渡り、穏やかな風が湖から吹いて来る。まるで世界中が祝福しているとセリナは感じて嬉しくなり、足取りも軽やかに兄の部屋の前まで来ていた。
「お兄様、起きてる?」
部屋の扉を開けたセリナは驚きの余り立ちすくむ。この世で比べる者がいないと信じていたほど寝起きの悪い兄が、既に身支度を調えていたからだ。真っ白な生地に金の刺繍が施された騎士服に身を包んだカインは無造作に括られた赤い髪を揺らして、入り口で立ちすくむ妹へ視線を移した。
「よお、どうしたんだリナ、随分と早いじゃないか」
穏やかな表情を浮かべて立つ兄に、セリナは言葉を失う。まるで夢を見ているかのような光景に慌てて彼女は首を横に振った。
「お兄様、本当にお兄様なの?」
「どういう意味だよ、リナ」
カインの表情は穏やかなままだ。セリナは掛けるべき言葉を見つけられない。
「ちょっと待ってろ」
カインは壁に掛けてあった剣を手にした。それは、アルフォードから贈られた剣だ。その剣を腰に佩く。
「よし。どうだ、リナ?」
満面の笑みで問いかけて来る兄が眩し過ぎて、セリナの瞳は大きく開かれたまま微動だにできなかった。
「どこか、おかしいか?」
兄の再度の問い掛けにセリナは大きく首を横に振る。
「違うの、お兄様。素敵過ぎて、その……」
見る見るうちに頬を紅く染め上げてセリナは俯いた。胸の前で指先を合わせるが、兄とは視線を合わせられない。
「きっと、先生もシェラ様も、お祖父様も喜ぶに違いないわ」
「リナは、どうなんだよ?」
視線を逸らしままの妹に、カインはやや不満顔だった。俯いたままの妹に近寄ると、その細い手首をカインは握る。
「お、お兄様!?」
「まだ任命式までは時があるな」
彼は妹の腕を掴んだまま表に連れ出した。突然のことに対応できないセリナは、そのまま兄に引っ張られるようにして連れて行かれる。セリナは頬を撫でる涼やかな風で我に返った。視界の隅に屋敷の青い屋根が見えることから、湖の対岸に来たのだと気付く。アルフォードやオースティンからは近づかないように言われていた対岸に。
「ん~、いい天気だ」
澄み渡る空、その空に負けないぐらいに透き通るような湖面に、兄妹の姿が映る。カインは掴んでいた妹の腕を放して、両腕を頭上に伸ばしていた。その兄をセリナは呆然と見詰めている。再び彼女の頬を柔らかな風が撫でた。彼女の銀色の髪を撫でるそれは風ではなく、兄の手だった。
「どうした、ボーッとして?」
兄の優しい問い掛けにも、セリナは戸惑って返事ができない。黙って彼女の髪を撫でる兄に、彼女はようやく言葉を絞り出した。
「ゴメンなさい、驚いてしまったの。気を悪くしないで」
「いいさ、気にするな。それより、大事な話があるんだ」
カインはそう告げて、いつになく真剣な眼差しで妹を見詰める。セリナは話の内容が予測できず、黙ったまま兄の言葉を待った。
「大事な話なんだ。誰にも聞かれたくない。だからここまで来たんだ」
カインもまた、言葉を選ぶように言い淀む。セリナは自身の首筋に触れていた兄の手に、そっと手を添えた。潤んだ瞳で見上げると、兄は意を決したようにその手に力を込めるのが彼女にも伝わって来る。
「実は、俺もじっちゃんも、お前に話していないことがある。頼むから最後まで聞いて欲しい」
セリナはコクリと頷いた。
「リナ、お前は、俺の妹じゃない」
セリナはついにこの日が来たと思った。周囲の大人たちの噂話、カインとセリナがオースティンの養い子という話を彼女は知っていた。だから兄の告白にも全く動揺せずにいられる。
「お前は、ここで師匠に拾われたんだ」
カインの言葉に、セリナは目を伏せる。そこは嘘でも兄に拾われたと言って欲しかった。
「けど、お前をじっちゃんが引き取って育てると決まった時は嬉しかった。師匠がどうしてじっちゃんに預けるつもりだったかなんて、俺は知らないし知ろうとも思わない。ただ、お前と一緒にいられるのが嬉しかった」
カインはそこで言葉を切ると、不意に彼女を抱き寄せた。
「俺は、この先も、お前と一緒にいたい」
彼女の後頭部を撫でながら、カインは耳元で力強く断言する。真っ白な騎士服の胸に抱き寄せられたセリナは、このまま時が止まれば良いのにと願っていた。
「どこにも行くな、俺もここにいる。お前を他の誰かに取られるなんて我慢できない。だから、側にいてくれ」
カインの言葉は続いていた。
「騎士になれば、お前を守ることができる。だから、結婚してくれ」
セリナは突然の言葉に頭の中が真っ白になっていた。何も考えられない。彼女は自身が拾われたということは朧気に理解していたから、その部分では全く動揺していなかった。だが、兄の気持ちには、彼女自身を一人の女性として見ていることには気付いていなかった。否、気付かないふりをしていた。
「嫌か?」
兄の問い掛けに、彼女は答えられなかった。考えがまとまらない。ゆっくりと兄は抱き寄せていた腕の力を緩めて、彼女を放そうとした。
「お兄様、嫌じゃないわ。でも、突然のことだから、あまりにも急なことだから……」
「そうか、そうだよな。悪い、驚かせてしまったな」
はにかみながらカインは後頭部を掻いた。セリナはそんな兄に、正直な気持ちを伝えようと口を動かす。
「うん、驚いた。でも、嫌いじゃないし、むしろ大好きよ。でもその好きは、お兄様としてなのか、一人の男性としてなのか自分の気持ちが分からないの」
「分かった。返事は今すぐじゃなくていいんだ。妹としていたいなら、それでもいいんだ。お前が幸せなら、俺はそれでいいんだ」
兄の言い様にチクリとセリナの胸の奥が痛んだ。
「戻ろう。任命式が始まってしまう」
再び彼女の手首を掴もうとした兄の手を、彼女は逆に握り返した。
「先生の家まででいいから」
「分かった」
カインは手を繋いだまま黙って歩き始める。セリナは胸の裡に渦巻く想いを整理できずにいた。カインが誰よりも大切な人なのは間違いない。けれど、それは家族としてなのか、異性としてなのか、どうにも整理できなかった。