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風月佳人・前編  作者: 斎木伯彦
叙勲式に向けて
10/40

オースティンの憂鬱

「オースティン、答えなさい!」

 パシィッと右手にある扇子が音を立てて左手に叩きつけられた。扇子を握り締めて小刻みに震えているのは、彼女が本気で怒り出す予兆である。その怒りの矛先を向けられても、オースティンは懐かしさに浸れる余裕が、今はあった。

「殿下の仰せ、もっともではございますが、恐れながら陛下より直々の推薦状が届いておりまして……」

 彼の口上を遮るかのように、再び扇子が叩きつけられる音がする。ぎょっとして、オースティンは言葉を詰まらせた。

「兄上の……。そう、そうですか」

 穏やかに見えた彼女の美しい眉間に、険しいシワが形作られる。

「貴方はいつも、陛下、陛下と兄上の言いなりでしたわね。あの時も、わたくしの切実な願いを無視して、我が子を取り上げたように、今また、わたくしの夫から名誉ある後見人の資格さえも、奪うのですね?」

 彼女の眉間からシワが消え、目元が潤む。振り返った彼女はそのまま夫のアルフォードの胸に飛び込んだ。彼は妻の肩を抱き寄せ、慈しむように頭を撫でる。

「シェラ、泣くほどの事柄ではありませんよ。オースティンも板挟みの辛い立場なのです。分かってあげましょう」

「でも、それでは、貴方とカインが……!」

 既に涙声である。アルフォードは懐からハンカチを取り出した。

「さあ、これで涙を拭いて。そのようにしては、彼も困ってしまうだろう?」

「でも、でも……」

 駄々をこねる子供のような彼女を見るに見兼ねて、オースティンは苦渋の決断を下した。

「畏まりました、殿下。アルフォード殿には、カインの後見人並びに任命者として、出席頂きます」

「本当ですの?」

 シェラザードは、アルフォードの胸に顔を埋めたまま尋ねる。

「はい、騎士の名誉に賭けまして、嘘偽りございません。陛下には、殿下より仰せつかりました旨を上奏致し、特別なお取り計らいを賜りますよう申し立てます。ですから、どうかご勘気を解かれますよう、願い申し上げます」

 オースティンは平身低頭して、謝罪する。その様子をシェラザードはチラリと盗み見た。

「約束ですわよ?」

「はい、殿下のお心に適いますよう、粉骨砕身、努力致します」

 彼がそう告げると、シェラザードは嬉しそうに微笑みながら振り返った。その頬はおろか、目尻にさえ涙の跡はない。

「オースティン、今度こそ、覆してはなりませんことよ」

 彼は呆気にとられる。ややあって、謀られた事実に気付いたが、既に後の祭りだ。

「うふふ、下々と交われば、それなりの狡さも憶えてしまいますの。それでは、ごめんあそばしませ」

「失礼する」

 仲睦まじく帰り行く夫婦を為す術なく見送ったオースティンは、激しく後悔していた。しかし、時既に遅し。言質(げんち)を得た彼女に反論を展開するのは、火に油を注ぐような行為に等しい。ならば、取るべき手段は一つ。約束通りに皇王に上奏するのみだ。

「……やるしか、ない」

 悲壮な覚悟を含めて、オースティンは呟いていた。

 それから数日後、オースティンはアルフォードの家を訪れていた。

「アルフォード殿、難しい事態になりました」

 彼の表情は険しい。しかしアルフォードは落ち着き払っていた。

「オースティン殿、いささか顔色が冴えないようだが、如何した?」

「それが、皇都より使者が来たのですが、任命者には他の者を、との返答でした」

 彼が顛末を報告していると、シェラザードが部屋に入って来る。彼女はトレイにお茶を載せており、二人の前にそのお茶を差し出した。夫の隣へ座り直してから、彼女は口を開いた。

「兄は、誰を推薦しておりますの?」

「申し上げます、殿下。推薦されておりますのは、前の士官学校校長でモーリス伯爵家の遠縁に当たる、ジェラルド・ドルマー氏です」

「ドルマーは、今の校長ではなかったか?」

 アルフォードが尋ね返す。

「それが、今年は人事異動で既に校長は別の者が任命されております」

「それは、知りませんでしたね」

 アルフォードは顎を撫でた。すかさず、シェラザードが質問する。

「それではその者が、わざわざ皇都からこのような田舎まで来ると言うのですか?」

「はい、そうなります、殿下」

 背筋を伸ばしたままで、彼は受け答えしていた。

「恐らく、ドルマーめは暫く役職がなく暇を持て余すことから、地方巡回をさせるものと考えられます」

「何ですって?」

 シェラザードの顔色が変わった。地方巡回とは、閑職の慰みに回される仕事で、言わば暇潰し以外の何者でもない。中央での役職がなく、地方官としての赴任先もない。それでも一定の俸禄を召す為に、遣わされるのだ。

「もしも、間に合わない場合は、如何なさりますの?」

「恐れながら、それは大丈夫かと……」

 反論しようとした彼を、シェラザードがテーブルを叩いて遮った。

「地方巡回など、軽い気持ちの輩に、そのような殊勝な心懸けを期待しろと言いますの?」

 彼女の語気は荒い。

「万が一、遅れるようなことがあれば、分かっていますね、オースティン!」

「はい、心得ております。その際には、アルフォード殿に全てをお任せ致す所存です」

 オースティンが告げると、彼女の表情は劇的に変化した。

「これで、八方丸く治まりますわね」

「ドルマーが遅れて来れば、ですけどね」

 アルフォードは笑っている。

「それで、カインはいつ帰って来るのだ?」

「数日後には帰って来ると思います」

「そう、それでは早い内に用意しなければなりませんわね」

 夫婦は互いに顔を見合せて微笑み合う。オースティンは頃合いと見て退出して行った。これから起こる事態に憂鬱になりながら。

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