#03【出題編】
謎とき小説、ブッキャット先生。初出:twitter(2018年8月)
問題作成:Lop(転載許可済み)
ブッキャット先生は、庭を眺めていた。縁側に腰を下ろし、静かに、ただ静かに庭を眺めていた。
背後には、本の気配。何冊も、何十冊も、何百冊も。本たちは、もうずっとそこに積み上がっている。動かないまま。
この家で動くものといえば、ブッキャット先生と、彼が飼っている想念上の猫だけだ。
「ああ、君ですか」
わたしを見て、ブッキャット先生はそれでもすぐには動かなかった。ややあってから、突っ込んでいた下駄から足を抜き、縁側の上に立つ。そして、奥へと姿を消した。おおかた、お茶でも出してくれるつもりなのだろう。
先生の家は、今日はひときわ気配が強かった。なんの気配かといえば、本の気配である。べつに読んでくれというわけではないが、そこに在るのだという主張が凄い。
なにやら気圧されてしまって、家に上がる気になれない。そのまま縁側に腰を下ろしていると、先生がお盆に硝子の湯のみを並べてあらわれた。氷が、からんと鳴る。
「今日も、暑いですね」
「暑いですねぇ」
そう答える先生は、汗をかいている風もない。ゆっくりと腰をかがめると盆を置き、そのまま縁側に座った。
庭のどこかに蝉がいるらしく、うるさく羽音を響かせている。空の青は漂白剤をかけたように薄くて、どこかよそよそしく感じられた。日没もそう遠くない頃合いの、あの曖昧な色だ。庭木の影が長く伸び、家を包み込んでいくように見えた。
「日が暮れても、まだまだ暑そうですね」
「それでも、日没の前と後ではずいぶん違いますよ。ここは、西日がまともにあたりますから」
そういって、先生はまた空を見上げた。つられて、わたしも空を見上げる。
「夕焼けもまだですし、当分は明るくて暑いのでしょうね」
「待っていれば、暗くなりますよ。最近は、深夜に火星を見るのが楽しくてね」
「火星ですか」
「大接近中だそうですからねぇ。せっかくだから、よく見ておこうと思いまして。望遠鏡でもあれば、もっといろいろな星を見られるのでしょうけどね。見てみたいといえば、ティタニアやオベロン、アリエル、ウンブリエルに、ミランダ。コーディリアやオフィーリア……しかしまぁ、そのへんまで見たければ天文台へでも行けという話になるのでしょうが」
先生は、シェイクスピアの作品の登場人物の名を次々と挙げた。楽しげに微笑みながら、こちらを向く。
「天文台? 今おっしゃったのは、遠い星なのですか?」
「遠いといえば遠いですが、太陽系の中ですから、天体としては近い方でしょうか。天王星の衛星です。ほら、発光しているわけじゃないし、太陽から遠い、しかもかなり小さい……ですから、遠くかがやく星々のように、見えたりはしないのです」
「なるほど」
「まぁ、見えない星のことはともかく、今は火星がよく見えますから、火星を見ているのです。戦神の象徴として、数多の文学作品で語られた惑星ですからね。思いを馳せながら眺めるのも、趣が深いものです」
おお、バルスームよ、と先生はつぶやいたが、わたしには意味がわからなかった。それはなんですかと尋ねるのも無粋かと思い、わたしは疑念を呑み込んだ。
「火星の接近は知っていましたが、それと文学をからめることは思いついていませんでした」
「最接近は、もう先月のことになってしまいましたが」
「そうでしたか。ずいぶん、ご無沙汰してしまって」
「猫が、寂しそうでしたよ」
そう答えるブッキャット先生は、真顔だ。もっとも、先生はだいたいの場合、真顔なのである。
「猫ですか」
「猫ですよ、たぶん」
「想念上の猫ですよね」
「以前からご存じの、あの猫ですよ。君が来たから、はりきっているかもしれないですね」
「駄目ですよ、先生」
「駄目ですか?」
「駄目です、駄目です。だって猫が本の山の中ではりきったら、どうなると思いますか」
「ああ……」
先生は、世界が終わるような顔をした。真顔が崩れた瞬間である。
「まぁ、想念上の猫ですから、大惨事には至らないと思いますが」
思わず、慰めてしまうほどだ。脅していたのも自分なのだから、大した一人二役である。
「そうですね。そのために、猫を飼うにも想念でと決めたのですし」
「そうです。きっと、大丈夫です」
「ですが……思ったようには、いっていない気もするのですよねぇ」
「そうなんですか?」
「だって、猫がまさか紙切れを寄越すとは思わなかったですよ、わたしは」
確かに、それは誰も予測しなかった展開だろうとは思う。
「そんな話をしていると、また猫が紙切れを寄越すのではないですか」
口にした端から、なにか降って来る気がして、わたしはあたりを見回した。
なにも、ない。
先生も同じように思ったらしい。
「なにも降って来ないですね」
「そうですね」
「君があんまり来ないから、消えてしまったのかな」
「あれは、先生の猫でしょう?」
「わたしの猫ですが、君を気に入っていたようでしたよ」
そういえば、前にもそんな話をされた気はする。
「今日はどこかに隠れているんですかね」
「餌がたりなくて、遠くへ探しに行ってしまったのかもしれないですね」
それでは家出である。しかも、たぶん戻って来ないあれだと思い、わたしは焦って言葉を探した。
「そんなことはないでしょう。呼べば出てくるのでは?」
「出て来たことなんか、ありませんよ。なんとなく気配がしたり……あるいは紙が降って来るだけで」
先生とわたしは、黙って猫の気配を探った。だが、そこにあるのは相も変わらず、本、本、そして本の凄まじい圧力だけだった。
漠然とした予感のようなものが、わたしを押し包んだ。
猫が消えてしまったという、感覚。
しかし、消えるというのは正しい表現なのか? あの猫は、そもそも存在すらしていない。姿をあらわしたこともない。
「どこかに、置き手紙でもあるのではないですか」
そんな風に口走ってしまったのは、それでも、猫はたしかに居たはずだと思ったからだ。
置き手紙……と口の中で復唱して、先生は立ち上がった。暫くあたりを見回していたと思ったら、ああ、と声をあげて本当に一葉の紙片を手にしたから、おどろく。
「ありましたよ。おやおや、なにをそんなに口をぽっかり空けているのです。君がいったんじゃないですか、置き手紙があるかも、と」
「いや、信じていたわけではないので」
「信じてやってくださいよ。実際、君が来て、置き手紙があるのではないかと思ったから、これが出現した可能性だってあるわけですしね」
しかしねぇ、と先生は紙を眺めながら言葉をつづけた。
「君が図形がいいといったせいか、ますます図形らしくなりましたよ」
謎の答えは英単語になります。
正解は、連載の続きで公開します。