酒毒
「お前は酒毒という言葉を知っているか?」
「はて、聞いたことはないのぅ」
アーディから話を聞き、気落ちしていた彼を眠らせてから店を出たディル。
少し時間を空けてから宿へ戻り、イナリから話を聞いてみることにした。
アーディの話はせずに、知り合いにこんな悪い酒飲みがいるという話をぼかして伝えてみたところ、先のような反応が返ってきたのだ。
酒を飲めばオーガも笑う、酒は万病を癒やす千年草と言った酒の入った慣用句は幾つか存在している。
だがディルが記憶している限り、酒毒などという言葉を耳にしたことはなかったはずだ。
「酒というのは、毒の一種だ。時間をかけねば効かぬほど微弱なものだがな」
「確かにお酒を飲み過ぎて死んだという話も、聞いた記憶はあるような気が……」
「痛みを消し精神を昂ぶらせる薬は、人間の精神を摩耗させる毒でもある。本来身体から毒素を取り除くアミール草も、過剰に摂取しすぎれば体内にある善良な物ですら排出する劇物になってしまう」
何事もやり過ぎは良くない。
薬であっても摂り過ぎれば毒になる。
薬膳酒等、医療に使われることもある酒もまた、過剰な摂取は人体に悪影響を及ぼす。
イナリが言っているのは、つまりはそういうことであった。
アーディが変わってしまったのは、彼が画家として大成ができなかったこと、そして彼の妻が死んでしまったことが原因だとばかり思っていた。
そのせいで酒に逃げ、溺れるようになってしまったのだと。
だがもしかすると、酒そのものにも原因があったのかもしれない。
アーディがああなってしまった一番の原因は間違いなく彼自身にあるだろうが、酒の関与がないとは言い切れないような気がする。
ディルが話をした限り、アーディは世間一般で言うところの碌でなしである。
しかし酒を止めることさえできれば、少なくとも今よりはシアと良好な関係を築くことができるかもしれない。
「毒が身体に回っているから、まともな人間でなくなってしまう。そういうことが本当にあるものなのかの?」
「そうだな……そういう人間もいるだろう。例を挙げるのなら、酒を飲むと途端に攻撃的になるタイプの奴だ。そういう人間が酒にやられ、中毒患者になれば現実と酒に酔って自分で生み出した虚構の区別がつかなくなることがある。そして酒を飲んでいない時ですら、攻撃的な言動を取るようになるわけだ」
「そういった人間は、酒さえ止めれば元に戻るのかの?」
「人によるな。依存の度合い、薬効の効き具合、身体から毒素がどれだけ抜けるか……やってみないとわからない部分も多い。そもそも酒は禁草や呪草のように、国から禁じられているわけでもない。中毒克服のための医療施設なんぞないだろうな」
「イナリになら、できると思ってよいのか?」
「少なくとも、この国の中では私の右に出る奴はいないだろうな」
それだけ言うと、イナリは大きく肩を下げて立ち上がった。
彼女の控えめな胸が揺れて、憂いに満ちた横顔が髪に隠れて扉の方へと傾いて行く。
その背中は、何よりも雄弁にディルに向けて語りかけていた。
さっさと行くぞ、と。
どうやら彼女には、ディルがこれからしようとしていることがお見通しなようだった。
彼としてはイナリに話をしてもらい、あとは自分でやるつもりだったのだが……彼女はまた、自分に力を貸してくれるつもりらしい。
「治療をしたからと言ってイナリの寿命が縮むようなことは……」
「安心しろ。酒を抜くのなんぞ薬だけで事足りる。手持ちの毒を薄めて使うだけでも十分なはずだ」
「――わかった、苦労をかけるの」
「二度はないからな」
ディルはそれ以上は言わず、イナリの前へと進み始める。
シアと自分達の関係がどうなるのかは、まだわからない。
だが少なくともこれから、娘のシアと父のアーディの関係は、今よりかはマシなものになってくれるだろう。
ディルは迷宮探索が始まるよりも前に済ませてしまおうと、早足でアーディに聞いた彼の寝床へと向かっていった―――――。
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