帰還
「ふぅ……これでなんとかなったかのう」
「当座はな、下手に火の粉がかかる前にここを出た方がいい」
リスティス商会の本店から出てきたディルを、影から音もなく出てきたイナリが出迎えてくれる。
彼の顔に浮かんでいたはホッとした安堵、それを見て彼女もまたとりあえずは状況が
上手く推移したことを確信する。
イナリが持ってきた証拠は商会に決定打を十回与えても余るほどに多かった。
不正帳簿と改竄前の本来の帳簿。この国では違法になっている麻薬の束、そして明らかにまともな入手経路から手に入れていない違法な奴隷。
砂漠を通しての他国への武器輸出や魔物の素材の法令無視の悪用等、悪事の証拠に関しては枚挙に暇がない。
彼はそのうちの幾つかを持ち、ガルシアの父であるカディンの元へと直訴に行った。それも普通にではなく、あえてやってきた戦闘員達を自分一人の力で捩じ伏せながら。
この程度のことは造作もないと言わんばかりに堂々と店に侵入し証拠を叩きつけ、多少強引な形で息子にケジメをつけさせることを約束した。
もし動かないようなら、どこかの貴族の元へ封筒が送られるかもしれんのぉ。
イナリを落札した際に悪人面をしておいたおかげで、二回目は最初よりもずっと上手くいった。
これでもう、あのヒリソ親子が放蕩息子に煩わされることはなくなるだろう。
それでガルシアがどうなろうと、ディルの知ったことではない。優先順位で言えば、あの男は乱獲していたスライムよりも下なのだから。
(とりあえず……自分にできることはした、あとはなんとかしてくれることを祈るだけじゃろう)
今ヒリソとミルヒに会いに行くのはまずい。
下手な勘繰りを入れられて二人に危害が及ぶくらいなら、一人で全ての火の粉を被りここをあとにした方がいいだろう。
「よし、それじゃあ帰ろうかの。……おっと、その前にイナリを奴隷から解放しなくちゃいかんな」
「お前は……」
「なんじゃね?」
奴隷が主に対する態度ではないが、ディルにそれを気にする様子もない。
孫ほど年の離れている女の子、それも一応は恩のある相手なのだから好きにさせておくんがええ。どうせすぐ別れることになるんじゃからの。
肩の荷が降りて気持ち腰が曲がっているディルを見て、イナリは彼女にしては珍しく口ごもっていた。
「お前に……何の得もないだろう、こんなことをしても」
「損だ得だで生きてたらの、辛いだけじゃよ人生は。結局思うがままにやるのが、一番なんじゃよ」
イナリは事前にした説明だけでは、納得しかねている様子だ。さもありなんと同意してしまうおじいちゃん。
ディルは金貨百枚と将来のリスクと交換で、会ってから一月も経っていない親子を助けたのだ。その行動は不合理極まりないと、百人が百人そう思うことだろう。
「なんのために、こんな面倒なことをする。私を上手く使えばあの男を殺せたし、父親も殺せた。証拠で焚き付けて商会ごと接収することもできたはずだ」
「そうさなぁ……」
イナリの能力は、ディルが予想していた物とは比べ物にならないほどに凄まじかった。
詳しい事情は聞いていないが、本来ならやるつもりだったディルの侵入を不要と言い切り、一人であらゆる段取りを調えてしまったのだから。
確かに言われればその通りである。このままならヒリソ親子が危険に陥るリスクは0ではないし、もっと確実な手段もあったような気はする。
どうして直接的な手段に出ようと思わなかったのだろう。
そう考えて思い浮かぶのは、ミルヒの笑みだった。
「笑って……欲しいんじゃろうね」
「…………っぅ⁉」
以前から全く動かなかったイナリの顔が、突然見たこともないほどにくしゃりと歪む。いつものキツい表情に戻るまでに一拍かかってしまっているのが、その動揺の深刻さを如実に示していた。
「…………まだ、解放はしないでいい」
「え、それじゃと約束と違う気がするんじゃが」
「冷静に考えてもみろ、今の私が一人でヤポンに帰れるとでも思うのか? 頼れる人間を見つける必要があるんだよ、私には」
確かに考えてみれば、そうかもしれない。
あまり人目につかないような獣人が一人で長い旅路を行けば、いくら彼女と言えど見つかってしまう可能性は高いだろう。
じゃがそれだけが、本当の理由なんじゃろうか。
ディルは先ほどの顔を見て、まだ何か隠されている事実があることを感じ取った。
(じゃが……言いたくないなら、それもいいじゃろう)
人なら誰しも、他人に隠しておきたいことの一つや二つあるものである。
元々一人で冒険者稼業を続けることに限界を感じていた身でもある。
自分に足りていない戦闘以外の部分の多くを担ってくれる彼女ならば、必ずやこれからの役に立つことだろう。
「ここを出るんだろう、次はどこへ行くんだ?」
「帰るんじゃよ、わしの第二の故郷へな」
「…………そうか」
これでようやくギアンに戻って、またスライムを狩ってそこそこの暮らしを続けられる日々に戻ることができる。
「なぁお前……」
「なんじゃね? ……っとぉ⁉」
即座に見切りスキルが発動、自分にやってくる危険を知らせてくれる。
首筋に斬撃、毒を散布、逃げるべきは3歩先の風上。
ディルはやってきたナイフを弾き飛ばし、毒から逃れて狙っていた場所へと移動。
振り返りながら、抜いた黄泉還しを再び鞘へとしまう。
「なんじゃね、急に」
「お前は私が笑顔になるためと言ったら……金貨百枚、払ってくれるか?」
「……こんな物騒な子じゃなければ、考えたかもの」
「そうか……」
一瞬だけ視線が合ったかと思うと、すぐにふいと逸らされてしまう。
ディルよりも一歩も二歩も先を行き、イナリがダッシュをし始めた。
「さっさと行くぞ、時間は有限なんだ‼」
「そりゃお前さんじゃなくてわしの言葉じゃと思うけどな……」
ディルは見切りを使い、ヌルヌルと動きイナリの後を追った。
ついていけている時点である程度の配慮はなされているのだろうが、それでも今のおじいちゃんには背中を追いかけるので精一杯な速度である。
そういえばイナリには、加速のスキルがあったんじゃったな。
「お前さんの、加速スキルはっ……どれくらいの速度が、出るんじゃっ?」
「平野なら馬の倍は出る、靭帯の断裂を無視してよければその三倍は出る。数ヵ月動けなくてもいいのなら目で追うことが不可能なだけの速度が出る」
「荷物を持つと速度は遅くなるか?」
「……ならない、私のスキルは厳密に言えば加速ではない。私の背中に背負える量なら、実質的な重量は無視できる」
ディルと並走しても、イナリは息一つ乱れた様子を見せない。相変わらずしかつめらしい顔をしているが、彼女が秘密を一つ打ち明けてくれたのは悪いことではないだろう。
「それ、なら、一つ頼みたいことがっ、あるんじゃが……」
「報酬次第……と言いたいところだがお前には恩がある、ある程度なら聞こう」
「ちょっと、行って欲しい場所が……あるんじゃよねっ……」
「御使いか……まぁ、引き受けないでもない」
前を向くとイナリが更に速度を上げる。
街の人影を抜き去り、往来の人間達を驚かせながら進む彼女の背中が、ディルには少しだけ弾んでいるように見えた。
「勘違いするなよ老いぼれ、私は安い女じゃないんだ」
小さくてもよく通る銀鈴のような声で、後ろも向かずにひた走る少女。
(……わからんね、女の子の心って)
驚いたり怒ったり喜んだりするイナリの内心が、おじいちゃんには推し量れない。
六十余年が経過しても未だ解明に至らぬほど、女心のは複雑なのだ。
(じゃけど……楽しそうだし、まぁいいかな)
とりあえず、自分にできることはした。少なくともただスキルを持っただけの元農民にしては、頑張った方だろう。
かねてから考えていたあれもできそうだし、鎧も手に入ったし、新しい仲間も見つかった。
結果的に見れば、この遠征は大成功である。
「おいジジイ、早く来いっ‼」
「ジジイって、わかってるんならっ……もうちょい、いたわっとくれっ……」
ディルは荒い息を吐きながら、なんとかイナリに続いて街の通用門へ辿り着いた。
玉のような汗を掻き必死になって空気を吸い込んでいる彼の胸は……なぜだか少しばかり弾んでいた。
新たな同行者を引き連れて、おじいちゃんのセカンドライフは続いていく。
彼の冒険者としての日々は……まだまだ終わらない。




