海
海上を行く一隻の船がある。
ヤポンで一般的な廻船と造りは同じだが、その大きさは行き交う商船と比べれば倍近い開きがあった。
だというのに、船の中にいる乗客は極めて少ない。
船体が大きい分漕ぎ手は多いのだが、船頭を始めとする船員を除けば、乗客の数が数えるほどしかいないのだ。
その船の屋根を見れば、そこまで人が少ない理由はすぐにわかった。
そこにあったのは、賽の目の六のような形で配置された六輪の桔梗の家紋。
――紛うことなく双爪国を治める当主である長門家の家紋である。
ただしよく見れば家紋の周囲に装飾がない。
これは長門家の分家や長門家の公式な遣いが使うことの許される略式の定紋であった。
双爪を始めとするヤポンの多くの国において、家紋の偽証は極刑とされている。
そのためこの船は正真正銘、長門家にゆかりがあるということになる。
「ふぅ……潮風は髪が傷むから嫌いですわ」
甲板にいる人物――長門アキコの格好は今日も変わらず奇抜だった。
被っているのは赤色の頭巾、そして正体を隠すためにかけているのは、ガリ勉でもきょうびつけないようなグルグル眼鏡である。
透明度の高いガラス自体が未だ高級品であるこの世界で、あまり意味のない変装具に大金を使うことができるのは、双爪国の豊かさ故なのかもしれない。
「海は広いですな。見ていると自分の人生までちっぽけに見えてきますわい」
そしてその後ろにいるのは、ディルである。
けれど着ているのはいつものボロではなく、ヤポンではオフの男性が着ることの多い着流しであった。
男性用の着物ということだが、思っていたほどキツくも動きを阻害する感じもない。
「アキコ様、そろそろ柳楼国が見えて参ります」
そう言って頭を下げているのはイナリである。
ディルが今まで見たことがないような殊勝な態度だった。
誰に対しても尊大な態度を崩してはいなかった彼女にしてはかなり珍しい。
恐らくは既に六国に入り、身を引き締めたということなのだろう。
ちなみにイナリが来ているのは、いつものシノビ装束ではない和服だった。
侍女という扱いになっているため、スカートも膝丈で上着も手のひらを覆うほどに長い。
「わかりましたわ! 二人とも、準備はよろしくて?」
「問題……ありませぬぞ」
「はっ」
ディルはなんとなく着流しの胸元に手をやりながら空を仰ぐ。
なんだか不思議なことになったなぁというのが、嘘偽りのない正直な気持ちだった。
ディルとイナリがアキコから頼まれた願い。
それは――アキコのお忍び旅行の付き添い。
より正確な言い方をするのなら、柳楼国での物見遊山のお手伝い兼護衛の依頼であった。
彼女は貴族家の人間でありながらかなり奔放なところがあるらしく、今回の旅行も当主の許可を得ていないらしい。
詳しいことは聞いてはいないが、どうやら相当な無理をして出てきているらしい。
双爪国と上手に付き合っていくことを考えるのなら、本来ならアキコを諫めて上の立場の人間と縁故を持った方がいい。
けれどそうせずに彼女についてきたのは、アキコがわざわざ柳楼国へとやって来ることを決意したその理由にあった。
『どうやら私はこのままだと、柳楼国に嫁に出されるらしいのですわ。ですから実際に嫁ぐ話がおおっぴらになる前に、一度この目で直接見ておきたいのです。柳楼国と――その国主である、井樋家の人となりを』
それは嫁に行く前の少女の願い。
戦乱が続き結婚一つ自由にはできぬ少女のそんなささやかな願いを、ディルは聞き入れることにした。
ちなみに今回の同行に関しては、イナリも賛成の意向を示している。
どうやら双爪国と柳楼国が婚姻政策により繋がろうとしている動きの裏には、徐々に六国内で影響力を強めている長砂国の影響があるようなのである。
イナリは自分の方でも動き、六国内の情報収集に努めるようだった。
こうしてディル達は図らずも、六国内の有力者の娘と共に、別の国へと向かうことになる。
船が到着する――と思われたその時。
「おいそこのデケぇ船、止まりやがれ!」
叫び声がしたかと思うと、わらわらと小舟がやってくる。
そしてディル達の乗る船はあっという間に、取り囲まれてしまったのだった……。




