走れ!
「それは一体……どういう意味じゃろうか?」
「どういう意味も何も……そのままの意味だよ。ディルは何様なのって話」
ディルは思わず口をパクパクさせて、言葉を発することができなかった。
イナリを治そうという厚意を、こうして一笑に付されるとは思っていなかったからだ。
「その子……イナリとか言ったっけ? 彼女にその話はしたの? 多分、してないでしょ」「……しとらん、イナリに言えば彼女は絶対に嫌がる。そういう子じゃからの」
「ならディルの考えって、独りよがりじゃない? 別に助けを求められたわけじゃないんでしょ?」
独りよがり……と口の中で呟く。
ディルは今まで、イナリを治すことを目的として迷宮に潜ってきた。
そのおかげで得た新たな仲間も居たし、イナリと以前よりずっと深い絆を育むこともできたと思う。
だがこの行動の全ては、独りよがりだったのだろうか。
ディルはウェッケナーとの会話の頃からの、自分の行動を鑑みることにした。
イナリが早死にすることは、ディルが変えたい運命の一つだ。
その事実は、今になってもなんら変わらない。
だが、最初と比べるとディルの抱く感想は変わっている。
彼はイナリがどのような思いでクノイチになり、己の体内に毒を入れ続けたのか、その思いの一端を聞いた。
彼女が己の主君を救うことも目的として動いていることも、少し前に教えてもらったばかりだ。
イナリの思いを無視して彼女を治すこと――それはたしかに、偽善なのかもしれない。
彼女の考えを知ることで、ディルはどう動くかを、一度身の振り方を考えるべきだたったのだ。
だが今までやってきたことと、最初に抱いていた目的が、ディルの目を曇らせてしまっていた。
もし、イナリを本当に大切だと思うのなら。
彼女の自分の仲間だと、心から信じるのなら――。
「バグラチオン殿……」
「なんだい、急にかしこまっちゃって?」
「――ありがとう。あなたのおかげで大切な何かを、間違えずに済んだような気がする」
「ふふっ、そうやって凝り固まらずにいられるのは、君の得難い才能だと思う。時には立ち止まって、自分を冷静な目で観察することを忘れちゃいけないよ」
イナリはディルのことを信じ、彼女の事情を、一部なりとも打ち明けてくれた。
ならば自分が秘めている思いを隠したまま彼女と過ごすのは……あまりにも不義理だ。
今回、ディルがイナリを助けようとしていることは、今までのような人助けとは違っている。
助けなければ酷い目に遭っていたかもしれない、ミースやミルヒ。
このままでは共に良いことにはならないだろうと傍目から見ただけでわかる、シアとその父親。
これらは全て、やらなければ当人に不幸が訪れていた。
そして誰もが直接口には出さずとも、助けの手を求めていたのだ。
だがイナリは違う。
彼女が求めていたのは助けは助けでも――まったく別種のものだ。
イナリはディルよりも、よっぽど強い人間だ。
強固な目的意識があって、彼女はその目的のためにディルと行動を共にしている。
もちろんディル達仲間のことを憎からず思っているのも間違いないだろうが……イナリの優先順位は、決して変わることがない。
主である姫君の救出、そのために島流しにされたヤポンへ、仲間を引き連れて入り込む。 出入国が厳しく管理されているあの国へ入るのは、並大抵のことではないだろう。
そのことを秘密にしておくことだってできたはずなのだ。
信頼には――信頼で応えたい。
ディルの決心は、固まった。
バグラチオンは、彼の変心を見て笑う。
だがそれは先ほどの嘲る笑みではなく、快活な哄笑だった。
「行くといい。きっとそれが、君達のためになるとも」
「やっぱりバグラチオン殿は、賢者様じゃね。わしには見えない物が、色々と見えとる」
「伊達に長い時間を生きてないからね。……ああ、安心してくれていい。ディルが求めていたものは、後で必要な素材を伝えるから。この国だけだと探しきれるかは怪しいが……それこそここではないどこかへでも行けば、集めることができるかもしれないよ?」
そういって、彼女はウィンクをした。
それに頷き感謝の意を示してから、ディルは走る。
戦う以外の目的で走るのは、ずいぶんと久しぶりだった。
ディルは駆ける。
自分と――そして自分と同じくくらいに不器用な、一人の少女のために。




