イナリの過去 3
側仕えの仕事は、イナリが思っていたよりずっと大変な仕事だった。
要人の身の回りのことをなんでもやらなければいけない。
自分の自由な時間などというものはなく、千が出掛けるとなればそれについていかなければならない。
あらゆる時間を主と共有し、常に側で仕える。
だからこその側仕え。
しかしながら、仕事はそれほど嫌ではなかった。
自分を拾い上げてくれた千に対する恩もある。
だが何より、彼女は千の人間性に惚れ込んでいた。
彼女は誰にも、分け隔てなく接することのできる女性だ。
自分のような、盗みを生業にしていたクズ人間に対しても。
「ねぇイナリ、このお団子美味しいわよ。ほら、あなたも一粒食べてみて」
「姫様、いけません。側仕えの私にはそのようなもの……」
「美味しいものは誰かと食べた方が美味しいのよ、ほらっ」
「……美味しゅうございます」
「ね、言ったでしょ?」
千はイナリに生き方を教えてくれた。
物を盗む以外の生き方を。
誰かから奪うのではなく、誰かに与える生き方もあるということを。
千はイナリに、全てを与えてくれた。
住む場所、食べる物、着る服、給金。
人間が文化的な暮らしをするのに必要な全てを、イナリに与えてくれた。
千はイナリに、誰かと過ごすことの心地よさをわからせてくれた。
彼女はいつも、誰かと一緒にご飯を食べることを好んだ。
大抵の場合、イナリがご相伴に預かることになる。
おはようからおやすみまで、イナリは千の側にいた。
イナリの出身を笑う者も多かった。
イナリを不当に貶める者は後を絶たなかった。
しかし千は、彼女を解雇しようとはしなかった。
厳格な武家の当主である父に何度反対されても、彼女は自分を曲げなかった。
なぜそこまでしてくれるのか、イナリにはわからなかった。
イナリは自分の全てを、千のために使うことを決めた。
だからこそ彼女は、一つの決意を固める。
今の生活は、彼女にとって何よりも大切だ。
しかし今は自分にとっての大切よりも、もっともっと大切で守りたいものがあった。
だからこそ彼女は願った。
千のために戦うことを。
千のためにこの命を使うことを。
「ねぇイナリ。あなた私に言いたいことがあるんじゃないの?」
「……姫様にはお見通しですね。はい、その通りです」
イナリは自分の心を見抜かれても驚かない。
彼女は感情を隠すのが得意だった。
けれど、千の方が一枚も二枚も上手なのだ。
彼女は、人の表情を読み取ることに長けている。
千の前では、嘘はつけなかった。
イナリは諦め、白旗を揚げる。
「姫様……私は、シノビになろうと思います」
まともに敬語も使えるようになり、与えられた仕事にもずいぶんと慣れてきた。
だからこそ彼女は思うことがあった。
もっと姫のためになるような形で、生きていきたい。
誰でもできる側仕えという仕事では、できることにも限りがある。
彼女が目指すことにしたのは、シノビ。
ヤポンの領主や要人が抱えている、諜報に長けた人材のことである。
シノビは通常、素質ある孤児を拾い上げて育成する。
いつどこで殺されるかもわからない仕事をする者に、人間関係という鎖をつけないために。
スキルや魔法の才能を持っている者が、厳しい鍛錬を乗り越えてようやくなれる狭き門だった。
だが幸運なことに、イナリはそれらの条件を全て満たしている。
「無理よ、死んでしまうわ」
「元より覚悟の上です。私は姫様を……お守りしたいのです」
イナリには生活の余裕ができた。
そして彼女は人一倍、悪意というものに敏感だった。
そんなイナリにだからこそ、見えてくるものがある。
この屋敷に、さらに言えばこの世界に、千の味方があまりにも少ないという事実だ。
千は長宗我部と呼ばれる武門の家で、長女として生を受けた。
本来ならば彼女が、家を継ぐ立場にあるのだ。
現当主である父は少し前に病に倒れ、余命宣告を受けている。
それなのに今の千は、なんら立場を持っていない。
監禁こそされていないが、何一つとして実権を持たされることはなかった。
現当主である父の兄――つまりは伯父が、千に変わり全ての領主権限を代行しているからだ。
千の後見人という立場を利用し、伯父のモトチカは好き勝手に権威を振りかざしていた。
父が生きているからこそ、千は飼い殺しにされている。
父が死ねば待っている道は、廃嫡されてからの降嫁だろう。
未だ幼い千には、伯父をはね除けるだけの力はなかった。
千には誰も味方がいない。
彼女と懇意に取引している商人も、目の奥は決して笑っていない。
彼女の側に控えているシノビであるホムラは、元より伯父の紐付きだった。
下手をすれば千の父の病気すら……。
千の影響力は日増しに落ちていた。
そんな彼女を守るのには、側仕えという立場では足りない。
ただ盗みの能力があるだけの小娘では、千を守ることはできなかった。
イナリには力が必要だった。
千へ向けられた悪意を跳ね返すための力が。
「そう……わかったわ。伝手を使ってなんとかしてみせる」
千が言っていた通り、イナリはシノビの養成機関であるレンブの隠れ里へと入ることが決まった。
彼女はシノビとして生きていくことを決めた。
世を忍び、己の主のために戦うその運命は、レンブに足を踏み入れた瞬間に決まったと言っていいだろう。
イナリはその才を見込まれ、シノビの中でも特に才気あるものしか選ばれぬクノイチへの昇格試験を無事にパスする。
修行は厳しく、体内にすり込まれ続けた毒は自身の身体を蝕み続けた。
けれど何一つ、不満はなかった。
己の主である千に尽くす。
その一事のためならば、寿命だろうが惜しくはなかったからだ。
彼女はレンブの里を抜け、長宗我部の家へと戻る。
千と別れてから、既に三年以上の時間が経過していた。
長宗我部家の当主であるミチザネは既に死んでいた。
そしてそれを継いだのは千ではなく、伯父のモトチカだ。
既に千は軟禁され、自由に屋敷を出ることさえできなくなっていた。
事態は自分が想定していたよりも、ずっと悪くなっていた。
「あら……お帰りなさい、イナリ」
「姫様……ただいま、帰りましたっ……!」
最後に見たときよりもずっと、千はやつれていた。
しかしその美貌は陰るどころか、より増している。
彼女はさなぎが蝶になるように、一人の女性へと生まれ変わっていた。
「私が……私がお守り致します! 貴方を害そうとする全てから、姫様を守ってみせます!」
「ふふ……頼もしい。強くなったのね、イナリ。あ、そうだ。お団子……食べる?」
「――いただきます」
イナリは三年越しに、千から与えられた団子を食べる。
ゆっくりと噛み締めるように味わうと、なぜだか少ししょっぱかった。
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