イナリの過去 2
イナリが盗人稼業に精を出していたある日のこと。
彼女はいつものようにじっくりと対象を観察していた。
今回の獲物の商人は、でっぷりと太った成金だった。
いかにもプライドが高そうで、行く先々で平民たちを罵っている。
こういう人間はもし財布を盗まれても、奉行所に届け出ることはない。
子供のスリにしてやられたということを、誰にも知られたくないからだ。
彼が出向いた先は、年若い女の子のところだった。
腕を絡ませるでもなく、真面目な顔を突き合わせて何かを話している。
情婦かとも思ったが、どうやら違うらしい。
プライベートに興味のないイナリは、黙って二人が離れるのを見守った。
人通りの少ない場所へ商人がやってきてからが、彼女の仕事だ。
右の懐に入れてある財布を軽くしてから、徐々に距離を近付けていく。
いつも通りのつまらない、手慣れている退屈な仕事。
もう何度も繰り返してきたそれを、手順に従って行う。
飽きてはいたが決して手抜かりはしていなかったその行為に……イナリは人生で初めて失敗した。
胸の中へと伸ばした手が財布に触れるより早く、彼女の全身が地面に叩きつけられる。
「そこまでだ」
逃げようと思う間もなかった。
背に体重をかけられ、まともに動くことができない。
上の人間の重さを無くそうとスキルを使うこともできたはずだ。
だがそういった考えが浮かぶだけの余裕がなかった。
「ぐぅっ……」
初めて感じる強烈な圧迫感に、急激に意識が遠のいていく。
(どうして、あいつが?)
薄れゆく景色の中、イナリのぼやけた視界に映っていたのは……先ほど見たはずの、少女の姿だった。
イナリが目覚めた時、目に入ってきたのは牢屋の鉄格子――ではなかった。
「……なんだ、これは」
彼女は何一つ拘束されることもなく、布団に横たわっている。
触ってみるとぽふぽふと音が鳴る。
生まれて初めて見るが、恐らくは羽毛布団だ。
決して安いものではない。
まともな寝具の上で寝たのは、人生で初めてだった。
てっきりどこかで今までの余罪を吐かせられるものだとばかり思っていたイナリは、面食らう。 同業者の末路を知っているからこその、予想外の展開。
すっくと身を起こすと、身につけているものまで変わっていた。
肌触りの良い上等な服は、恐らく絹製。
身体も清められており、ふんわりといい匂いが漂ってくる。
何がなんだかわからなかった。
呆けていると、気付けば部屋のふすまが開けられている。
そしてスッと音もなく、使用人の男が入ってきた。
「お嬢様がお待ちです、こちらへどうぞ」
目の前の男は素人だった。
ただここで勢いに任せて逃げても、屋敷の造りがわからなければ迷うだけだ。
今はただ、従うしかない。
自分に何かを強いられることは嫌いだった。
だが仕方なく、イナリは言われるがままゆっくりと歩いて行く。
「どうも、はじめまして」
「……どうも」
イナリが案内されたのは、屋敷の中でも特に大きな一室だった。
そこにいたのは、意識を失う瞬間にいたあの少女。
黒い長髪は腰の辺りまで伸び、まつげは長い。
二重まぶたのぱっちりとした目で、イナリの方を見つめている。
その後ろには、小柄な女が控えている。
きっと自分を落としたのは彼女なのだろう。
「一つ聞いてもいい?」
「……はい」
イナリとて、目上の人間と話すときの心得くらいはある。
顔を下げようとすると、止められた。
ということは、武家の人間ではないのかもしれない。
「あなたはどうして、盗みを働いたの?」
「……それしか、なかったから」
それは事実だった。
イナリが生きるためには、物を盗んで暮らすしかなかった。
武家の人間が農民からの税で生きているように、商人が物を売って生計を立てているように。
イナリは仕事として、人から物を盗む。
それ以外の生き方を、彼女は知らなかった。
そして誰も、教えてはくれなかった。
イナリの言葉を聞くと、少女は悲しそうな顔をする。
憐れみを向けられるのは、嫌いなはずだった。
だが何故かその憐憫に、いやらしさは感じなかった。
彼女の人となりが、そうさせるのかもしれない。
「ヒイロ、構わない?」
「問題ありません。しかしさすがに……」
「あなたの名前は?」
「……イナリ」
「そう、いい名前ね。私は千って言うの、よろしくね」
千はそう言って笑う。
彼女は微笑みながらイナリにこう言った。
「物を盗む以外の生き方を、あなたに教えてあげる。誰かのためになるような仕事も、世の中にはたくさんあるのよ」
逃げるという選択肢がなかったからか。
それとも目の前の人物にほだされたからか。
イナリは小さく頷いていた。
こうしてスリとして生きてきた彼女は、千の側仕えとして働くことになる――。
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