異国と祖国と、回旋曲
「姫と魔術師と、遁走曲」の続編です。
金貨一枚だった。それが彼の値段。
『この子は……驚いたな、僕が買うよ。おいで』
かろうじて分かる異国の言葉。伸ばした腕の先、差し出された手と、自分と引き換えに渡された金貨の輝きを、彼は絶対に忘れなかった。
成長して、払われた金貨を数倍にして返した後も、その手の持ち主が冷たく動かなくなってからも、絶対に。
――ある日、幼い彼の頭を撫でながら、その人は言った。
『いつかお前の心に触れるものがあったら、もしもその腕が救いを求めて伸ばされたのなら、躊躇わず取りなさい。そして僕があのときの全財産の金貨一枚お前のために払ったように、お前もその腕のために何でも差し出してやるんだよ』
金貨一枚。彼のために払われたもの。
『わかるね、決して迷ってはいけないよ』
でも、今の彼には伸ばされる前に取ってしまった手がある。小さく華奢な手。渡せるものなんてない。償うすべなど知らない。何もかも捨てさせることしか、奪うことしかできないのに。
*・*・*
グラオザームはとある店の前で立ち止まり、狭い路地裏にも関わらず照りつける太陽を、手をかざして見上げた。砂漠に囲まれたこの国の昼間はいつでも暑い。
『……グラ、ザーム……』
耳の奥に残る声に長い睫毛を伏せる。彼の名を呼ぶかすれ声、宿に残してきた少女。心臓が少しおかしな音を立てて、グラオザームは目を開けた。店の扉に手をかける。
「いらっしゃい」
中に入れば、踊り子のように露出の多い女が勘定台で出迎えた。薄暗く、狭い店だ。扉以外の壁は全部棚になっていて、様々な瓶や薬や道具で埋まっている。梁から吊るされているのは根や薬草の束。客はいない。
「ん? あんた、どっかで……」
女が首を傾げた拍子に、艷やかな黒髪が白い肩を滑り、耳や首につけられた装身具がシャラ……と音をたてた。年齢不詳の、誰もが息を呑むような艶冶な美女。だがグラオザームは眉ひとつ動かさなかった。
彼は近くの棚から正確に最高品質の解熱薬と鎮痛薬の瓶を選び取ると、それらを勘定台に置き、口を開く。完璧な大陸公用語。
「マストゥーレフ、ハビヘフの聖水を譲ってくれ」
「ハビヘフの聖水ぃ!? というかアタシの本名、久々に聞いたよ。あんた誰だい」
「お前の弟だ」
マストゥーレフは椅子から落ちかけた。唖然としたまま、まじまじと自称弟の顔を見つめる。弟は、いた。ただし二十年以上前に離れ離れになって、それ以来会っていない。
『あねうえ、マストゥーレフさま』
確か父の死んだ若い異国の愛人の息子で、マストゥーレフより十は年下だった。屋敷に引き取られてきたので、たまに遊んでやったりもしたが、ある日母が奴隷商に引き渡してしまった。顔も、名前すら忘れてしまった小さな異母弟。
それからどうなったかは知らない。マストゥーレフは馬鹿なことを言った。
「アタシの弟はもっと小さかったよ」
返ってきたのは、再会した姉に向けるとは思えない無感動な冷たい目だった。でも冷ややかなだけでは無い、炎のような強い意思が奥で鈍く輝く双眸。
ふと、その印象的な目さえ無ければ、鏡の中の自分に少し似ているのだと思った。異国風の顔立ちだが、どこか似ている。亡き父にも。
ちょっと待ってな、とマストゥーレフは立ち上がった。
背後の棚の真ん中、一番ごちゃごちゃ瓶の置いてあるところに手を突っ込んで、紛れ込んでいた小さな細い瓶を引っこ抜く。中で透明な液体が揺れた。
ハビヘフの聖水。
大陸の果て近くの遠い国、その大神殿で湧く〈奇跡の泉〉の水。高位神官にしか汲むことを許されぬ、いかなる呪いも穢れも祓うとされるもの。幼いころマストゥーレフが祖母に貰ったものだった。希少だけど、使い道は特に無い。
マストゥーレフが持っていることを知っている人間は殆どいないはずだった。両親にも秘密にしていた。
そういえば、昔、母に穢らわしいと叩かれていた小さな異母弟に、後で見せびらかしたことがあったと思い出す。自分には必要ないものだから譲ってやってもいいわよ、と。
細かいことは忘れたが、今持っているのだから、あのときは結局譲らなかったのだ。どうしてだっただろう。
勘定台に置いた。
「その解熱薬と鎮痛薬と合わせてサッターフ金貨十枚だね。アタシの薬は高価なんだよ」
持っていないと言われたらタダででもくれやる気分だったのに、自称弟は値切りもせずにキッチリ払っていった。
閉まった扉を見つめる。別に今さら異母弟の名前を思い出す努力をする気は無かったし、あれが本物だったのかどうかで悩むつもりも無い。
それでもマストゥーレフは頬杖をついて、しばらく扉を眺めていた。
*・*・*
風が吹いた気がして、フリデリケはぼんやりと目を開けた。寝台の薄いとばりの向こうに見慣れた影がある。
「……グラオ……ザーム」
掠れた声で呼べば、とばりを開けて大きな手が伸びてきた。額に触れるひんやりした感触。まだ、だいぶ熱があるらしい。ほぅ、と息をつくと、手が離れて、代わりに吸い飲みが口に当てられた。
「……うっ」
苦い。あまりの苦さに顔を顰めたら、なぜかグラオザームも眉を寄せた。
「薬だ」
「は、い」
わざわざ薬だと言わなくても、彼がくれるものなら毒でも飲むのだけど……、苦いものは苦い。無理やり嚥下する。むせた。すると抱き起こされて、今度は水を飲ませられる。
「でかけ、て……いたの……ですか?」
頭を傾けてグラオザームの顔を見ながら聞く。この体勢だと彼の顔がよく見えて幸せだった。ゆったりしたこの国の衣装も彼にはよく似合う。と、ぼんやり考えていたらまた寝台に横にされてしまった。
「寝ていろ、熱が下がったらここを出る」
祖国を出てから数ヶ月。海を渡って、山を越え、砂漠を渡って辿り着いた砂色の国。強い陽射しと四角い建物。乾いた風の吹きゆく国。
着いた途端疲労のためかフリデリケは倒れた。それから数日。ずっと宿どころか、寝台すらほんとんど出られない。
グラオザームは何か用があるのか、時折いなくなったが、大抵は寝台の彼女の側にいてくれた。少し、不思議。
枕に頭を乗せたまま、フリデリケは彼の顔を見上げた。彼は気にせず寝台に散らばった彼女の染められた髪をいじっている。見ているうち、あれ、と思った。
「……何か、ありましたか……? 顔色が……優れません……ね」
グラオザームは表情を変えなかったが、代わりにぴくっと長い指が一瞬微かに跳ねた。
「………………いや」
沈黙が落ちた。グラオザームはフリデリケの髪と真剣に見つめ合い、彼女本体とは目を合わせない。長い沈黙の中、発熱しているフリデリケはだんだん髪の毛になりたくなってきた。あ、でも交代したら私の中身が髪の毛に……。
「生国だ」
「え?」
ぼけた事を考えていたせいか、意味を捉えるのに少しかかった。理解したフリデリケは嬉しくなって微笑んだ。生まれた国、彼の過去。
「そう、ですか」
グラオザームがようやくフリデリケの顔を見た。炎のような瞳に何かの感情が瞬く。大きな手が汗で貼り付いた髪を払い、すっと頬に当てられた。
「あなたはいつも笑う」
じっと見つめられながら言われて、今度はフリデリケが目を逸した。グラオザームはこのごろ、たまに不思議な目で彼女を見る。何かを探るような、苦痛のような。そういうとき、彼女はいつも胸が締め付けられるような気がした。
まぶたを閉じた。頬に触れる冷たい掌。少し眠ります、と、呟いた。彼は何も言わなかった。
フリデリケがぐっすりと眠りの世界に落ちてからしばらくして、ようやくグラオザームは彼女の頬から手を引き剥がした。ぎゅっと拳に握りしめる。
枕のそばに落ちていた布を拾って、魔術で濡らしてフリデリケの額に乗せる。寝台に広がる髪をすくって、指に絡めた。染まっていても、彼の目にはどうしてか金貨よりも輝いて見える髪。
過去の記憶に眠る炎熱の国。グラオザームは昔、この国の何もかもを憎んでいたはずだった。今日異母姉の店に入るまで、いつか自分の血縁に会ったら殺すだろうと思っていた。フリデリケの父親を殺したように。
でも違った。何の感情も湧かなかった。
――アタシの弟はもっと小さかったよ。
あの異母姉は自分が要求した金額が、幼かった異母弟の値段の十倍だなんて事は知らない。ぼろぼろの幼い彼に美しい瓶の聖水を見せびらかして、欲しければ額突いて乞えと嗤ったことを覚えていない。名前すら忘れ去っていた。
人とはそういうものだ。
不意に心臓がおかしな音をたてた。締め上げられ、握りつぶされるような感覚。血の気が引いていく。しかしその凄まじい苦痛にも関わらず、グラオザームは表情すら変えずに、ただ綺麗な髪から手を離した。立ち上がる。
机に置いておいた小瓶を取って、平然と部屋を横切り、窓際に置かれた長椅子に座った。襟に手をやり、ボタン代わりの紐を解いていく。うごめく黒い闇がのぞいた。
「……っ」
自分の身体に蛇のように絡みつく深い闇を見て、上衣を脱いだグラオザームは微かに嫌そうな顔をした。うぞうぞと闇が這うたび心臓に激痛が走るが、痛みではなく、その見た目が気に入らない。
心臓近くで動く闇の先端に指を這わせて、呪文を呟いた。少しずつ痛みが引き、闇の動きが止まっていった。鼓動が元に戻る。
だんだん太く、濃く、活発になっていく闇。呪い。
フリデリケの祖国『石と海風の国』の古代の結界を破った反動だった。古き時代の魔術師の仕掛け。魔力が多く濃いほど絡みつく呪いだった。魔力を吸い取り、成長し、やがて命を奪うもの。
『グラオザーム……』
頭の中でそよ風のような声が呼ぶ。呪いを簡単に解く方法をグラオザームは知っていた。結界が守っていた血筋、その直系の王女。彼女を手に入れればいい。
『私はグラオザームを恨んだりしません』
すぐに心に浮かぶ、にじむような透明な笑み。恨んだりしない。そう、きっと彼女は何をしても彼を恨むことはないだろう。けれど、だからと言ってグラオザームが彼女から奪っていいものなど、ひとつも無い。……何ひとつ。
片手で胸の呪いを抑えたまま、もう片方の手で小瓶の蓋を開ける。あらゆる呪い、穢れを祓うといわれるハビヘフの聖水。紛れもない本物だ。
これの存在を思い出したからこそ、二度と足を踏み入れることが無いと思っていた砂漠の国に向かった。
ほのかに光るような透明なそれを、絡みつく闇にたらす。じゅ、と焼けるような音と、腐臭がした。薄まる闇と消えていく聖水。
小瓶の蓋を閉め、椅子の背に体を預けて息を吐いた。
最高の聖水とはいえ、これで呪いが消えるとははなから思っていない。強力な古代の呪いだ。精々薄めて死期を延ばしてくれる程度。きっと十年も持たない。
『グラオザーム』
せめて彼女が平和に、優しく暮らせるところを見つけるまで。それまででいい。彼女は平凡な幸せが似合うだろう。平凡な家庭。そして魔術師グラオザームは、べつに彼女がそんな幸せを手に入れるところなんて見たくない。
のろのろと体を起こし、脱いだ服を着る。片膝を立ててとばりの下りた寝台を眺めた。心の中で彼女の名を呟く。声に出して呼んだことは無かった。今まで一度も。きっとこれからもそう。
フリデリケ……。
なぜ彼女の笑みが心に染みるのか、声が頭にこびりつくのか、伸ばされたわけでもないその手を勝手に取ってしまったのか、何もかもがわからなかった。以前は理由を知りたいと思った。今は? わからない。
でも百万回時を巻き戻せても、グラオザームは彼女の父を殺すし、その手で彼女を攫うだろう。迷いなく。
*・*・*
次の日。熱の下がったフリデリケは「少しだけ」とグラオザームに頼み込み、市場通りに出かけた。色とりどりの露天、香辛料のきいた料理の匂い、鮮やかな服を着た人々。
「お嬢ちゃん、これアンタのかい?」
通行人に当たって落としてしまった小袋を、綺麗な女の人が拾ってくれた。装身具が涼やかに鳴る。お礼を言うと、女の人はふっと微笑んで背を向けた。
フリデリケはその後ろ姿に見とれた後、慌ててグラオザームの背を追いかけた。
彼の隣でまた歩き出したら、声が落ちてきた。
「はぐれても私は待たない」
「はい」
にっこり笑った。
このごろフリデリケは、グラオザームはもし自分が本当にいなくなったら、彼は待たない代わりに捜してくれるのではないかな、と思ったりする。
大事にしまった小袋の中には、この国の金貨が一枚。宿を出るときグラオザームが彼女にくれた。
これで何を買うのかは、まだ決めていない。