「誰か」
夏。
父が死んだ。
朝、母が部屋に行くと冷たくなっていたらしい。
「突然死」というやつだ。
70歳、中々早い死だった。
火葬場で喪服に身を包み涙を流す母の横で、私は一滴も泣くことが出来ないでいた。
私の父は30年前に死んだ。
誰も信じてくれないが、私が10歳の時、亡くなった。
火葬炉に入れられていく父の棺を見ながら思う。
私の父は「誰か」のまま亡くなったのだ。
昔、私が幼かった頃、遊園地と言えば裏野ドリームランドのことだった。
ジェットコースターやメリーゴーラウンドや観覧車。夢の国と言えるほどの派手さはない。それでも子どもの私には充分楽しい場所で。新聞屋さんからチケットをもらっては両親と一緒に行けるお休みの日が本当に楽しみだった。
30年前のあの日もそうだった。
いつものようにチケットをもらって訪れた夏休み。
炎天下の中、はしゃいではしゃいで両親を連れまわして。その結果、母が疲れて気持ち悪くなってしまった。
「ちょっと休ませて……」
そう言いベンチに座り込む母に私は駄々をこねた。
「やだ! 遊ぶの!」
限られている楽しい1日の中で休んでいる時間はその頃の私にはただただもったいないものだった。
困る母に父は私の頭をなでた。
「ねぇ、奈津。じゃあ、あれに行こうか」
そう言って父が指さしたのはミラーハウスだった。
「お母さんはここで座ってて? 僕が一緒に行ってくるから」
父は私にも母にもいつだって優しかった。母の嬉しそうな顔。今でも覚えている。
「さあ、奈津、行こう?」
そう言って繋がれた父の手の握り方も。
ミラーハウスに入るとそこにはたくさんの私と父がいた。
鏡に囲まれた迷路はどれが本当の自分か分からなくなる。
「わー、すごいな」
私の手を引き進んでいって、思いっきり鏡にぶつかる父。
「あれー?」
赤くなったおでこをさすりながら恥ずかしそうに笑う。
「お父さん、かっこ悪い。そっちじゃなくてこっちだよ」
ミラーハウスに入ったのは初めてではなかった。だから、正しい道を見つけるのはとても簡単なことだった。
得意になって手を引く私に父は感心したように言った。
「すごいな、奈津は。どうして分かるんだい?」
「お父さんがホウコウオンチなんだよ」
「お、言ったな? じゃあ、どっちが早くゴールに着けるか競争するか」
「いいよ、私が勝ったらジュース買ってね」
よーいどんで父の手を放して駆け出した。後ろからまたぶつかる音がする。私はおかしくなってくすくす笑った。
結局、一度もどこにもぶつからず、あっという間にゴールに着いた。
振り返る。
父の姿は全く見えない。
少し待ってみるが全然こない。
仕方ない。
私は1つため息を吐くと、ホウコウオンチな父の為、迎えにいってあげることにした。
「お父さーん、どこ?」
呼びながら歩く。
そんなに広くないミラーハウスなのに父は中々見つからなかった。
どこに行ったんだろう。
だんだん不安になりながら色んなところを覗いた。
「あ」
やっと見つけた。
行き止まりの場所。
こちらに背中を向けながら父はじっと鏡を見つめていた。
「もうお父さん、こんなところで何してるの」
駆け寄ると父は振り返った。
途端。
だれ、この人
ぞくりとした寒気と共に浮かんできた言葉。
目の前にいるのは確かに父だった。
顔も格好も
「どうした、奈津」
私を呼ぶその声も全てが父だった。
でも、
「あなた、だれ?」
明らかに彼は父とは違った。
彼は笑っていた。私を見て笑っていた。でもそれは私の大好きな笑顔ではなかった。あの私を見つめて愛しそうに顔をくしゃりと歪める顔とは全然違う。
彼は他人の子どもを見ていた。
「何言ってるんだ、お父さんだろう?」
そう言うと私の手を握りしめ歩き出した。私は抵抗した。
「放して! 本当のお父さんはどこ!」
お父さんは、お父さんは、こんな手の握り方をしない。こんな私を傷つけるような握り方はしない。
彼は全然私のいうことを聞いてくれず、まるで早くこの場から離れたいように、ひきずるように私を出口へと連れて行く。
大人の男性との体格差を初めて思い知らされる。
必死の抵抗むなしく、彼は全ての道筋を知っているように、いとも簡単に出口へと辿り着いた。
私は確かに見た。
ミラーハウスから出る時、彼が嬉しそうに笑ったのを。
その日から私が裏野ドリームランドに来ることはなかった。
なぜなら私の父は休日に遊園地に連れて行ってくれるような良い父親ではなくなってしまったから。
暴言・暴力。以前のような優しさの欠片もない。私と母を見る目はいつだって他人を見るものでしかなく。母は本当の父がくれた今までの優しさに縋り付いて夫婦を続けていた。
まるで人が変わってしまったようだと嘆く周りの声を聞きながら思っていた。当たり前だ、父はあの日に「誰か」になってしまったのだから。ミラーハウスでの出来事を言っても誰も信じてくれなかった。本当のことは私だけが知っていた。
そのうちに奇妙な噂がたくさん流れるようになった裏野ドリームランドは閉園した。
本当の父は二度と戻ってくることはなくなってしまった。
全てを終えて疲れ果てた身体をひきずるように実家に帰ってきた。
母は着替えるとそのまま部屋に入って寝てしまい、私は喪服のまま居間でぼんやりと考えていた。
これから様々な手続きがある。母の憔悴した様子から私がちゃんとしなければいけないだろう。
「ああ、もう……」
これからのことを考えると頭が痛くなり、乱暴に後ろにまとめた髪をおろす。その時、
ピンポーン
チャイムが鳴った。
「はい」
モニターで出ると帽子を目深に被った白いポロシャツの男が立っていた。
「新聞の集金に参りました」
微笑を浮かべ男はそう言った。
「集金?」
こんな日に?
非常識なという言葉が浮ぶ。
だが、怒ることも面倒くさくなり、1つため息を吐くと「分かりました」と財布を持って階段を下りた。
玄関の扉を開けると「4,037円です」と言われ、無言で5000円札を突き出した。口元しか見えない男は「ありがとうございます」と言い、お釣りと共に何かを渡してきた。
「これ、良ければどうぞ」
それは――
「え?」
思わず声が出た。
それは裏野ドリームランドの入園チケットだった。
「ちょっと、これ……」
そう言って顔を上げた時、もうそこに男はいなかった。
私は改めてチケットを見た。
有効期限は今日一日。
すでに閉園した遊園地の入園チケット。
私はきゅっと唇を噛むとそのまま駆け出した。
満月の下。月明かりに照らされて遊園地はそこにあった。
入場ゲートに足を進めるとピンク色のうさぎの着ぐるみが立っていた。
派手な縦縞模様のズボンに黄色い蝶ネクタイ。この遊園地のマスコットキャラクターだっただろうか。どこか汚れた着ぐるみはやけに明るい声で言った。
「裏野ドリームランドへようこそ! チケットを見せてもらえるかな?」
おそるおそるチケットを差し出すとウサギは両手で可愛らしくそれを受け取った。
「楽しんできてね~」
愛らしく手を振って見送られる。
ジェットコースターに観覧車、メリーゴーラウンド。
風雨にさらされてさび付いた乗り物は静かにそこにあった。
外灯は灯っていない。月明かりのみなのに園内は奇妙に明るく、止まった乗り物はやけにはっきりと見えた。
私は一体何をしているのだろう。明らかに今の状態はおかしい。父の葬儀があった日に喪服を着て閉園した遊園地に来ている。でも、このおかしなことに頼るしかない。
だって、会いたいのだ。どうしようもなく、会いたいのだ。
黒のパンプスを鳴らしながら運ぶ足は速くなる。
当時の記憶を呼び起こしながら一生懸命向かう。
「…………」
荒く息を吐きながら見上げる。
真っ暗なミラーハウス。
それはあの日、母が座り込んだベンチの傍に確かにあった。
私はぐっと拳を握ると覚悟を決めたように一歩踏み出した。
踏み出した途端、迎えるように電気は灯った。
たくさんの私。顔も髪も汗でぐしゃぐしゃのみっともない私がたくさんいる。
ふっと笑う。
もっと綺麗な姿で会いたかったな。
足を進める。
あの場所はどこだっただろうか。
ひとつひとつ行き止まりを確かめる。
そうして、
一つの行き止まりで私は立ち止った。
光。
鏡の前でふわふわと淡い光の玉が揺れていた。
手を伸ばすと包み込まれる。
表情も声も肉体が持っていたものは何もない。でも、それは確かに父だった。優しく柔らかい。それは確かに父の手の握り方だった。
「お父さん、ごめんね……。ずっと待ってた?」
葬儀では流れることのなかった涙があふれ出した。
「遅すぎたね……」
名前を呼んでもらうこと。頭をなでてもらうこと。抱き締めてもらうこと。
「誰か」になった父を見ながら何度願ったことだろう。その願いはもう永遠に叶わなくなってしまった。
幼い子供のように泣きじゃくる私に父は困ったようにふわふわと私の周りを飛んだ。そして、何かを思いついたように私の手を引いた。
「お父さん?」
言葉を持たない父はただ私の手を引いた。ひきずるようにではなく、一緒に行こうと。
「お父さん、どこ行くの?」
ぽろぽろと止まらない涙を拭いながら手を引かれて歩く園内。父は一生懸命、私をどこかに連れて行く。
そうして、
「え、」
止まったそこにあったのはメリーゴーラウンドだった。
父はふわりと私の手から離れるとメリーゴーラウンドに向かって飛んでいく。そして、それに触れると――
「わあ……」
感嘆の声が漏れる。
父が触れた途端、メリーゴーラウンドは明かりを灯し廻りだした。それはとても綺麗な光景で。
甦る。ああ、そうだ。これは子どもの頃の私が一番好きな乗り物だった。どんなに泣いていても、この乗り物に乗るとあっという間に私は笑った。
父は「さあ、乗って」と私の手を引く。私は笑って引き止めた。
「恥ずかしいよ、私、もうお父さんと同い年だよ」
もう40歳になる。おばさんの乗る乗り物ではないだろう。だから、
「一緒に見ているだけでいいよ」
父は少し不満そうだったが、私の横に並んでくれた。
くるくると廻る誰もいないメリーゴーラウンド。上下に揺れる白馬に馬車。いつも乗る側だったから外から見るのは初めてだった。
思い出していた。どうしてこの乗り物が一番好きだったのか。好きだったのは乗り物そのものではなく、そこから見える景色だった。白馬に乗って見えるのは愛しそうに手を振り返してくれる父と母の姿で。私がどんな楽しい乗り物よりも好きだったのはその景色だったのだ。
メリーゴーラウンドはゆっくりと速度を落とし、やがて止まった。灯っていた明かりは嘘みたいに消えてしまう。並んで見ていた父の光も弱まっていた。
お別れの時が来たのかもしれない。
私は光を両手で包み込んだ。
「たくさん愛してくれてありがとう……」
父は「こちらこそ」と言うように光を揺らし、そして、消えた。
それから、月日が経った。
母はまだ完全にではないが、段々と元気を取り戻し始めている。何でもあの日の夜、父が夢に出てきてくれたそうだ。申し訳なさそうに笑って、母を抱きしめてくれたのだと言う。久しぶりにあの頃のお父さんに会えたと母は幸せそうに語っていた。私は「そうか」と思った。そうか、あの後、父は母に会いに行ったのか。
閉園した裏野ドリームランドはやはり普通の遊園地ではなく、奇妙な噂をたくさん耳にする。ドリームキャッスルの隠れた地下室にある拷問部屋。観覧車から聴こえてくる小さな「出して……」と言う声。そのどれも聞くとぞっとするものだ。
でも、
「ねえ、先輩、聞きました? 裏野ドリームランドの噂」
会社の昼休み。休憩室でお弁当を開くと後輩が声をひそめて話しかけてきた。
「噂って?」
「あそこのメリーゴーラウンド、勝手に廻っているのを見た人がいるんですって。誰も乗っていないのに。明かりが灯っているのはとても綺麗だったらしいですけど、怖いですよね〜」
「……そうだね」
私は小さく笑った。
私には一つだけ怖くない噂がある。
メリーゴーラウンドの噂だけは私は全然怖くないのだ。