第八夜*複雑な乙女心*
サンタ教習所。
全ての罪人らが昼食を終えた現在、いよいよ午後の部が始まろうとしていた。プレゼント箱詰めから学課教習、実技演習の次に基礎体力特訓へ流れ進むカリキュラムに則り、サンタ姿の容疑者たちもそれぞれの担当場所へと集まる。午前の部に四課中一課しか行われなかったことは恐らく、夜慣れしてしまった罪人たちの考慮もあるのだろう。実際に本番のクリスマス当日も、活動時間は日を跨ぐ深夜のはずだ。嫌でも身体が夜型に維持されるよう組まれているに違いない。
とはいえ、午後の部は残り三課。また残業というフレーズを醸し出すように、ラストには本日送られたプレゼント箱詰めの残りを強制されている。課程バランスには多少の乱れが窺え、罪人たちの不満もいつ破裂するかが主要懸念材料である。
――キーンコーンカーンコーン♪
ついに午後の部最初の業務チャイムが、サンタ教習所の冷えた空気を振動させる。
園越岳斗率いる二十四班は今回、広々しい教室に訪れていた。前方には教卓と黒板が聳える一方で、五人編成されたグループ一同が横並びできるほど長い机に、折り畳み式事務椅子に着席している。
端から沫天望、岳斗、路端土芽依、流道留文、輿野夜聖で並んだ横一列は最後尾席に配置されたが、そこから見える景観は、大学の授業、若しくは岳斗も一度だけ行ってすぐ辞めた、予備校の教室状況とよく似ている。一方で自称世話役のイブは岳斗たちの背後で起立し、試験監督の如く腕組みを放っていた。
「……あのさぁイブ?」
「どうしたの岳斗? 借金でも抱えてんの? 今ならきっと、過払い金あるかもよ~!!」
「はいはい、“あの債務”ね……じゃなくて! 学課って、何やるの? クリスマスの歴史の勉強とか?」
「実技演習のための授業らしいよ。クリスマス当日の侵入方法とか、セキュリティからの逃れ方とか、ピッキングとか」
「へぇ~」
午前の部に活動していた箱詰め作業の担当者の一人――キューピットにも丁寧ながら伝えられ、この場に赴いたのだ。しかし、何を教育されるのか、詳しい内容までは聞かされていない。もちろん今イブから聞いた内容さえ、岳斗にとっては初耳以外何物でもない。ちなみにもう一人の担当者――コメットは、共に“ケイドロ”で遊んでいたイブに逮捕され泣いていたが。
――ガラガラ……。
すると教室扉が開けられ、今回の担当者が登場する。罪人たちの尖り睨んだ視線先には、やはり二人組のグラサンスーツコンビが現れ、岳斗にとってもまだ会ったことがない人物たちだ。先を歩む一人は真面目な黒短髪で、背丈は岳斗ほどないが、キリッとした太眉が特徴的な勤勉男性に思える。またもう一方は雰囲気が大きく異なり、カールを効かせた紫長髪を纏う、望とよく似た長身女性だった。両者からは威厳ある雰囲気を感じてしまうが、女性の方に関しては不機嫌な様子まで捉えられるのが本音だ。
二人の登場で静まり返った空気が走る室内。すると背の低い短髪男性がまず、教卓の前で張り上げる。
「――善きかな、罪人どもよ!! 拙者の名はダッシャーでござる! 拙者が敬う姉御殿より、クリスマス当日における学課を進め奉る! 姉御殿の御話を聞き漏らすことは御法度だと、肝に命じて受講するように!!」
『またキャラの濃いヤツが出てきたなぁ~……』
ダッシャーと名乗った半侍男に、岳斗は同じ男として引け目を向けていた。話を聞いた限りでは、彼は恐らくスーツ女性の舎弟的立場なのだろう。従順たる真っ直ぐな突進性が所見でも伝わってくるが、女性の下僕だとも言えるダッシャーには情けなさまで感じてならない。男とは、女を幸せにするために、上に立つ存在だと思っているだけに。
「姉御殿!! よろしく申し上げるでござる!!」
「はぁ~……やっぱ、やんなきゃなのね~……はぁ~……」
すると、ダッシャーは猛スピードで教室後ろへと駆け出し、イブの傍まで走り移る。
「こんにちはダッシャー!! アタシの名はイブでござる~!! ニンニン!! ドロ~ン!!」
「たわけ小娘! 拙者は忍者ではないでござるよ! 言うならば、詰まらぬ物を斬ってしまった方でござる!!」
「おぉ~!! ダッシャー、ノリがいいねぇ~。ロリコンドラフト会議、一位指名で選んであげる! なんなら逆指名でもいいよ!!」
「ほぅ。それは趣深いものでござるな」
背後のつまらない漫才は無視した方が良さそうだ。
ダッシャーに代わって教卓には、気怠さを全面に表した女性が君臨していた。身に余るほど大きなため息を続ける彼女は、相当気が乗っていないことが随所に見て取れるが、外したグラサンより見えた細い瞳と紅口を開ける。
「――んじゃあ……とりあえず自己紹介。アタイはヴィクセン。別にテストにはでないから、覚えなくていいわよ~……はぁ~」
『出たよ……自分のことアタイって言うヤツ……』
大抵私利私欲のために口ずさむ、女性特有の一人称だ。ヴィクセンと名乗った彼女に、下僕が着いていることも自然とわかる。もしやヤクザの御方にも見えてくるほど、荒々しい性格が覗けてならない。
決して岳斗のタイプではないヴィクセンだが、一応今回の学課教習担当者だ。変に機嫌を損なわせれば、後々面倒事にも成りかねない。すぐ後ろには配下のダッシャーだって立ち構えているため、途中退出などの下手な真似はできなそうだ。
「……んじゃ早速、当日の侵入方法及び工夫について、話していくわ~……はぁ~」
罪人参加者たちへ背を向けたヴィクセンは黒板に、白チョークでモデルハウスを書き記し始める。
学課で繰り広げられる教えは、空き巣を繰り返してきた岳斗にも少しばかり興味を惹く内容かもしれない。確かに侵入は何度も試みてきたものの、全て自己流で、心掛けた工夫点など思い当たらない。この教習所を脱走した後の、空き巣の足しになる可能性も否めないが。
『――でも、ちょっと脱走しにくくなっちまったなぁ』
まだ脱走の心構えを捨てた訳ではない。しかし、隣に座る芽依に目と微笑みを向けながら、岳斗はそう思っていた。先ほどの昼食中に自分自身の背景を打ち明けたことで、少しかもしれぬが心を寄せてくれた気がする。留文も含めた彼女からの応援、また初めて笑みを公にされたことが、何よりの証拠だ。
芽依とはまだ目を合わせてもらえない時間が継続するが、岳斗の心の扉は大きく開けていた。中学生ほどの彼女がなぜ空き巣に走ったのかという疑問、何よりも学生に違いない少女の心を護れればと、ただ静かに待つことにした。
改めて背筋を伸ばした姿勢で構えた岳斗は眉を立て、真剣な強い瞳でヴィクセンの後ろ姿を睨む。モデルハウスには玄関や二回の窓、縁側の襖まで細かく描かれ、優先順位を示す数字まで浮かんでいた。
「まずは、鍵を解く方法。これはどの場所でも使えるから、聞いてねぇ~……」
「…………ん?」
今度は窓や扉の構図を現したヴィクセンだが、突如手が停止していたことに、岳斗の眉間に皺が浮き立つ。クリスマス当日、芽依や留文の役に立つためにも内容を早く知りたいあまり、次第に前屈みへ移ろいでいく。
『なに勿体振ってんだ? 早く教えてほしいのに』
優等生のように立ち上がり、再稼働の一声を鳴らそうとした岳斗。が、ヴィクセンの綺麗なネイルケアに挟まれたチョークは突如落下し、女性教官らしからぬ舌打ちが鳴り轟く。
「――ア゛アァァもうやってらんないよ!! なんでアタイらは毎年こうなる訳ェ!?」
「へい……?」
さっきまでの落ち着いた状態と一変したヴィクセンに、岳斗の口がポカンと開いてしまう。振り向かれた表情にも怒りの皺が深く刻まれていることから、どうも嫌な予感がした。
「マジ意味わかんないし~!! ちょっとみんな聞いてよ~!! だいたいみんなのクリスマスなのに、なんでアタイらが子どものために働かなきゃいけない訳ェ!? こんなんじゃ一生クリスマスラブがてきないじゃないの!! 別に子どもがウザいって意味じゃないけどさ~、ボスにはアタイ含めて八匹も僕がいるのよ!? それにみんなだってこんなにたくさんも!! 人件費だって煩い世の中なのに、雇い過ぎだと思わない!? アタイだけいなくても充分成り立つのにさ~!」
『煩いのは間違いなく、アンタだよ……』
開いた口が弧を描くよう変わった岳斗は呆れに呆れ、姿勢まで猫背へと曲がっていく。
ヴィクセンの言葉は文字通り、毎年楽しいクリスマスを過ごせない不満が溢れた、乙女の愚痴そのものだ。どうやらスーツ姿な彼女にも、恋愛興味はあるらしい。
「この前だってさ、あともう少しで付き合えるってとこまでいったのよ! でもクリスマスは毎年いっしょに過ごせないって言っただけでフラれてさ~……ホント酷い話よね~!! 別にアタイだってこの仕事、やりたくてやってる訳じゃないのにさ~! それにこんなのずっとやってたら、アタイいつまでも一匹じゃない!? 正にただの社畜でしょ!! それともなに!? 恋愛したいなら同僚の中で相手を選べってこと!? ジョォォォォダンじゃないわよ!! アタイのタイプは一人もいないし、所詮は去勢された雄どもよ!? そんな相手と結ばれたら、凛々しい乙女の名が廃るばかりでしょ!! ぶっちゃけありえないっつぅの!! てかそもそもさ、アタイをフッたアイツもアイツよ!! 別にクリスマス一日ぐらい我慢したって良くない!? クリスマス限定のイルミネーションを楽しみたいとか言い始めて、他の雌のところに行っちゃったし……これだからロマンチストは面倒なのよ~! アタイとしては夜景とか雰囲気とかよりも、高級なプレゼントがほしいっていう気持ちをわかってほしいわ!! あとさ!! アタイずっと前から思ってたんだけど、どうして毎年リア充はあんなに人前でチュッチュ……」
『嘘だろ? もう授業、終わっちゃったの……?』
そう思ってしまうほど、ヴィクセンの愚痴話に停滞予報が観測されなかった。相手に発言の間も与えない重ね重ねの旋律は、ただ自身が無理強いに奏でるメロディーを聴かせるだけで、口喧しさのみ心に残させていく。
やがて罪人たちの頭は熟した稲穂の如く垂れ始め、ついにはヴィクセンと同性である隣の望まで机上に平伏していた。どうやら女性同士でも、一方的な長話はよろしくないそうだ。
『てか、もう一人の監督者は何やってんだよ? いいかげん止めてくれって……』
早く軌道修整していただきたいと、岳斗は身を捻り、背後のもう一人の担当者へ不満目を向かす。するとイブと共に視界に入ったダッシャーの表情を目にしたことで、諦めて正面に戻してしまう。
「へぇ~なるほど。これが乙女道ってやつなのかぁ。勉強になるねぇ」
「うぅ~姉御殿~。あんな切ない想いで毎年過ごしているとは……くぅ~! やっぱり拙者は、一生姉御殿を尊敬しついていくでござる!!」
「勘弁してくれよ……」
イブの興味深い頷きの隣で、男泣きするダッシャーに向けた心の声を具現化した岳斗。いっこうに止まらないヴィクセンの愚痴にも耳を塞ぎ、望と同じく机上で居眠り授業に参加した。
***
引き続き、サンタ教習所。
岳斗たち二十四班が出向いた先は、初となる屋外だ。今までドーム内ばかりで過ごしてきたため、太陽が与える影を伸ばすのは久しぶりである。まだ脱走準備に必要や衣服を用意できていないものの、待ちに待った外の世界他ならない。
最後にダッシャーから告げられた通り、階段を登って扉を開け、ついに地下から師走の冷えた冬空の下に踏み入れた。すると目前に拡がる景色は意外なもので、つい無表情のまま立ち竦んでしまう。
『大草原……マジでここ、どこなの……?』
乾燥した空気で澄み渡った、雲一つ見せない夕暮れの空。そんなスポットライトを浴びる舞台は、辺り広々と芝生の絨毯が敷かれている。所々には先日降ったであろう融けかけた白雪と、これから行われる実技演習の模型家が数軒あるだけで、それ以外情報が入ってこない無人地帯極。いくら田舎に近い笹浦市とはいえ、正直別世界としか映らなかった。
――「おっ! グァ~クトじゃねぇかぁ!」
「あ、ブリッツェン。それに確か、ドンダーも……」
「あっ! ドンダーだぁ!! あのねっ! イブだよぉ!!」
ず太い男声にイブと共に振り向いた岳斗は、今回の担当者である二人組――茶髪のブリッツェンとスキンヘッドなドンダーの姿を捉えた。この二人とは教習所に誘拐されてからすぐ出会った身で、特にブリッツェンに関しては誘拐犯及び変質者のイメージが強い。
「よぉ~岳斗。久しぶりだなぁ」
「……数時間前に会ったよな?」
「へっ。時間が流れる間隔っつうのは、生き物それぞれで違うんだよ」
「……はぁ?」
「ねぇねぇねぇドンダー!! 今日も頭ツルツルだねぇ! ナデナデしてもいい?」
「……」
「もぉ~照れ隠ししちゃってぇ~。実はドンダーもロリコンなんでしょ~? ウケる~」
「……」
岳斗は得意気なブリッツェンと、イブは人見知りなドンダーと絡む騒がしい時間が少し流れたが、すぐに担当者の二人が罪人たち全員へと、何やら軽いリュックサックを渡し始める。大きさは雑誌のオマケで着いてきそうな安価の素質で、あまり巨大でないこと窺える贈り物だ。しかし、どうも中には何かが数個混入されているのを感じ、早速チャックを開口させる。
「……ロープに手袋。それにこれって、無線機?」
何かにひっかけて登ることができる碇付きロープ、大工がよく使用しそうな滑り止め手袋、そして手のひらサイズの薄型トランシーバーの一式が目に映った。二十四班の数字シールもそれぞれの道具に貼られ、付け加えるようにブリッツェンが皆に頷く。
「今日から始まる実技演習中、もちろん本番でも、是非こいつらを駆使してくれよ。俺様とドンダーからの、クリスマスプレゼントだぜ。ちなみにトランシーバーは、同じグループ同士しか繋がらねぇよう設定してあるから、別の班の連中とイチャイチャは期待すんなよ」
要は教習所から脱走するための道具ではなく、クリスマス当日にも使用するための贈り物だ。ブリッツェンをあまり信用していない岳斗だが、実用道具ばかりが詰まっていることには正直驚ろかされた。彼のことだから、もっと怪しい非日常的な物を与えられるのではと思っていたが、これらは空き巣犯にとっても必需品だ。
『これなら、今まで以上に楽に侵入できるかも!』
空き巣犯とはいえ、今まで素手と足のみでやり過ごしてきた岳斗。滑って何度も落ちそうになった恐怖体験は、この期に及んでも脳裏に焼き付いている。一切道具に頼ることなく自力で行った者としては、渡された道具に思わずはにかんでしまう。
「さぁオメェラ!! 今から三限目、実技演習を行うぞゴルァア!! 学課でも学んだことを踏まえながらやってくれよ!!」
するとブリッツェンの、空をかち割らんばかりの轟声のもと、実技演習が開始される。内容は言うまでもなく、モデルハウスの玄関鍵の解除、壁を伝って二階窓へのクライミングなど、いかに静かで正確に侵入できるかを試すものだ。
空き巣を繰り返し行ってきた岳斗にとっては専門分野とも称すべき授業内容で、手袋を着用してロープを手に持ち、軽いリュックサックを背負うことで張り切る気持ちが腕捲りを促す。
『よしっ! 久しぶりにやってやろう!』
一方で他のグループメンバーを窺うと、聖は単独で既に二階窓への侵入、また芽依は留文の後ろを着いて玄関鍵のピッキングを試みていた。相変わらずの一匹狼と、仲が一方的に良いカップルだと対に窺える。
専門者の自分も動き出そうと、まず二階ベランダへの侵入を決めた岳斗は碇付きロープを手首で回し、弧を描くようにベランダ柵へと放る。
――ピリッ……。
「イッテ……。でも、上手く引っかかったみたいだな」
投げた瞬間に右肘に高電流が流れた岳斗だが、碇で引っ掛けたロープを何回か引っ張る。外れる感覚がなく、見事に一発で柵に掛けることに成功したようだ。ロープの使用が初めてにしては、我ながら上手いスタートダッシュを切ることができた。ただ、久々に投げるという動作を行った右肘の痛みは、なかなか収まらず叫び続ける。
『痛いとか言ってられない。昔からの付き合いだろ、こんなの……』
早速壁に足裏を着けた岳斗はレスキュー隊の如く、直角に登っていこうと腕の血管を浮き立たせて進もうとした。しかし、ふと視界に入った一人の金髪女性像が気になり、反射的に首が捻られる。
『沫天……もしかして、何したらいいのかわからないのか……?』
それは、手袋でロープを握りながら俯く、望の儚げな立ち姿だった。一歩も動こうと示さず立ち竦み、何をすべきか想像できない戸惑いに駆られている様子だ。まだ彼女の犯罪内容は尋ねていないが、空き巣でないことが予測できる。
「はぁ~……仕方ねぇか」
望の孤独な姿を見ていられなくなった岳斗はロープを放し、諦めたため息と共に地上へ着地する。
「なぁ沫天?」
「……なに?」
受け入れを示さない尖る瞳を向けられたが、岳斗は臆することなく、望の隣でロープを奪い取る。
「て、テメェ何すんだよ!?」
「俺が教えるよ。まずはロープを掛けるところからだ」
「ハァア?」
彼女が空き巣未経験者ならば、経験者である自分がレクチャーすれば良い。そんな考えを胸に、岳斗は厳しい視線を当てられつつも演じる。
「まずはロープを、縄跳びみたいに回すんだ。ある程度勢いがついたら、碇をベランダに投げるイメージで……ほいっと」
――ガシャン!
「よしっ! 成功」
「……」
再び碇つきロープをベランダに引っかけた岳斗は、口が閉じた望に手綱を渡し、共に二階ベランダへ登ることにした。もちろんスカートサンタの望が先ではなく、男性サンタ衣装の岳斗が先に壁へ足裏を着け、あっという間にクライミングを終える。
「ほら、沫天もやってみな。こっから綱引きみたいに腕使って、足も固定しながら、姿勢を低くして登るんだ」
「……」
不貞腐れた様子は否めないが、岳斗は望の登頂を待ち望んだ。華奢な彼女には大きな力仕事だが、意外にも一歩一歩確かに登れている。両足も壁の出っ張り部分へ掛けながら緩やかに進み、やがて一階における高窓を越えた。
「クッ……」
「ガンバれ! あともう少しだから!」
「チッ、うっせぇな……」
滑り掛けた望は、反抗精神を声と顔色で明確にしていた。しかし、岳斗は声援を立て続けに鳴らし、前向きな姿勢を止めず貫く。それは高校時代、硬式野球部での活動を思い出してしまうほどに愉しみを覚え、次第に強気な微笑みまで浮かんでくる。
「あともうちょいだ!! 諦めんな! ラスパだぞ~!!」
「ウッ……クッ」
ラストスパートの意を込めて、選手への鼓舞言葉を振り撒く岳斗。彼女の片足は二階ベランダの壁に及び、身を曲げて手を差し伸ばせば掴めるほど近距離だ。しかし、望の険しい表情が鮮明になりつつあり、反抗精神というよりも辛さを表す眉間の皺が刻まれていた。細い両腕もプルプルと痙攣を顕にし、力尽きようとしていた。
――ズルッ……。
「――ッ!!」
ゴールに一歩踏み込んだ望は片足を滑らせ、全身が壁に激突する。もちろんそれだけに止まらず、衝撃のせいで腕の力まで解かれ落下の一瞬を辿ろうとしていた。
「――沫天ァ!!」
――パシッ……。
――ピリッ……。
「イッ!……」
「あ、おい!」
しかし、ロープを放し空気だけを掴む望は落ちなかった。なぜなら彼女の細い左手首が、苦い顔色に変えた岳斗に右掌に捕らえられたからだ。
度重なる右肘に痛みが襲うが、絶対に放さないと言わんばかりの強い握力で支え、部活で鍛えた腕力と背筋で持ち上げる。
「よいこらしょっと~!」
「て、テメェ……」
岳斗の強靭克つ強引的な引っ張り劇もあって、望を二階ベランダ内へ身を引き込むことに成功した。見た目通り軽々しい彼女だっただけに、大した筋肉も使わずに済んだのも幸いだ。
「ふぅ~。ギリギリ成功だな!」
「な、なんで、助けたりなんか……」
「はぁ……?」
目の尖りが僅かに残る望の質問には、意気込んでいた岳斗も呆気に取られてしまう。まるで助けることが間違いだと言われているようで、不信感を表した視線の逸らしまで受けてしまうが。
「……だって俺たちはさ、五人一組のチームで……」
「……いいから! そういうのいいから、もうウチを助けたりとか、二度とすんな……」
「ま、沫天……」
岳斗の言葉尻を、弱々しいながら背中で語り被せた望。するとせっかく登った二階ベランダから地上へ飛び降り、痛んだ男が助けた出来事を帳消しする反抗的行動に及んだ。
『沫天……どうして……』
そっと右肘を押さえながら眺める岳斗には、望から顔色を窺われる目配せが何度か送られた。しかし、はっきりとした意思や言葉まで返されず、再び孤独の世界へ足を踏み入れてしまう。
『どうして、そこまで距離を置こうとするんだよ……?』
地上から二階ベランダまでの長さなど、四メートル程度の近い距離だ。実際に空き巣を繰り返してきた者としては、道具も使わず数秒で登れるほど容易い標高である。
しかし、今二階ベランダから見下ろす岳斗は、地上で座り休む望と多大なる距離を感じてならなかった。それは可視的な距離でないことは、もはや言うまでもない。人は誰しも、心という抽象的概念を宿しているのだから。
『――やっぱり沫天も、心を寄せてはくれないのか……』
その範疇の中でより複雑な一種こそ、世間では乙女心と呼ばれている。それは無論、男の岳斗には毛頭察しがつかないほど、入り乱れた胸の内だった。