狂った時計
「はあ、はあ……」
りまが戻ってきた。息が上がっている。
「大丈夫か?」
手を差し出すと、掌まで移動した途端、倒れてしまった。
ひとまず、事務所から離れて、車に乗り込んだ。
フルマラソンでもしてきたのかと言いたくなる程、肩で息をしている。
「省吾……ポケットに入れて。落としていいから」
「わ、わかった」
言われた通り、ポケットを広げ、掌を傾けて、りまを中に落とした。
「そのまま聞いて。実は――」
息が整った彼女は、事務所内で見たことを細かく教えてくれた。大麻、猫、そして、時計の謎。
その上で、彼女は俺に指示を出した。
「朝になったら、被害者の職場に向かって」
「……わかった」
了承したが、色々、驚きだった。
事務所の中の様子もそうだが、何より、りまのことだ。恐怖心が無いわけじゃないのはわかる。でも、自分を丸のみにしてもおかしくない巨大な猫を見て、危機を脱した後とはいえ、その事を話せるのが、俺はとても信じられなかった。おまけに、それを見た上で推理をしている……肝が、座っている。経験値が違うということだろうか。
りま、君は、どれだけの修羅場を潜り抜けてきたんだ?
……そう訊きたかったが、とてもそうは訊けなかった。あまりにも、軽率すぎる。
俺は帰宅した後も、ずっとその事を考えていた。
小人である彼女のことを、俺はあまりにも軽く考えすぎていたのかもしれない――。
翌朝、俺は自宅を出て、真っ直ぐ被害者の職場へ、車を走らせた。
なんの変哲もない、普通のオフィス。ロビーの受け付けへ向かい、目的の人物を呼び出してもらった。
五分程待つと、その人物が現れた。
「どうも……昨日も警察の方が来てましたけど、まだ何か?」
訝しげそうにするのは、りまと同じくらいの歳の女性。彼女が、被害者と付き合っていたという元恋人の、大宅ゆかりさんだ。
「もう少しだけ、お話を伺いたくて」
「はあ、わかりました」
ロビーの隅の、パーティションで囲われた席へ移動し、昨日、仲西が聞いたようなことを訊いた。カメラを持っていた理由、清水さんとの関係、被害者との関係……全て、俺達が仲西から聞いた通りの回答だった。
「すみません、ありがとうございました」
立ち上がり頭を下げると、内ポケットからボールペンが溢れ落ちた。
大宅さんの足元へ転がったそれを、彼女は綺麗に膝を曲げて屈み、つまみ上げ、俺に手渡した。
「ありがとうございます」
礼を返して、もう一度、内ポケットに入れた。
「では、これで失礼します」
オフィスを出て、車に乗り、胸ポケットを覗いた。
「省吾、なかなか上手かったよ」
りまは、俺を見上げて、微笑んでいる。
「でも、このやり方……課長にバレたら大変なことになるな」
「大丈夫だよ。さあ、それ早く持っていって」
「ああ」
内ポケットから、先程落としたボールペンを取りだし、ハンカチでそっと包んで、発車した。
目的を済ませた俺は、仲西に電話を入れ、再度公園へ戻った。
しばらく待っていると、仲西が清水さんと大宅さんを連れて現れた。
「先輩、おはようございます。言われた通り、連れてきましたけど……」
ちらりと、後ろの二人を見た。
「何なんすか? こんなところに呼び出して……忙しいんすけど」
「私も、そこの刑事さんに言われて、わざわざ仕事抜け出して来たんですけど……そんなに重要な用件なんですか?」
「ええ、まあ……篠田さんを殺害した犯人が、わかったんです」
「え……」
顔を青くしたのは、大宅さんだった。こういうものは、先に言ってしまおう。
「篠田さんを殺害したのは、清水さん、あなたですね」
目を見て言うと、清水さんはため息をついた。
「はあ……刑事さん、俺は、その篠田って奴が殺された時、家のカメラに映ってたんすよ? あんたも見たでしょ?」
仲西に訊いた。彼は「は、はい、そうですね……」と答え、不安そうに俺を見た。
「殺された時、というのは、何時頃ですか?」
「三時っすよ。デジカメの写真に、そこの事務所の時計が写り込んでたって、言ってたっすよね?」
「確かに、撮られた時刻も、写真の中の時計の時間も、同じ三時でした」
ほら見ろ、と、清水さんが得意気な表情をした。
「ですが、その事務所の時計、犯行当時にずれていて、かつ、デジカメの時計が犯行当時に意図的にずらされていたとしたら、どうですか?」
「意図的に、ずらされていた?」
首をかしげた。
「デジカメの時計は、犯行当時には、ずれていた。それも、事務所内の時計と、ほぼ同じになるように、ずらされていたんです」
仲西が目を見開いた。
「え、先輩、それは少し無理がありませんか? それをするには、事務所の時計が、犯行当時には確実にずれていないといけないですし、なおかつ、時計が何分ずれているか把握して、被害者のデジカメを、それに合わせてずらせる立場にいる人物がいないと……あっ」
何かに気付いたようだ。
「そう。清水さんはこの公園の近辺に住んでいるから、時計がいつ、何分ずれているか、把握することができる。でも、被害者のデジカメに触れる機会はない。その機会があるのは、大宅さんだ。――あなたは、共犯者、ですね?」
「ちょっと、待ってください! 何で、私まで!?」
焦った顔で吠える。
「デジカメの設定ボタンから、篠田さんと大宅さんの指紋が出たんです。あなたがあのカメラに触ったのは、明らかです」
今朝のボールペンを思い出しながら、答えた。
「そ、それは……」
言い逃れられるかと思ったが、彼女は以外にも、黙ってしまった。
「刑事さん、ちょっといいすか」
清水さんが言った。
「俺は確かに、この公園の近くには住んでるっす。でも、あの時計が、犯行当時、何分ずれていたかなんて、わからないっすよ。そもそも、俺は、昨日は公園に行ってないんだから、わかりようがないっす」
「……清水さんはそもそも、どのようにして時計がずれてしまっていたか、わかりますか?」
「知らないっすよ、壊れてるんじゃないんすか?」
「いいえ、違います。あの事務所には、猫がいます。その猫が、近くにあった棚の上から前足を伸ばして、時計の針をいじったため、時間が変わったんです。あの時計と棚は、絶妙な位置にありますから、二時や一時等の、右側の半分より上に針が来るような時間の時、その針をいじって、水平にしてしまうんです。とはいえ、それだと長針もいじってしまいますから……清水さん、あなたは、あの事務所に入ったことがありますね?」
「え、何言ってるんすか、いきなり。あの管理人が、入れてくれるわけないでしょ」
「何故、入れてくれないと?」
「だって、あそこには――」
そこまで言って、口をつぐんだ。
「あそこには、何ですか?」
「いや、その……」
目を逸らした。
「あの事務所に、何があるか、知っているんですね?」
「し、知らないっす!」
「本当ですか? 今に捜査が始まれば、明らかになるとは思いますが」
「……」
黙ってしまった。
もう一押し、と、一歩前へ出た、その時。
「茂ちゃん、もう止めようよ」
大宅さんがそう言った。
「刑事さん、仰る通り、私と彼で、あの人を殺しました」
「ちょっ、お前、何言ってんだよ!?」
今度は清水さんが吠えた。
「認めるんですね?」
「……はい」
大宅さんは、諦めたように息をついた。




