「珠玉の女」
あべせつ(起) → 観月(承) → タカノケイ(転) → 甲姫(結)
の順に執筆しました。
参列者が三人だけの淋しい母の法事であった。読経が済むとおぼうさん僧侶も張り合いがないのか、早々に説教を終えて引き上げてしまい、あとは私と兄夫婦が狭い座敷でひざを突き合わせることとなってしまった。
きまずい沈黙が立ち込めるのを気遣ったのか、台所へ立った兄嫁の和子がお茶とお菓子を運んできて、しきりに私に勧めてくれた。
「珠子さん、お疲れさまでした。まあ甘いものでも食べてゆっくりしてちょうだい。今夜は夕飯も一緒に食べていってくれるのでしょう」
兄の真一の顔をちらりと見たが、相も変らぬ仏頂面のままでにこりともしない。
「和子姉さん、すみません。今日はちょっと都合が。またの機会にでも」
「あらまあ、そうなの。めったに会えないのだから、たまにはゆっくりしていってくれたらいいのに」
心底残念そうに言ってくれる気のいい義姉には申し訳ないが、ひと回りも年の離れたこの実の兄が昔から私は大の苦手であったのだ。物心ついたときから真一はなぜか私をうとんじ、兄らしいことなど何一つしてくれた覚えがなかった。
もう帰りますと立ち上がった私を和子が呼び止めた。
「あ、待って、珠子ちゃん。忌明けも済んだので形見分けをしたいと思っているのよ。何かお母様の思い出のものはないのかしら」
そう言われて珠子にふと遠い記憶がよみがえってきた。
珠子がまだ十代の頃、夜中ふと目覚めるととなりの布団で寝ているはずの母の姿がなく、隣室の灯りがふすまの隙間から洩れていた。
こんな夜更けにいったい何を。
いぶかしく思い、その隙間から覗くと、母が和箪笥の引き出しを開けて何かをじっと見ていた。元々美人であったその時の母の横顔は壮絶なまでに美しく、それがために何かこの世のものではないものに見えて声をかけそびれた。そっと布団に戻り、そのまま目を閉じた。いつの間にか寝たのだろう。朝起きると母はいつもの母であり、あれは夢だったのだろうかと不可思議な思いが残った。
母はいったい何を見ていたのだろう。
それから数日後、母の留守を待ってあの引き出しを開けてみた。畳紙に包まれたよそ行きの着物の裾がこんもりと盛り上がっている。そこに隠されているものを取り出してみると紺色の繻子を貼った指輪の小函だった。
(なぜここに一つだけ)
母の宝石箱は鏡台の上にあり、外出の時はそこから指輪やかんざしを取り出していた。
だから一つだけ別にしているこの小函はきっと特別なものにちがいない。ドキドキしながら箱を開けると中には銀の縁取りのある黒い真珠の指輪が入っていた。
あれを形見にもらいたい。珠子は痛切にそう思った。
「和箪笥にしまってある、黒真珠の指輪が欲しいわ」
とっさに、そう言っていた。
後ろを振り返ると、義姉の和子はうなずいていたが、兄の真一は一瞬驚いたような顔を見せた後、眉間にしわを寄せて私を睨んでいる。
「黒真珠の指輪ね……」
和子が掌を頬にあてて考えている。
「お義母さん、黒真珠なんて持ってらしたかしら。ねえ、あな……た?」
振り返ってたずねた和子も真一の様子に驚いたのか、一瞬息をのんだ。
「黒真珠の指輪、だと?」
かすれるほどに低い声だった。珠子も、何か触れてはいけないことだったのかとたじろぎはしたが、ここで後に引くことはできない。
「そうよ。紺色の指輪用の小函に入っていて銀の縁取りのある指輪よ」
胸をはり、はっきりと言い切った。
「そんなものは、家にはない」
兄の言いように、私はカチンときた。
「あるわよ!」
帰ろうとしていた体を反転させて、私は母の部屋へと入る。義姉と兄が後ろからついてくる気配がして、私は真っ直ぐ和箪笥へと手を伸ばした。あの時の記憶をたどり、引き出しの中から繻子を貼った指輪の小函を取り出す。パクっと開いた小函の中にから多少古めかしいデザインの、大ぶりな黒真珠の指輪が顔を出した。
「ほら、あったでしょ?」
意気揚々と振り返った私は、だが兄の顔を見た途端二の句が継げなくなった。
眉間のしわはますます深くなり、顔には朱がさしていた。握りしめられたこぶしは小刻みに震えている。
「にい……さん?」
兄の形相にすっかり毒気を抜かれて、なんとも気の入らない声が出てしまった。けれども私のあまりに素の問いかけに兄は逆に我に返ったようで、すっと顔をそむけると何も言わずに部屋を出て行く。
取り残された私と義姉は、首をひねりながら顔を見合わせた。
その後すぐに家を辞した私を、和子は駅まで送ると言い張り、何故か駅ビル内の喫茶店で向かい合わせでコーヒーを飲んでいた。
「普段はあんなに意固地な人じゃないんですけどねぇ」
義姉は言葉を探すようにゆっくりと話し出した。私は、ふっとため息をつく。
「私には昔っからあんな感じ。でも、指輪を見たときの反応には驚いたけど……」
結局、強引に指輪を持ち出すこともできず、指輪は兄の家に置いたまま帰ってきた。
和子は、コーヒーカップを両手で包んで中を覗き込むようにうつむいていたが、思いついたように顔をあげた。
「私も、もうずっと気になっていたんです。真一さんのお義母さんと珠子ちゃんに対する態度が。でも、なんとなく聞けなくて。だから私、今回のことで聞いてみようと思うんです」
「え?」
和子はうんうんと頷きながら、多少早口になって話した。
「きっと、指輪は珠子ちゃんに渡るようにするわ。だから、私に任せてもらってもいいかしら?」
そう言うと、和子はすこしはにかむように笑った。
「触れちゃいけないような気がしていたんだけど、家族ですものね。ちょっと、頑張ってみようと思うわ」
そう言うと、和子は任せてと言うように胸を叩いた。笑いかけてくる義姉が頼もしく、肩から力が抜けていった。
だが、それから何日経っても義姉の和子からは何の連絡もなかった。
――あの黒真珠の指輪が欲しい
その焦燥感にも似た思いは、私の中で抗いようもないほどに大きくなっていた。法事の日の夜には、兄にたてついてまで浅ましく物を欲しがるなんて、と身を切るような羞恥さえ感じた。それが今は、何故あの時に無理やりにでも取ってこなかったのだろう、とさえ思っている。仕事に追われる昼の間は耐えられた。だが、夜にアパートで独りになるといけなかった。あの指輪を一目見たい。あの指輪が欲しい。身のうちを這いずるような渇きは日に日に強くなっていた。
気が付くと、私は実家の前に佇んでいた。法事の時は懐かしいと感じた風景に、今はなんの感慨も覚えなかった。子供の居ない兄夫婦の家は居間だけに灯りがつき、かすかにテレビの音が漏れ聞こえている。私はカラリ、と玄関の引き戸を開けた。
「誰かしら」
和子の声が聞こえ、続いて障子の開く音が聞こえた。
「……珠子ちゃん」
玄関に立っている私を見て和子は息を飲んだ。
「黒真珠を貰いに来ました」
「ちょっとまって珠子ちゃん、今は」
用件を告げると、和子は居間をチラリと見ると小声で囁いた。この女は、あの真珠を見て欲しくなったのだろう。私に渡さない気なのだ。約束したくせに許さない。私の頭の中には黒真珠に対する執着しかなかった。私は靴のまま玄関にあがり、和子の胸倉を掴んで揺さぶった。
「あれは私のものよ。返してよ!」
「やめなさい」
声を聞きつけた兄が居間から飛び出してきて、義姉から私を引き剥がして突き飛ばした。私は障子にしたたかに体を打ち、外れた障子とともに部屋の中に倒れこむ。なんてことを、私は兄を見上げて睨む。蔑むように見下す兄の視線とぶつかった。昔からそうだった。私と母を見るこの目。
「返しなさいよ……あれは母と私のものだわ」
私は立ち上がり、その勢いのまま兄に掴みかかる。軽くいなせるとタカをくくっていたのだろうが、兄はよろめき、驚いた表情で私をみた。そのまま倒れて強かに頭と背中を打つ。うう、とうめき声を上げる兄にわたしは馬乗りになって拳を振り上げた。
「珠子ちゃん!」
和子の悲鳴のような声に顔を上げると、紺地の繻子が貼られた小函が眼に飛び込んできた。和子は慌てたように箱をあけ、指輪を出して私に突き出す。
「これでしょう、ほら、もういいでしょう」
これだ、これだ、これだ、私は和子の手から指輪を毟り取る。銀に縁取られ、夜の闇のように黒い真珠が暗く光っている。私は恍惚と指輪を眺めた。どのくらい経ったのだろう、わたしはふと、視線を感じて窓に目をやった。
――おかあさん?
だが、それはガラスに映った私だった。和箪笥の引き出しをあけて指輪を見つめていた母と、同じ表情をした私だった。
美しい。
なんて美しいのだろう。こんな造形が存在できるなんて、信じられない。この顔を母と見間違えるのもまた、とんでもない話だった。
「確かに受け取ったわね。これで落ち着いたかしら」
和子姉さんの声が、ひどく遠くに聴こえた。それに「ええ、ありがとう姉さん。邪魔したわね」と生返事を返す自分の声すらも、遠い世界の出来事のようだった。
後ろ髪を引かれる想いで指輪を小函に戻し、私はそそくさとその家を後にした。兄がどんな顔をしていたのか、ついぞ目にすることは無かった。
黒真珠の指輪が実際はどんな代物であるのか、私にはわからない。
ただ母がしていたように、夜な夜な指輪を眺め、映し出される自分の姿にうっとりした。
私は、徐々に人付き合いをしなくなった。外に出ればこの美貌をひけらかすのが主な目的で、途中で誰が話しかけてきても適当に笑って受け流した。
家族や友人にも会わなくなり、電話にも出なくなった。最初こそは和子姉さんが私を心配して留守電を残してくれたものだが、どんどんその頻度は落ちてきている。
これでいいのだ。私には他の人なんて必要ない。私には、私さえいればいい。この非の打ち所の無いほど美しい私と、どんな人間が並ぶことができるだろうか?
そう、私の隣に居ると誰しも見劣りしてしまう。それでは彼らが可哀想だ。
などと思っていたある夜。
――おいで……。
ふと指輪に呼ばれた気がして、私は引き出しを開けた。いつもするように真珠に映る自分の姿を求めるが、そこには衝撃的な像があった。
(なんてこと! 私の美しさが、溶けて損なわれてしまっている!)
どうすれば、私は一体どうすれば。嗚咽がこみあがり、目頭が熱くなった。
――かんたんなことだよ、たまこ。たべて、しまえば、いいんだ……。
指輪の奥から声が響いてくるようだった。何故、かは問わない。
(……食べる?)
母はどんな人間だったか。どうして母には、葬式に来てくれるような友人が居なかったのか。唐突に私は、そのことに想いを馳せた。
物思いは電話の鳴り響く音によって中断された。こんな深夜に誰だろう。私は億劫な足取りで電話の前に立ったが、出る気にはなれず、留守電が入るのを待った。
『――こ、珠子。居るんだろ、どうせ。あれからどうだ? 指輪は変わらずか?』
兄からだ。歯切れの悪い、低めの声。どこか嘲る響きを帯びている。
『ったく、母さんと関わると、みんな不幸になるんだ。父さんだってそうだった。なのにお前だけは母さんに憧れて、いつもくっついて回って。いつか同じになるんだなって、ずっと思ってた。どうだ? なれたんだろ? 母さんみたいに。それでお前は満足したか?』
留守電は、ブツリと切れた。
ああ、そうか。母の周りに他人が居なかったのは、そのせいだ。きっと周りの人から運気や生気などをありったけ吸い込んで、自らの美に変えたのだ。そのことに気付いたのか否か、皆は気味悪がって離れていったのだろう。
しばしの間瞑目した。瞼の裏に、己の未来の在り様が垣間見えた気がした。
(同じになって……満足したかですって?)
無慈悲な静寂を蹂躙するように、私の喉から高らかな笑い声が溢れ出し――いつまでも止むことはなかった。
<了>




