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弟髪

作者: 短小マン

 弟の髪が伸びた。

 少し前まではイガグリ頭で、角度によっては地肌が丸見えだったのに、今では頭部が黒々としている。中学生になったのだ、色気付いたものだなと微笑ましく思っていたが、その髪がどんどん伸びてきて、体つきも丸みを帯び、セーラー服で登下校をするようになった頃、俺はようやく何かがおかしい事に気づいた。

「なあ、次郎」

「なに、兄さん」

「お前って、実は女だったって事はないよな」

「ないよ。子どもの頃は一緒に風呂に入っただろ」

 当然だろ、という顔で次郎は俺に反論する。

 けれど、その言葉とは裏腹に、今の次郎の顔つきは十三歳の少女そのもので、少し前までの野球部員をやっていた頃の、少年らしさに満ちていた姿とは随分と違っている。

 今の次郎は、少女そのものだ。

「じゃあ、なんで今は女みたいな格好をしているんだ」

「そりゃ今は女になったからね」

「……いつモロッコに行ったんだ」

「モロッコなんて行きやしないよ」

「なら、どうして女になった」

「そりゃ、その、なんだ」

 俺が少し強く尋ねると、次郎は顔を赤らめて、戸惑った。少年だった頃から、次郎の顔は整っていた。いわゆる美形と言うほどではないけど、男でも女でも好感を抱く程度には小綺麗で、いい感じの顔をしていた。それがそのまま女になった。すると次郎は、少女漫画の主人公にありがちな、清潔感のある活発そうな少女になった。それが困り眉を浮かべながら、しどろもどろになっている。

 俺は、少し悪い事をしている気分になってしまった。

「どうなんだ?」

 けれど、構わずに俺は少し語気を強める。なぜなら俺は次郎の兄であるからだ。兄として、弟が女となった理由は知っておく必要がある。だから、心を鬼にして、困る次郎を威圧して、有無を言わさず聞き出した。

 すると次郎は顔を真っ赤にしながら、か細い声で答える。

「……恋に落ちたんだ」


 ある日、次郎は近道をしようと路地裏を歩いていたら、道ばたでしゃがみ込んでいる少女に出会った。

 その少女はウスバカゲロウのように真っ白で儚い空気を持つ少女だった。

「その子を見た瞬間にね、助けてあげなくちゃって思ったんだよ。その子は本当に儚くて、目を逸らしたら、次の瞬間に死んでしまいそうな、そんな女の子だったんだよ」

 次郎は少女に声を掛けた。

 少女は次郎の呼びかけに応じ、伏せていた顔を上げた。

 するとその顔立ちはこの世の物とは思えないほど美しいものだったという。信じられない程に綺麗な少女で、触れたら壊れしまいそうだった。

「疲れているから休んでいる。心配する事なんて何もない。彼女はそう言ったんだ。けど、僕は信じなかった。そういう雰囲気ではなかった。すると彼女は微笑んでこう言った」

『ありがとう。優しいんだね』

 それは完全なる不意打ちだった。

 次郎とて思春期の男であるのだから、それなりに用心はしていた筈だ。女性というものに対して、年頃の男なりの警戒心は持っていた。話し掛けた時だって少なからず警戒をしていた。けれど、すべて無駄だった。

 そう少女に微笑まれた瞬間、次郎は呆気なく恋に落ちてしまった。

 やられた、と思った。けど、既に手遅れだった。次郎の心には恋という傷痕が刻み込まれてしまっていた。それはとても切なくて、熱くて、いじましくて、たまらないものだった。まるで胸の奥の方へ真っ赤に焼けた鉄の棒が差し込まれたように、熱くて狂おしい。

 次郎は胸を押さえて悲鳴を上げた。その声は女みたいに高い悲鳴だ。次郎は我慢強い少年だ。ただ痛いだけなら悲鳴なんて上げたりしない。けれど胸の苦しみには耐え難いせつなさがあって、次郎は悲鳴を上げたのだ。

 しばらくの間、恋患いの苦しみで次郎は道ばたでもがいていたが、やがて苦しみは薄れていって、どうにか正体を取り戻した。

 その時、もうウスバカゲロウのような少女はいなかった。彼女の残した微かな残り香が残されているだけだった。


「きっとあの女の子は、僕が目を離した瞬間、崩れ落ちて消えてしまったのだろう。恋に落ちた僕を残して」

「なんで早く相談しなかったんだ」

「相談しても意味がなかったからね。それに恋に落ちたなんて恥ずかしくて言えなかった」

 実際、一度恋に落ちてしまったら、どうしようもない。

 恋に落ちた男の心は、既に女の物へと作り替えられてしまう。恋を知らぬ少年の心には、深い恋の爪痕が刻まれ、その感性感覚は少女の物へと変わってしまう。花を見ては微笑んで、子どもの笑顔に釣られて笑い、甘い菓子に喜んで、雷の音に悲鳴を上げて、死にゆく夏虫を見ては涙を流す。

 そういう風に作り替えられてしまう。

 そうなってしまってはもう手遅れで、後は肉体の方が精神に呼応するように少しずつ変わっていくだけだ。

「少しずつ肉体は女になっていった。最初に違和感を覚えたのは感覚だね。同級生を見る目がね、なんだかおかしくなっているんだ。今までは何の興味もなかった知り合いを、値踏みしているみたいでね。あれは僕の中の女性の部分が男を物色し始めたんだろう」

「男を物色、か」

 俺は難しい顔をした。

 それは仕方がないことだろう。俺にとってこいつはずっと弟だった。次郎が中学生になって色気づき、水着のグラビアをベッドの下に隠していた事もよく知っている。そんな弟が男を性的対象とするようになったと告白されたら、難しい顔以外のなにをすればいい。

 だが、次郎はあっけらかんとした顔で自らの境遇を語り聞かせる。

「今の僕は女って事はどうしようもない事なんだよ。太陽が東から昇るくらい、それは自然な事なんだ。西から日は昇らない。そんなのはバカボンの歌ぐらいだ」

 冗談めかして次郎が言う。

 俺は思わず笑ってしまう。

「……バカボンってお前な」

「それぐらい馬鹿な話ってことなのさ」

 そう言って、笑う次郎は可憐だった。

 だいたいそんな風にして、俺の弟は女になった。


 そうして女になった弟を持って、何ヶ月か過ぎた頃、俺の親友である太田五郎が、ふざけた面に真剣な表情を貼り付けて相談しにきた。それは難解な数学が終わった後の昼休みで、俺がちょうど弁当を広げてきた時の事だった。

「お前の妹の、次郎ちゃんているだろう」

「いねぇよ」

「いや、いるだろ」

「いない。弟の次郎だったらいる」

「……女でも弟っていうのか?」

「世間一般は知らないね。けど、俺にとって次郎は女になっても弟だ」

 俺にとって、次郎は次郎のままだった。

 可愛い弟の次郎のままだ。性別こそ変わってしまったし、見た目も随分と可愛くなった。けれど、俺は次郎を弟の次郎として扱い続けたし、次郎のそれを受けいれた。

 だから、俺にとって次郎は弟だ。

「まあ、いいさ。なら、その次郎ちゃんっているだろう」

「ああ、いるよ」

「彼女は、その、付き合っている男はいるんだろうか?」

「……いないと思うがね」

「そうか、いないか!」

 俺は嫌な予感を抱きつつも、比較的誠実に答えた。すると太田はとびっきりの笑顔になって、万歳三唱を始めやがった。この馬鹿は、全身で喜びを表現している。

「おい、太田」

 俺は引きつりながら、太田に声を掛ける。

「なんだよ、山田」

「次郎がフリーだったら、なんだってんだ」

「ああ、うん。そ、そのな。次郎ちゃんがフリーだったら、こ、告白しようかなーって思ってな。ただ、あの子はお前のい……弟だろ。だから、親友として一言断っておくべきかと、そう思ったんだよ」

「正気か」

 俺は、吐き捨てるように言った。

 確かに、今でこそ次郎は可憐な少女となっているけれど、元は野球少年なのだ。イガグリ頭でバットを振って、夏は真っ黒に日焼けをしていた。少年趣味の変態なら食指が伸びる事もあるだろうが、太田五郎はノーマルだ。少し年下好きであるけれど、ショタコンではなかったはずだ。

「お前こそ正気か」

「なにがだよ」

「少し前ならいざ知らず、今の次郎ちゃんは名実ともに美少女だぞ」

「しかし、元は男だ」

「だが、今は女の子なんだよ。純情可憐な乙女なんだ。実際、あの子はどんな女の子よりも女の子らしいんだぜ。例えば、道で濡れている子猫を見たら、連れて帰らずにはいられない。ボタンが取れた同級生に、その場でボタンを縫い付けてやる。雑巾の絞り方だって堂に入っている」

「だ、だが」

「それに、その弁当だって次郎ちゃんの手作りだろ?」

 太田五郎は痛いところを突いてきた。

 俺が次郎が女となったと看破した時点では、次郎はまだ女になりきっていなかったが、あれから随分と時間が経った。その時間で、次郎は女らしくなっていた。日に日に可愛くなっていったし、胸も少し膨らんだ。趣味もすっかり変わってしまって、裁縫だとか料理とか掃除や洗濯をするようになった。野球部は退部こそしなかったが、すっかりマネージャーが板に付いた。女の身体で男に混じって運動することは難しい。だからマネージャーをするんだよと、少し寂しそうに話していた。それでも運動は続けたいからと、女子ソフト部に入ろうか悩んでいるらしい。そうして悩んでいる次郎は対照的に、母は満面の笑みだ。「娘がいるって素敵な事やねん」なんて嬉しげな顔で言いながら、次郎にフリルとレースがたっぷりの洋服を買い与えていた。後で次郎から値段を聞いてみると、俺が持っている一番高い服の十倍だった。「僕はいらないって言ったんだけどね」と言う次郎は、満更でもない顔をしていた。

 気が付けば、次郎は随分と女になっていたのだ。部屋に入ってみると、もう完全に女の子の部屋だ。机の上には小物入れ、写真立て、コロン、他にも俺にはよくわからない細々した物。ベッドの下を覗いてみたら、隠してあったグラビア写真集はなくなっていた。

「……わかった。アレが女である事は認めてやるよ」

「わかってくれたか! それじゃあ、俺が次郎ちゃんと付き合うのも認めてくれるか」

「知るか。それは次郎に聞け」

「そ、そんな。待ってくれよ!? それじゃ俺の、兄貴のお墨付きを貰う事によって、少しでも告白の成功率を上げる計画がパーじゃん!」

「うるせぇよ! このクルクルパー!」

 太田は悪い奴ではないが、こういう賢しいところは鬱陶しい。俺は親友を蹴り飛ばした。

 その後、太田は次郎に告白したが「好きな人がいるんです」と綺麗にお断りされたと、俺に泣きながら愚痴ってきた。俺は鬱陶しい太田を蹴り飛ばしながら、豆乳を飲みつつ考える。

「次郎の好きな人、誰なんだろうな……」

 それが少し気になった。



 それから何日かして。

 アイスクリームを買って帰った。

 コンビニで売ってる安物ではない。割と高い奴だ。買うと可愛い店員さんから「帰宅までどれくらいッスか?」なんて聞かれて、ドライアイスを入れて貰う、そういうアイス屋だ。

 特に高級アイスを買う理由は何もなかったのだが、少し日差しが強かったので冷たい物を食べたくなって、ガリガリ君でも買おうかとコンビニへ向かっていたところ、途中でアイス屋が目について、これを買って帰ったら次郎の奴は喜ぶだろうと思った瞬間、適当にアイスを選んでいた。

 買ったのはヴァニラとチョコミント。次郎がどちらを選ぶのか、俺にはよくわからないので、無難なヴァニラと女の子に一番人気があるというチョコミントを選んでみた。

「兄さんお帰り。あれ、それなに?」

 帰ると次郎が青いシャツにホットパンツという涼しげな格好で出迎えて、持っていたアイスの箱に興味を示した。

「お土産だよ。アイスクリーム」

「うわっ、なにそれいいね! お土産って事は貰ってもいいの?」

「ああ」

「じゃあ、チョコミント貰うね」

 次郎はチョコミントを選んだので、俺は必然的にヴァニラとなる。それを認識した瞬間、俺はストンと腑に落ちた。

 次郎が妹になったのだ。

 もう弟だった次郎はいない。

 それをようやく実感した。

「……本当に女の子になったんだな」

「うん? 突然どうしたの兄さん」

「いや、ふとな。実感したんだ」

「たった今?」

「たった今だ」

 すると次郎は、呆れたような、惚けたような、なんとも判別の難しい顔をして、

「今更だねぇ」とチョコミントアイスを舐めながら呟いた。

「ああ、今更だな。本当に今更だ」

 俺も次郎に――妹にならってアイスを食べた。口の中で冷たさが広がり、それが消えると共に甘味とヴァニラの風味がふわりと広がる。それは実に優雅な味わいで、コンビニで売っているガリガリ君とは、比べものにならないほど上品な味だ。

 もっとも俺はガリガリ君の方が好みであるが。

「ね、兄さん」

「なんだ」

「一口、頂戴?」

「ああ、いいぞ」

 俺がアイスを差し出すと、次郎は小さな口を精一杯上げて、ヴァニラアイスを一口囓った。それは小さいながらも大胆に、俺のアイスを削っていった。

「随分食ったな」

 俺は苦笑しながら、アイスを食べる。

「……兄さん、僕と間接キスだね」

 すると次郎はとんでもない事を言い出してきて、俺は思わず咳き込んだ。

 今までは、俺と次郎は男兄弟だったから、そうした事なんて考えた事もなかったからだ。けれど、今の俺達は兄妹だ。意識してしまえばいくらでも、気まずいシチュエーションが転がっている。

「次郎!」

「あははっ、なんだい、兄さんてば。ちょっとした冗談だよ」

 そうして楽しそうに笑う次郎を見ながら、俺はふと、太田五郎の言葉を思い出していた。

『次郎ちゃんが言っていたよ「好きな人がいるんです」って』


 なあ、次郎。

 女になってしまったお前が好きになった奴って誰なんだ。

 それって俺が知っている奴なのか。

 それとも全然知らない奴か。

 男である俺には、どうにも、それが全くわからない。

 俺も恋に落ちたのなら、わかるようになるだろうか。


 これが男同士なら遠慮なく聞けたのだろうが、男と女の兄妹では遠慮があって聞くことが出来ず、次郎が女となった事を受けいれてしまった俺は、けらけらと楽しそうに笑う妹を、ただ眺める事しか出来なかった。

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