【ゆる釈・むかし物語】放屁、無情
むかしむかし、京の都に、|藤大納言忠家《とう だいなごん ただいえ》という、殿上人がいました。
殿上人とは、帝が普段いる御所『清涼殿』の『殿上の間』に昇ることを許された人のことです。
さて、この忠家、ある屋敷で女性と話していました。女性は、一段高くなった敷居、下長押の向こうに座っていて、その姿は、簾に隠れています。
女性は美しく恋愛上手と評判でした。おそらく男性の忠家が女性の屋敷を訪れたのでしょう。この時代、男性の方から女性の家に訪れることが当たり前でした。
やがて夜が更けてきました。物語では『月は昼よりも明るかった』と描写しています。その夜は、丸い月が出ていて、空も澄んでいたのでしょう。
月の白い光が屋敷の中に差し込んでいます。当時の女性は、薄暗い空間でぼんやりと白く浮かび上がって見えるような化粧をしていました。
ちょうどたまたま、月の明かりが女性をいい角度で照らしたのでしょう。男性には、女性が簾越しにほのかに輝いているように、大変美しく見えたのかもしれません。
(辛抱たまらん!)
と、思った男性は、女性のいる簾をひょいと上げてくぐり、一段高くなっている下長押にあがると、女性の肩を抱き寄せました。
「あっ……」
女性の髪の一部が、自分の顔にふわりとかかりました。男性には、艶めかしく見えたことでしょう。
「まあ、はしたない……」
などと、女性が抵抗するそぶりをしたかと思うと、次の瞬間、あの音が屋敷の空気を震わせました。
物語の原文では、『いとたかくならしてけり』とあります。
そうです。体を動かした瞬間、女性の尻から大きなおならが出てしまったのです。古語の『たかく』は、高音という意味もあるので、そういう音だったのでしょう。
(あ……)
言葉を失う女性。そのとき凍り付いた空気は想像にかたくありません。女性は、ぐったりと、しなだれかかるようにして伏してしまいました。
一方、忠家は、
(はあ……。何だかもう、がっかりだ。……つらい。ああ、この世の全てが嫌になったわ。そうだ、出家しよう……)
と、体を起こし、簾の裾を少し上げて体を滑り込ませるようにして出ると、空気が変わったその場を、足音を立てないように、こっそりと離れました。
(……うん、絶対に出家しよう)
などと、思いながら、簀の子と呼ばれる縁側の廊下に向かう忠家。やがて、廊下の柱を二本分ほど進んだところで、ふと次のような思いがもたげてきました。
(待てよ? そもそも、あの女が恥ずかしい失敗をしでかしたからといって、なんで自分が出家せねばならんのだ。ばかばかしい……。一瞬とはいえ、どうしてあんな気持ちになったんだろう……)
と、思い直すと、忠家の気分が晴れてきました。気持ちが軽くなるにつれて取りも軽くなり、やがてタタタタタ……と走って屋敷を出て行きました。
女性は、女房という身分の高い人でしたが、その後、彼女がどうなったかは、誰も知らないそうです。
(了)