親愛なるきみへ
列車は何も言わずに走り出した。
僕は何も分からないまま空いている席に座る。
揺れる列車の窓から外を覗けば、星空に近づき、住んでいた町を遠く離れ、その姿を小さくしていった。
これからどこへ行くのだろうか?
僕は憧れ続けたミュージシャンのライブを見終わって、そのまま家路について寝ていたはずだ。
昔から彼らみたいになりたくって、ギターを買っては楽譜を買っていろいろな曲をコピーしては大きな声で歌っていた。
そして夢の世界に初めて足を踏み込んだあの場所で、彼らはスポットライトの下で輝いていた。その姿と奏でる音楽は数え切れない人たちを熱狂と興奮に包み込んでいた。
僕もその一人で、胸の奥に響く音は養分を得た血液のように全身を廻らせて、この日を夢見てきた僕は泣いていた。
しかし、今は列車に揺られている。
不安に押しつぶされそうに握りしめた手の平にはオレンジ色の切符があった。
いつの間に僕はこれを手に入れたんだ?
「やあ、久しぶりだね」
声が聞こえたほうを向くと、そこにはフードを被って口元以外を隠した人が立っていた。
いきなり話しかけられて戸惑う僕に、彼は言葉を続けた。
「隣に座っていいかな? 君と話がしたいんだ」
「は、はい」
僕は流れに身を任せて返事をしてしまった。
しばらくの間、彼は何も話さずに隣で鼻歌を口ずさんでいた。
だから、僕は何も話しかけないでじっと座っていた。
彼にとって僕は初対面ではないらしいが、僕にとってはこれが初対面だ。
この人はこの列車の行き先を知っているのだろうか?
「君は何も気にならないのかい?」
「いや、気にはなりますけど」
そうだよね、と彼は言い僕を見た。きっと僕の言葉を待っているのだろう。
「……その歌、知ってます」
「そっちかい? やっぱり君は君だね」
この人は僕の何を知ってるんだ? 彼の乾いた笑いが列車の中に響く。
「本当に聞きたいことはないのかい?」
なぜこんなにも彼は僕に何かを聞き出そうとするのだろう。
「この列車について知っているんですか?」
「君が求めている答えなら伝えることはできると思うよ」
彼は微笑んでいた。それならば、
「なら、どうして僕はこの列車に乗り込んでいるのですか? そもそもこの列車はなんですか?」
「うんうん。その言葉を待っていたよ」
彼は二度頷いて、話をしてくれた。
「この列車はね、何かを失った人がその失ったものを探しに行くための列車なんだ」
「何かを失った?」
「そうさ、だから君はこの列車に乗っている」
「僕がですか?」
「実際に今がそうじゃないかい?」
「それはおかしいですよ。だって今日は何かを得ることができた日だったから」
だって、今日僕は多くのものを彼らからもらったんだ。今日のことは忘れないぐらいに。
「そうか、うんうん。なるほどね。君はまだ分かっていないんだ」
僕は訳が分からなかった。分かっていないのは君のほうじゃないのか? 初めて会った人にそんなことを言われる筋合いは無い。
「きっと君が何かを得ることができたのなら、それは何かを失ったということなんじゃないかな?」
「いや、でも、本当に何かを失った覚えは無いんです!」
「お、元気になったじゃないか。じゃあ、すこしこの列車に揺られながら、窓の景色でも眺めるがいいさ。ほら、始まるみたいだよ」
「え?」
彼が窓の外の方を見たので、僕もそれに合わせてそちら見ると、明るい星を落とした黒い夜空を背景に窓には映像が流れ出した。
その映像は僕がギターを始めた頃ぐらいの映像だった。
こんな映像を撮った覚えも無いし、撮られた覚えも無い。彼の方を向いて問いかけた。
「こ、これは?」
「君の思い出だよ。それが今ここに流れている」
目を大きく見開いて、僕はもう一度映像の方に顔を向けた。
『難しいな、このコード。ええと……こうかな』
見ていられない。それはこうやってこうすれば簡単じゃないか。頭の中で自分の手をイメージする。
「過去の自分なんだから、仕方がないよ」
初めて会った人に心の中を見透かされて少し恥ずかしい。
『いつかあの人たちみたいにバンド組んでステージに立つんだ』
楽譜をめくりながら映像の中の僕はそんなことを呟いた。
僕はただただその映像を食い入るように見た。あの日の僕が夢中で響かないギターを弾いては楽譜を確認する作業を飽きずに何回も繰り返して、眩い光を掴もうとするその姿を。
「夢中のところ悪いけど、どうやら、次の映像に映るようだよ」
彼がその言葉が放った瞬間、列車が大きく揺れた。
映像はプツンと消え、窓の外は街を遠く離れた場所を僕に見せていた。
そこは、海だった。
「さあ、行こうか」
彼の言葉と同時に列車は急降下し、海の中へと進んでいった。
海の中は魚も泳いでいない、真っ暗な深い空間だった。
「この列車……」
「どこへでも行くよ。だって、この列車には線路は無いからね」
彼は当然のように僕に教えてくれた。心なしか、彼の言葉も沈んでいるように思えた。
「さて、次の映像が始まるよ」
僕は窓を見つめ、その映像を待ち焦がれる。
『どうすっかな……』
これはギターを初めて1年ぐらい経ったあたりの自分だ。ギターを抱えながら考え込んでいる。ただ違うのは、目の前には楽譜ではなく携帯があることだ。
『同じにしか聞こえない……』
携帯を操作して、画面の中の僕はギターを弾いて歌い始めた。この曲はよく覚えている。僕が初めて作った曲だ。結局、あの人たちと同じような曲になってしまった曲だ。
「いい曲だよね」
「どこがさ。全部似ているだろ?」
「でも、僕は好きだよ」
そして彼は鼻歌を口ずさんだ。その曲を確かめるように。僕に聞かせるように。
列車が海から出ると、窓に映る映像は徐々に消えていき、そのスクリーンに夜の黒い色は取り戻した星空を映し出した。
「どうだったかな?」
「君の言っていたことがなんとなくだけど分かってきたよ」
僕は天井を見つめながら、これまでの映像を振り返る。そして今日のあの涙も。
「それじゃあ、最後の映像はいらないかな」
僕は一度深く頷き、彼を見た。
「それじゃあ、君に聞くよ。君は何を失った?」
喉からあがってくるその言葉を、一度口の中で咀嚼して言った。
「僕が失ったのは……夢だ。僕自身の夢だ」
列車の中を静寂が包み込む。時間が止まったような、僕はそんな気分になった。
「そうだよ」
そう言って彼は被っていたフードをとって、その素顔を僕に見せた。
「そうだと思ったよ」
僕はフッと笑い、そして僕と同じ顔をした彼も笑っていた。
「最初は誰だって夢見るんだよ。憧れるその存在みたいになりたいって。でもさ、いつか気付いてしまうんだ。あの眩い光に触れようとしたって、一つも近づけないことを。そして、今日ライブを見て分かってしまったんだ」
僕は今日の涙の本当の意味を知ったんだ。この列車で君に会わなければ僕は一生気付くことはなかっただろう。
「良かったよ。気づいてもらえて。これで君はこの列車から降りることができる」
「探し終わったから?」
「そうだね。失ったものの真実を知るということは、これからの生き方を得るということなるからね」
列車はゆっくりと止まりドアが開いた。僕の旅が終わったということは、この列車が走る理由がなくなる。つまり、そのときが僕の降りるべき駅になる。
「そして君にお願いがある。これは君にしかできないことだ」
「なんだい?」
僕は列車を降りながら、背中越しに彼の言葉を待つ。
「僕を忘れないでいてくれないかな?」
「どういうことだ? 君は僕自身だろ? 忘れるわけないじゃないか」
僕が強くそう言うと、列車を降りて振り返ると彼は笑っていた。
「ああ、そうか。君はまだ勘違いをしているんだね」
呑気に言う彼はそのまま言葉を続けた。
「僕はね、キミが作ってくれた曲自身だよ」
「え……」
ドアが閉まり、列車は走り出した。音も無く列車は夜空の彼方へとどんどん小さくなっていく。
僕はそれを眺めながら切符を持っていた右手を強く握ると、何か堅いものがあった。
ゆっくり右手を開くと、オレンジ色の切符は僕が使っていたピックになっていた。
そしてそれをもう一度ゆっくり握り直し、鼻歌を口ずさみながら僕は駅から歩き出した。
読んでいただき、ありがとうございます。