昏闇に舞う蝶【探偵は嗤わない、第五話】
探偵は嗤わない、第五話となります。
クトゥルフ成分25%up(当社比)
「まあ、そんなに嫌そうな顔をするな」
久慈は開口一番、苦笑いしながら俺にそう言った。
季節は十二月、寒風が肌を刺す頃。現在我々がいるのは赤間探偵事務所の応接室だ。俺の対面のソファに久慈若頭、俺の隣に詠子君が座っている。
久慈はこの街冠城町を支配下に置く、鯨組のナンバー2である。本来なら下にも置かぬ扱いをするべきなのだが、本人は意外と気さくな性格で、ヤクザの割に、礼うんぬんに関してはあまり頓着しないようだ。今回もアポイントなくふらっと事務所を訪れたため、不在の赤間所長に代わって俺が応対することになった。
「先日の依頼はなかなか歯ごたえのあるものでした」
俺は少しの皮肉を込めて久慈に応える。先般久慈が持ち込んだドラッグ密売ルートの特定の依頼。俺は潜入捜査で身分が発覚し、簀巻きにされて拉致された挙句、召喚された神とやらの顕現に居合わせることになったのだ。瘴気に当てられ熱発した俺は、結局五日も入院する羽目になった。だから少々皮肉を言ってもバチは当たらないだろう。
「ああ、実によくやってくれた。だから、今回の依頼もおたくに任せようと思ってね」
久慈は悪びれる様子もなく続ける。
「今度は牧歌的な依頼なんでしょうね?」
「もちろん。牧歌的も牧歌的。だが例によって、うちの組織ではなかなか対応しづらくてね」
久慈は組んだ脚を解いて、胸ポケットからスマートフォンを取り出し、一枚の画像を表示させてコーヒーテーブルの上に置く。
俺と詠子君は身を乗り出して画面を覗き込む。そこに写っていたのは、一人の美しい女性だった。
「この女性は?」
「彼女はうちが世話をしているクラブのホステスでね。最近ストーカー被害に悩んでる。店長に泣きつかれたのさ。彼女が神経質になっているから何とかして欲しい、ってな」
「つまり今回の依頼は……」
「そう、彼女の護衛と、できることならストーカーの特定」
なるほど。確かに先般の依頼と比べれば、随分イージーな仕事だ。いくら護衛とは言え、ホステスの周りをヤクザがうろつくのはうまくない。だからこそ探偵社に依頼を、というわけだ。
「これだけ美人なら、ストーカーに遭うのも無理はありませんね」
隣で詠子君が茶を飲みながら、のほほんとした声を出す。
「そう、なんせこの街でナンバーワンのホステスだ。日に数百万稼ぐこともある。その何パーセントかの上前をハネているうちとしては、放っておくわけには行かないのさ」
そういうことらしい。依頼を受けるかどうかは置いておいて、詳細を聞くことにする。
「そのホステス、源氏名を朔夜と言うんだが、彼女がストーキング行為に気づいたのが二週間ほど前。詳しいことは聞いちゃいないんだが、まあ本人もかなり怯えている」
「詳細は本人に聞け、と」
「そういうことだ。俺は依頼の仲介と、金を出すだけだからな」
どうやら久慈も詳細は把握していないらしい。あとでホステス本人からの聞き取りをする必要があるだろう。しかしホステス一人のために組の若頭が動くというのは、面倒見が良いというべきか、それともそのホステスの稼ぎが相当なものだからか。
「金のことはあとで所長と詰めてください。こちらからも報告はしておきますが」
「頼むよ。『猟犬』の鼻には期待している」
「そりゃどうも」
その後、クラブカリプソの場所や営業時間を確認して会談を終了する。営業時間は基本的に夜の間。今日は朔夜を早めに出勤させているらしく、その間に話を聞いて欲しい、とのことだった。
久慈が帰ってからしばらく、所長の赤間が戻ってきた。久慈が訪問した旨を伝えるとまた顔を青くしていたが、依頼の内容を伝えると幾分ホッとしたようだ。流石に前回のような案件は二度とゴメンなのだろう。
「じゃあ、今回も悪いけど」
「ああ、承った」
というわけで、再び久慈の依頼を任されることになった。
現在時刻は午後五時。少々早いが、早速クラブカリプソで朔夜から聞き取りをすることにしよう。俺は事務所を出立し、風俗街の方へ足を向けた。
ここは冠城町。退廃と享楽の街。
人の貪欲な本能をエネルギーとして、札束が舞いネオンが光る歓楽街。
600メートル四方の空間に四千を超える店舗がひしめき合い、さながら要塞か城のようにビルが立ち並んでいる。
ここに訪れる人も、働く人も、ただひたすら己が欲望の充足の為に、金を、時間を、命を、尊厳を費やす。
その澱んだ空気俺にとっては慣れたもの。それを好むか好まざるかは別として。
しかしこの街にうんざりしていようとも、生活の糧を得るためには働かねばならない。俺は詠子君を伴って、早速クラブカリプソへ向かった。
クラブカリプソは事務所から徒歩十分程度の位置にあった。ここはこの街に渦巻く欲望の牙城の一つ。その中でも一等高級な場所のようだ。
広い店内にはいくつものブースがあり、天井には煌びやかな照明がムードを演出している。今はまだ営業時間外のようだが、準備のために数名の店員が立ち働いている。
「すまないが、マネージャーはいるか?」
適当な店員を一人捕まえてマネージャーはどこか聞くと、バックヤードにいる、という答えが返ってきた。店の奥にあるスタッフオンリーと書かれた扉をノックすると、口髭にオールバックの渋い男性が顔を出した。
「赤間探偵事務所の犬塚です。朔夜さんの件で参りました」
俺が差し出した名刺を受け取ると、得心した顔をして中に通してくれた。
「彼女が朔夜です。詳しい話は彼女から」
そう言うと、マネージャーはバックヤードから出て行く。俺と詠子君、そして朔夜と呼ばれた女性が部屋に残された。
その女性の髪は、背中あたりまで伸びた艶のある黒。白い肌に派手すぎない薄い桃色のドレスを身に付けている。一般的なこの街のホステスとは違い、清楚で知的な雰囲気を纏った女性だった。
◇
「貴女が朔夜さんですか?」
私が彼女に声をかけますと、朔夜さんはこちらに会釈をして応えます。
「ええ、そうです。今回の依頼を受けてくださる方々ですか?」
所作の一つ一つに上品さが感じられます。さすがはこの街のナンバーワン。其の辺のホステスとは一味も二味も違います。犬塚さんも心持ち圧倒されているようです。ぐぬぬ。
「そうです。よろしくお願いしますね。では、お仕事前に申し訳ありませんが、今回の依頼について少々お聞きしてもよろしいですか?」
はい、と透明感のある声で彼女は言い、私達に席を勧めます。そのままぽつぽつと、彼女は語り始めました。
「ストーカー行為に気づいたのは、今から二週間ほど前です。郵便物やゴミが漁られていたり、尾行をされているような気配があったり……」
ふむ。と隣で犬塚さんが顎をさすりながら話を聞いています。
「いままでそういう事は何度かあったのですが、今回は得体が知れないというか、不気味な感じがしまして……」
と話したところで彼女は口ごもります。かなりの不安を感じていることが、その綺麗な顔の表情から読み取れました。
「あ、そうだ。久慈さんから預かっていたものがあるんでした」
彼女はそういうと、おもむろに大きな封筒を取り出して私達に見せました。中身を確認してみると、履歴書のようなものが入っています。
「これは……?」
「久慈さんが下調べした結果だそうです。怪しそうな人物、といってもここの常連さんなのですが、その人たちの顔写真と住所、勤務先などの情報みたいです」
なるほど、それは基礎調査の手間が省けます。中身をテーブルの上に広げてみると、三人の人物についての簡単なデータが記載されていました。
一橋 良。三十八歳男性。レストラン『アペタイト』料理長兼オーナー。
二宮 銀。四十八歳男性。ワダツミ信用金庫冠城町支店支店長。
三島 圭介。二十五歳男性。自称デイトレーダー。
「ふむ。この三人が容疑者というわけだ」
犬塚さんが写真を見ながら呟きます。容疑者。犬塚さんが言うと迫力のある言葉に聞こえます。犬塚さんはそのまま朔夜さんの方に向き直って確認します。
「容疑者であると同時に、ここの常連でもある、と」
「そうです」
ふむふむ。中々に複雑な状況です。上客であるならば、あまり強引な捜査をするわけにはいきません。
「なるべく疑いをもたれないように、調査を行うことができればいいが……」
ふと、犬塚さんがこちらを見ていることに気が付きました。何かを思いついたような顔をしています。私はその意味を図りかねて犬塚さんを見つめ返します。朔夜さんも何かに思い至ったように頷いています。私だけが状況を理解できず困惑していると、犬塚さんがポツリと呟きました。
「覆面調査、か」
……え?
私がうまく状況を把握できないでいる内に、話はどんどん進んでいきました。犬塚さんがマネージャーさんと話を付けて、あれよあれよという間に、私をホステスとしてこのクラブに潜入させる手筈を整えてしまいました。今私は出勤してきたホステスさんたちに、着せ替え人形よろしくドレスを着せられたり、メイクを施されたりしています。翼という源氏名もいただきました。
「うん。君は可愛いから、この店で十分働けるよ」
と、マネージャーさんは言っていましたが、私はホステスのことなど何も知りませんので、ただただ困惑するばかりです。
「詠子君。中々綺麗だぞ」
犬塚さんがそんな私を見て言いました。
すっかりいい気分になった私は、ホステスに身をやつして店で調査を行うことになったのです。
時刻は午後七時。私が緊張でカチコチしている間に、店は開店時間を迎えました。ある男性は単独で、ある男性はホステスを連れて店を訪れます。この街の華美を集めたような雰囲気の店が、密やかな活気を帯び始めます。しかしそこは高級クラブ、どんちゃん騒ぎが起こることは無く、あくまでしっとりとした大人の遊び、といった趣です。ターゲットはいまだ来店せず。私はほかのホステスに、接客時の心得を習ったりしつつ時を過ごします。
午後九時。一人の男性客が来店しました。恰幅の良さと、柔和そうな表情。資料にあった一橋という男性に相違ありません。彼は朔夜さんを指名し、ブースの一つに座りました。私はさりげなく朔夜さんのヘルプとして、彼のそばに侍ります。
「おや、新人さんかな?」
一橋さんはその外見同様、穏やかで余裕のある話し方をします。男性用の香水をつけているらしく、ほのかにいい香りがします。服は大きなサイズながら上品なもの。足元を見るとブーツも高級そうなものです。
「はい、翼と申します。よろしくおねがいします」
「いいねえ、初々しくて」
とりあえず第一印象は悪くないようです。不自然でないように話しつつ、彼についての情報を引き出したいところです。
「一橋さんはレストランを経営してらっしゃるとか?」
慣れぬ水割りを作りつつ尋ねます。
「うん。今日もその仕事の帰りさ」
「すごいですね! 今度食べに行ってもいいですか?」
精一杯の上目使い。こんな媚び方は犬塚さんにだってしたことはありません。
「ああ、何時でもおいで。大衆に迎合した、なんていう事のない料理だけどね」
おや? と私は思いました。なんだか自分の店に不満があるような言い方です。自分の作りたい料理と、今作っている料理は違う、とでも言いたげです。これが調査のとっかかりになるような気がしないでもありませんが、ここであまり踏み込むのは不自然になりかねません。
「うふふ。一橋さんに会いに行っちゃおうかな」
これも仕事、と自分に言い聞かせつつ、今は好感度を稼ぐことに腐心します。
調査に焦りは禁物、その後は他愛ない会話を繰り広げつつ、クラブカリプソでの夜は過ぎていくのでした。
◇
さて、詠子君が体を張っている間、こちらものんべんだらりとしているわけにはいかない。とりあえず手始めに、朔夜の住居近くで張り込みをすることにした。
朔夜の自宅は冠城町住宅街エリアにある一軒のアパートだ。白い漆喰の壁とオレンジ色のレンガが配された、南欧風のアパート。ナンバーワンホステスというからにはさぞ稼いでいるのだろうが、住居は意外に質素でこぢんまりとしたアパートである。
ストーカーに警戒されぬよう、アパートから三十メートルほどの所に社用車を停め、そこで監視を行う。夜の闇は近場のネオンに照らされ、街灯もあって最低限の明るさは確保されていた。
張り込みと監視。探偵仕事の基礎である。浮気調査、素行調査。対象の行動パターンを把握したり、決定的瞬間を写真に収めたり。地味な仕事ではあるが、同時に不可欠な部分でもある。
この一見不毛とも思える時間を忍べるかどうかが、探偵としての適性と言っても過言では……、おっと、誰か車に近づいてきたようだ。
コンコン、と車の窓が叩かれる。どうやら警官のようだ。
「何してるの?」
こんなことは日常茶飯事。ストーカー調査の依頼で、こちらが逆にストーカーに間違えられたことも少なくない。ただ、ローカルな探偵事務所の利点として、地域に顔が利く、というのがある。俺が名刺を取り出して身分を示すと、警官はすぐに納得した。
「最近特に物騒だからねぇ」
通り一遍の所持品検査を済ませると、警官は世話話をし始めた。
「この間も大規模なドラッグ密売組織が摘発されてね。山梨で大量の人骨が見つかった、みたいな話もあるし」
世話話に長々と付き合っているわけにもいかないが、警官ならばストーカーについて何か知っているかもしれない。いかにも世話話の延長と言った気軽な雰囲気で、少し探りを入れてみる。
「私もストーカー調査の依頼を受けていまして。そういう話は聞いていませんか?」
警官はああ、と言って少し小声になる。
「うん。最近この辺に住む女性からストーカー被害の相談があってね。それでパトロールを強化してるんだ」
なるほど、一応警察も朔夜のストーカーについての件は把握しているようだ。ただし、それほど直接的な害を被っているわけでは無いので、中々積極的には動きづらい、とのことだった。
「そうですか、お疲れ様です」
このまま話していても、あまり核心的な情報は得られないだろう。軽く敬礼をして話を終えると、俺は再び監視に戻った。
結局その後、ストーカーらしき人物は現れなかった。
◇
覆面調査初日は無事終了。私は自宅に帰る朔夜さんをエスコートしつつ、張り込み中の犬塚さんと合流します。ここで朝まで監視を行い、明日の午前中は仮眠。午後から再び調査、というスケジュールです。
「どうでした?」
「今のところ空振り状態だ、まあ異常なし、という言い方もできるが」
「ふーむ。お疲れ様です」
私が車の助手席に座り、監視をしたり犬塚さんと他愛ない会話をしていたりしますと、スマホがぶるぶると振動します。どうやら電話の様でした。画面には朔夜、と表示されています。
「もしもし?」
『ああ、有羽さんですか?』
「はい。どうしました? なにか異常でも?」
『いえ、そういう事ではないんですが、少し伝え忘れたことがあって』
「なんでしょ」
『明日、私はお休みなのですが、護衛も兼ねて、一緒に外出しませんか?』
ふむ。多少のリスクがないではありませんが、ストーカー被害に悩んでいるならば、息抜きも必要だろう、と私はそれを快諾します。
『ありがとう! 実は冠城ヒルズでやっているビール祭りに行きたくて……』
と、いう事のようです。翌日の待ち合わせ場所などを決めた後、その旨を犬塚さんに報告します。
「そういう訳で、行ってまいります」
「ああ、気を付けてな。俺はもう少し情報を集めてみる」
そういう訳で、二日目の行動が決まりました。犬塚さんは容疑者三人について情報収集。私は朔夜さんの護衛を兼ねて外出のお供です。
その後夜明けまで監視を続けた後、私達は一旦解散し、翌日に備えることにしました。
調査二日目、午後。私は前日にした朔夜さんとの約束通り、彼女の自宅近くのコンビニで待ち合わせをしてから、ビール祭りの会場である冠城ヒルズへ向かいます。
「普段はお仕事で酔っぱらえないから、今日は思いっきり飲むんだ」
と、朔夜さんはるんるんしています。気持ち、昨日よりも砕けた印象を受けます。服装もラフなもので化粧も幾分シンプルですが、それでも道行く人が振り返るような美しさです。
間もなく私達は冠城ヒルズに到着しました。朔夜さんの自宅から、ほんの十分程度の距離です。
冠城ヒルズは高さ150メートル、下層に商業施設と、映画館などの文化施設。上層は高級マンションとして使用されています。冠城町のビルの中でも群を抜いて高く、周辺地域におけるランドマークとなっています。この街のシンボルの一つと言えましょう。
またこのビルは、本件の容疑者である三島圭介の住居でもあります。
私達が敷地内に入ると、祭りの熱気が肌で感じられました。街の内外から人が訪れ、屋外にあるいくつもの屋台で、各国のビールやおつまみを販売しています。周囲に配置された百以上のテーブルは人で一杯。そこここから乾杯の音頭が聞こえてきます。
「さ、早く行きましょう」
朔夜さんは私の手を引いて、早速一つの屋台に並びます。ドイツビール一杯800円。お祭り価格というヤツですが、領収書は出ないので自腹です。
席について素敵な休日に乾杯すると、朔夜さんはジョッキを一気に飲み干しました。日頃の鬱憤を感じさせるような飲み方です。私はあんまり酔っぱらうわけにはいきませんので、昼食代わりのつまみを食べながらちびちび飲むことにします。
……どうしてこんなことになってしまったのでありましょうか。
私の目の前には今、泥酔してテーブルに突っ伏している朔夜さんが居ます。いくら日頃ストレスが溜まっているとはいえ、コレは飲みすぎです。いえ、止めなかった私も悪いのですが。
もし私が力持ちの大男なら、彼女を自宅まで送り届けることもできるのでしょうが、いかんせん非力な女性の身。どうしたものかと途方に暮れていると、一人の男性が近づいてきました。
「ああ、やっぱり朔夜さんだ。どうされたんですか?」
私がそちらの方を見ますと、若い男性がトレイを持って朔夜さんの隣におりました。寒空の下、この場に相応しくないジャージのようなものを身に着け、頭は寝癖でぼさぼさです。すわ変質者かと思いましたが、その顔、見覚えがあります。
容疑者の一人である、三島圭介その人でした。
「ええとすみません。お友達ですか?」
あくまで知らない人間に接するように話さなければなりません。
「ええ、友達というか、まあ、彼女の店の常連ですね」
「そうなんですか。彼女、ちょっと酔ってしまったみたいで……」
相変わらず朔夜さんはテーブルにだるんともたれ掛っています。なんだかとても幸せそうな顔をしています。
「それはお困りでしょう。どうです。私の部屋で休んでいかれては」
ふむ。私は一瞬逡巡しました。女性としては警戒すべきなのですが、彼の素行を調査している探偵としては、願ってもないチャンスです。虎穴に入らずんば虎児を得ず。せっかくの好意ですし、私は彼の自宅に招かれることにしました。
「ええ、申し訳ありませんがこの様子なので、お邪魔させていただきます」
「ええ、お気になさらず。すぐ近くなので」
そう言うと三島さんはぐでんぐでんの朔夜さんに肩を貸して歩き始めました。なんだかお母さんのようです。
「まったくこんなに飲んで、まあ」
いえ、兄と妹、というような感じでしょうか。私も彼女を支えつつ、三島さんの住居に向かいます。
「普段大変な仕事をしていますから、今日はハメを外したかったんでしょう」
と、一応フォローを入れておきました。
◇
調査二日目、午後。朔夜の護衛は詠子君に任せ、こちらは各容疑者についての情報を集めることにする。
まずは料理人の一橋、彼の自宅近辺での聞き込みを行うことにした。一橋の自宅は冠城町北東にある住宅街エリア、その中でも数少ない一軒家の内の一つだ。流行りのレストラン、そのオーナーだというから、都心の一等地に住宅を構えるほどの収入があっても不思議ではない。まあ、地価の高低と住みやすさは、また別個の問題だとは思うが。
ともあれ調査の場所が近いのはありがたい。俺は早速一橋の自宅へ向かった。ふと空を見上げると濃い灰色の雲が空を覆いつつあった。湿った空気の匂いがする。そろそろ雨が降りそうだ。雨中で街を駆けずり回るのもあまり愉快ではないので、俺は手早く調査を終えるために足を速めた。
一橋自宅前、現在は平日の午後二時ごろだから、おそらく本人は在宅していないだろう。もとより本人に話を聞くつもりはない。近隣の住民に、それとなく本人についての噂話などを聞いていくつもりだった。
一橋宅の右隣は同様の一軒家だった。よく手入れされた植木が茂り、家の周りを覆っている。植木の手入れがされているという事は、植木の手入れをしている人間がいるという事だ。つまり、ある程度時間に余裕のある人間が、日中に在宅している可能性が高い。不審人物に思われぬよう服装をただし、すぐ名刺が取り出せるよう準備してから、その家のインターホンを押した。
はい、とインターホンを通じて女性の声で応答がある。
「すみません、私、犬塚というものですが。お隣の一橋さんについて、お話を伺いたいと思いまして」
インターホンの声は、へぇ? と少し怪訝そうな声を出した後、沈黙する。しばらくして玄関のドアが開いて、四十代ぐらいの女性が顔を出した。
「お忙しいところ済みません。私、こういうものです」
と、名刺を提示する。探偵という職業について人が持つイメージは様々だ。ハードボイルドでカッコいい、というプラスの印象を持つ人間もいれば、ストーカーまがいの賤業、というマイナスイメージを持つ人間もいる。
「へー、探偵さんですか」
この女性の表情から察するに、幸運にも前者のようだ。
「ええ、先ほど申しました通り、お隣の一橋さんについて少しお話を伺いたいと思いまして」
「素行調査ってヤツかしらね?」
「まあ、そんなところです」
態度から察するに、噂好きそうな女性である、なかなかに有用な情報が手に入るかもしれない。
「一橋さんですが、近隣とのトラブル等はありませんか?」
「そういったことはあまり聞きませんね。礼儀正しいですし、会えば挨拶もします」
近隣住民との関係は良好、と。
「では何か最近、変わったことは?」
「最近、というわけではありませんが、しょっちゅう誰かを連れ込んでいるみたいですね」
「女性、ということ?」
「いいえ、よくわかりません。でもそんな感じがするんです。独身らしいから、そういう事があってもおかしくないかもしれませんが」
頻繁な来客がある、と。これが何を意味するかは分からないが、なんとなく引っかかる。
「よくわからないというのは?」
「ええ、あの家、平屋のように見えるでしょう? でもどうやら地下室があるらしいんです。そこで何かをやっているみたいですね。何かはわかりませんが」
家に地下室あり。と俺は手帳に書き込む。家が狭いなら二階建てにすればいい。わざわざ地下室を作るという事は、なにか特殊な用途があるという事だ。それは彼の職業と結びつくものなのか、それとも個人的な理由によるものか。
「地下室……ね。どうもありがとう。参考になりました」
丁寧に礼を言って辞去する。本人にこのことを伝えないように、口止めしておくことも忘れない。
一橋という男。目立った奇行は無いが、行動に不透明な部分がある。これがストーカーとつながるかどうかは分からないが、どうにも気持ちの悪い違和感が、俺の頭の片隅に残った。
◇
私達は酔いつぶれた朔夜さんをえっちらおっちら担ぎながら、三島さんの住居に到着します。そこは冠城ヒルズ上層階、いわゆる億ションというヤツで、若くして成功したIT企業の社長などが住んでいるような場所です。
三島さんの住居はそんな場所の一角にありました。玄関を入るとすぐにリビング。この部屋だけでも、私のアパートすべての部屋を合わせたより広いです。しかし調度は比較的質素で、またそれなりに散らかっていることもあり、そこだけに注目するならば、男子大学生の部屋のような雰囲気が醸し出されています。
「お邪魔しまーす……と」
三島さんと私は脱力した朔夜さんをソファに寝かせます。私が彼女のほっぺなどをぺたぺた触っていると三島さんキッチンから水を持ってきてくれました。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
そのまま三島さんは向かいのソファに腰を下ろしました。ゆっくりと足を組んで背もたれに体を預けます。服はジャージ、頭は寝癖でぼさぼさですが、やはりお金持ちらしく所作には優雅さがあります。資料によると年齢は二十五歳ということですが、それよりもずっと大人びて見えます。
「お若いのに立派な場所にお住まいですね」
朔夜さんに水を飲ませて、私も一口コップから水を飲みます。舌がピリピリ。どうやら炭酸水だったようです。
「ええ、お金だけはありますから」
特に偉ぶるでもなく、三島さんはそう言いました。
「どんなお仕事をされているんですか?」
前情報だと、デイトレーダーだという事です。私にはあまりデイトレーダーという職業のイメージが湧かないのですが。
「まあ、為替なんかを少々。仕事場、見てみますか?」
「よろしいんですか? というか、ここが仕事場なのですか?」
「そうです。こちらへ」
と、彼は私をリビングの奥の扉へ誘います。
扉の向こうは、調度のほとんどない部屋でした。あるものは机とPC、それから大量のモニター。
「こんな一杯のモニター、何に使うんですか?」
「まあ、半分は格好つけのようなものですが、同時に色々な情報を把握している必要があるのですよ」
この複数のモニターを用いて、三島さんはたくさんのお金を稼いでいるのでしょう。私には少し想像しがたい世界です。
私が物珍しげにモニタ類を観察していると、机に一つ、写真立が置いてあることに気が付きました。
「これは……」
見てみると、若い男性と少女が写っています。男性はどうやら三島さんのようで、少女の肩に手を置いて優しそうに笑っています。
「ああ、それは私と妹の写真です。ずいぶん前のモノですが」
「妹さんがいらっしゃるんですね」
「ええ、『いました』」
『います』、ではなく『いました』。普段ならなんとなく察して控えるべきところですが、一応これも仕事、と割り切って聞くことにしました。
「……亡くなられたんですか?」
私がそう聞くと、三島さんは少し悲しげに微笑みました。
「ええ、五年前に、交通事故でね」
「そうですか……すみません」
「いいえ、お気になさらず」
私は再び写真に目を遣ります。写っているのは十五歳ぐらいの可愛らしい女の子です。どことなく、朔夜さんに似ているような気がしました。
妹を失い、喪失感と共にこの街に流れ着き、得た金の使い道も分からないまま暮らす彼は、一体どんな想いを朔夜さんに抱いているのでしょうか。失った妹の面影を、朔夜さんに重ねているというのは、あながち考え過ぎでもないような気がします。
「気を遣わせてしまって申し訳ない。リビングに戻りましょうか」
その後しばらくして、酔いの冷めた朔夜さんが三島さんに平謝りするのを聞きつつ、私は三島さんについて思いをはせます。
ストーカーというのは歪んだ欲望の発露、というのが私の認識です。しかし三島さんが朔夜さんを見る目はあくまで優しげだし、そんな三島さんに、朔夜さんも心を許しているようでありました。私が見た限りでは、二人の関係は非常に健全であるように思えます。
その後なんだかんだで長居してしまった私達は、昼も大幅に過ぎてから朔夜さんの家に帰還して解散。私は事務所で少々休憩を取ることにしました。事務所へ帰る途中、ふと空を見ると、雨がぽつぽつと降り始めていました。
◇
さて、容疑者の一人である一橋についての簡単な聞き込みを終え、次に俺が向かったのは二宮の自宅周辺だ。一橋の家からそれほど離れていない場所にあるこの男の住居は社宅らしきマンションだった。家族用のやや大きなタイプだが、銀行の支店長にしては質素な住まいと言えるだろう。
本人が帰宅するにはまだ早い時間だ。妻は在宅しているかもしれないが、『あなたの夫はストーカーですか?』と聞くのはあまりに直球すぎる。言葉を考えるにしても、本人に気取られる可能性がある手段は、なるべくなら避けたかった。
というわけで、ここでも一橋について調べたのと同じ手段を取ることにした。近隣住民への聞き取りだ。とはいえ、社宅だから横のつながりは比較的強いだろう。質問の仕方については十分気を付ける必要がある。そんなことを考えながら、俺はマンションの上層へ向かうエレベーターに乗り込んだ。
部屋の位置については資料によって判明している。二宮の表札を確認した俺は、その隣のインターホンを押す。しばらくして、主婦と思しき女性が出てきた。
「はい」
「お忙しいところ済みません。私、こういうものですが」
丁寧な物腰で名刺を差し出す。この所作は探偵になってから覚えたものだ。公権力の後ろ盾がない分、対象に接触し、情報を聞き出すには細やかな気遣いが必要になる。
「ふぅん……。探偵さんですか」
「ええ、ちょっとお聞きしたいことがありまして」
相手は少し怪訝な様子を見せている。夕食時でもあるし、あまり長々と話すこともできないだろう。俺はあまり時間はとらせないから、と前おいて早速聴取に移る。
「お隣の二宮さんですが、最近変わったところはありませんか? その……女性関係とか」
浮気調査かのように装って訊く。ストーカー被害について説明すると長くなるし、またその必要性も薄い。
「女性関係でしたら、最近どころでなく変わってますよ。二宮さんの旦那さんは、随分女性好きみたいで」
こちらの目的を察したのか、女性は徐々に饒舌になる。噂話が好きなのは、古今東西どこの女性にもある程度共通する性質だ。
「女性好き、ですか?」
「まあ、こんな街に住んでいるから、誘惑も多いんでしょうけどねぇ。キャバクラめぐりが趣味だとか」
随分と金がかかりそうな趣味だ。家族用の社宅に住んでいるぐらいだから、妻と子供もいるだろうに。もっとも、銀行の支店長をしているのなら、金に困ることは無いのかもしれないが。
「たとえば、一人のキャバクラ嬢にご執心、とか?」
「まあそこまでは分かりませんが、奥さん公認らしいですよ? あんまり大きな声じゃ言えないけど……奥さんも元夜蝶なんだとか」
夜蝶、つまり水商売の女性という事だ。
「なるほど、筋金入りの、というわけですか」
「まあ、人の趣味にとやかく言うつもりはないですけどね」
であれば、彼女が朔夜をよく指名するのは、ただ単に男性としての下心ゆえか。ストーカーをするにしても、銀行の支店長ならば仕事をおろそかにするわけにもいかないだろう。容疑者とはいえ、彼が犯人だという可能性は薄いように思えた。
「なるほど、参考になりました。お手間を取らせて申し訳ありません。それとこのことはお隣の二宮さんには……」
秘密という事で、といういたずらっぽいジェスチャーをしたのち、丁寧に礼を言って辞去する。マンションの外に出るとすでに暗くなってきていた。先ほどから降り始めた雨は、徐々にその勢いを増しつつある。近くの喫茶店に入り、俺は聞き取りの結果を手帳に整理する。
ある程度情報は集まっているが、決定的な証拠には欠けている。本日も朔夜の自宅を監視し、ストーカーが何らかのアクションを起こすのを待つとしよう。
◇
降り始めた雨は徐々に勢いを増し、アスファルトを冷たく濡らしていきます。私と犬塚さんは相変わらず朔夜さんの自宅の前、車中で張り込みをしておりました。それにしても、ここ最近はストーカー側に動きがありません。私達を警戒しているのか、それともストーカー行為を辞めてしまったのか。はたまた別の意図があるのでしょうか。
犬塚さんとの張り込みはそれほど苦にはなりませんが、これほど動きがないといい加減焦れてきます。しかしこれも仕事のうち、と自分に言い聞かせ、長い時間を耐えます。
時刻はそろそろ日没を迎えるころでしょうか。
「……おかしい」
ふと犬塚さんが呟きます。
「暗くなっているのに明かりがついていない」
この場所からは朔夜さん宅の窓が見えます。家の周囲を見ることに必死になっていた私は、今の今までその窓から明かりが漏れていないことに気付きました。
「買い物に行っている……にしては、長すぎますよね」
外出するにしても、この街です。十分も歩けば大抵のモノが売っている店を見つけることが出来ます。また、私達に無断でそれほど遠出をするとも思えません。
不安に思った私は、朔夜さんの携帯電話にかけてみることにします。……十数回のコール音。出ません。
「電話に出ません」
「昼寝……にしちゃあ半端な時間だ。確認しよう」
我々は車から降り、朔夜さんのアパートへ向かいます。階段を上り彼女が住む二階、その廊下にたどり着きました。
「待て」
部屋に向かおうとする私を、犬塚さんが制止します。
「……足跡がある」
犬塚さんがさし示す場所を見ると、確かに廊下に足跡が付いています。おそらく雨の中歩いた人間がここを通ったのでしょう。どうやらブーツか、長靴の足跡のように見えました。サイズが大きいので、きっと男性でしょう。その足跡は真っ直ぐ朔夜さんの住む部屋へ向かっています。
嫌な予感がして、私達は急いで朔夜さんの部屋に向かいます。
「……朔夜さん?」
二度のノック、反応は無し。ドアノブをひねると、鍵はかかっていませんでした。
「朔夜さーん?」
応答はありません。が、部屋の電気はついています。ふと足元を見ると、割れた花瓶の破片が落ちていました。一気に不安が胸の中で膨らんで、喉までせりあがってきます。
「ど、どこに……?」
私が不安げに犬塚さんを見ると、なにやら鼻を鳴らして臭いを嗅いでいます。
「……香水だ」
「……香水?」
「香水の匂いがする。朔夜とは違う」
犬塚さんは嗅覚が鋭いのです。そんな彼が言う事なら間違いはないでしょう。
つけっぱなしの照明、放置された割れた花瓶。そこから導き出される結論を、私は口に出せずにいました。
「拉致されたんだ。間違いない」
そうなのです。電気の消し忘れはまだしも、割れた花瓶をそのままにしておくのはあまりに不自然です。拉致されたとしか考えられません。でも、誰が?
ふと、私は思い出しました。ホステスに扮し、一橋さんを接客していた時の事です。彼は男性用の香水をふりかけ、高級そうなブーツを履いていました。これまでの調査結果からも、他二人が犯行に至る可能性は低いように思われました。そのことを犬塚さんに伝えます。
「一橋か……。容疑者三人の中で言うなら、確かに一番怪しい。状況とも合致する」
「しかし、どうします?」
「ヤツの自宅へ向かう。急ごう。彼女が何らかの危害を加えられている可能性が高い」
◇
まったくの不覚だった。監視を怠った一瞬のうちに、不運にも犯行に及ばれてしまった。もしかしたら、こちらの行動を含めて監視されていたのかもしれない。
我々は急いで車に乗り込み、数百メートル離れた一橋の自宅へ向かう。焦燥と不安。また不覚を取った自分自身への怒りが下腹部あたりに渦巻いている。
間もなく一橋の自宅に到着した。明かりはついていない。
「で、どうします?」
「近隣住民の話では、地下室があるという話だった。明かりがついていなくても、在宅している可能性がある」
「インターホンを押して……というのも、間抜けな話ですね」
「緊急事態だ、理由もちゃんとある。やむを得ないが、不法侵入する」
「わかりました。怒られたら謝りましょう」
我々は音もなく玄関前に忍び寄る。日中観察した時には何という事のない平屋だったが、少ない明かりに照らされた家は、状況も相まってまるでなにか悪いものの巣窟のように見えた。
玄関扉の鍵を確認。開いている。やはり在宅しているようだ。そのまま詠子君と共に、するりと屋内に滑り込む。
家の中は静まり返っていた。テレビの音も水音もしない。かといって寝るには早すぎる時間だ。我々は足音を消すため、そして証拠が残らないように靴を脱ぐ。常時持っている薄い手袋をはめ、詠子君にもそう指示する。
さて、ここからはあまり時間をかけずに屋内を探索し、もしいるならば朔夜を発見しなければならない。
目の前には真っ直ぐな廊下が続いている。右手には扉が一つ、左手には扉が二つ。廊下の先には下り階段だ。
地下室。という言葉が脳裏をよぎる。音楽を趣味にしているようには見えない。地下シェルターという可能性もなくはない。しかし、普段どのような使い方をされているかに関わらず、今現在、そこに一橋が、そして朔夜がいる可能性が高かった。
ゆっくりと、足音を消して廊下を進む。屋内の沈黙は我々の不安を煽る。詠子君と視線を交わし、周囲を警戒しながら、我々はそのまま廊下の先、地下へと続く階段を下りていった。
果たしてその先にあったものは、厳重な両開きの扉だった。確かめてみると、随分分厚いもののようだった。防音性も高いらしく、扉の向こうの音を聞きとることはできなかった。此処からは一橋との遭遇の可能性が高い。改めて警戒を強める。隣を見ると詠子君がカチカチになっているので、軽く肩に触れて緊張を解く。
レバー式のノブをひねり、軽く力を加えると、重い扉が手前に動いた。鍵はかかっていないらしい。慎重に中を覗き込むとまたしても廊下。一階のものよりも幾分無機質な印象を受ける。ひとまずは誰もいないようだ。
廊下の奥を見ると、左右に扉が一つずつ。さて。
手がかりもなしに迷っていてもしょうがないので、とりあえず右の扉に聞き耳を立てる。大きな物音はしないが、かすかに人の気配を感じた。
詠子君に目で合図して、ゆっくりと扉を開ける。つん、と消毒薬のような匂いが鼻を突いた。
この場所は一見手術室のように見えた。部屋の中央に置かれたステンレス製の大きな台が存在を主張している。
視線を部屋の奥に這わせると、もぞり、と何かが動いた。アレは全裸の……朔夜だ。朔夜が手錠で拘束されている!
彼女もこちらに気づいたらしく、ガムテープでふさがれた口からくぐもったうめき声を上げる。
「犬塚さん!」
詠子君もそれに気付いて俺を促す。二人して素早く部屋に進入し、待ち伏せがないかどうかを確認する。それがないことを確かめてから、我々は朔夜の元へ駆け寄った。
「大丈夫か?」
全裸の彼女は手錠を掛けられ、腕を上にあげた状態で拘束されていた。当然ながら、激しい恐慌をきたしてぶるぶると熱病に罹ったように震えている。口のガムテープをはがせば、すぐにでも叫び出しそうな雰囲気だ。
詠子君が優しく抱きしめて彼女を落ち着かせ、俺はコートを脱いで彼女にはおらせる。しばらくすると、彼女の震えは収まり、瞳には理性の光が戻ってきた。
俺は声を出さないように、と念を押してから、彼女の口からガムテープをはがした。
◇
「怖かった……!」
朔夜さんは声を殺して泣きながら私にすがりつきました。どんな目的かは知りませんが、突然拉致された上、全裸で監禁されたとあれば無理からぬことでしょう。私だってこんなことをされたらお嫁に行けません。
「大丈夫、大丈夫ですよ。助けに来ましたからね」
「あの男、おかしい。だって、私を食べようと……食べようと……!」
なんだか不吉な単語が聞こえたような気がしますが、今はあまり気にしないことにします。彼女の身柄が最優先という事で、とりあえず電話を掛けることにします。警察? 鯨組? どちらか迷いましたが、多少無理にでもここに来てもらった方が良いと判断し、久慈さんに電話を掛けることにしました。
「俺だ」
と電話口でハスキーな声が答えます。
「私です。赤間探偵事務所の有羽です」
「嬢ちゃんか。どうした」
「済みません。不覚を取りました。朔夜さんが拉致されてしまいまして」
「なに」
「あっ、ですが一応すでに身柄は確保しておりまして。あの、今容疑者の家に居まして、あの」
「怒らねぇから落ち着いて話せ。今どこだ」
「一橋 良の自宅地下室です」
「そこに朔夜はいるんだな?」
「はい、不法侵入して身柄を確保しました。ですが拘束された状態です。一橋も屋内にいると思われます」
電話の向こうでしばし考える気配がします。
「わかった。七分以内に行く。そこで待っていろ」
電話が切れるのと同時に、犬塚さんが入り口の方を振り返ったのに気が付きました。どうやら何かの気配を察知したようです。私は携帯電話をしまい、ポケットから催涙スプレーを取り出して構えます。今この場所に来るとすれば、犯人の一橋以外にはありえません。緊迫が一瞬にして部屋に満ちます。
「来るぞ」
犬塚さんが低い声でそう言います。そのおよそ数秒後に、ゆっくりと入口のドアが開き、男が室内に入ってきました。
百キロはあろうかという堂々たる体躯、柔和そうに見える表情は、まぎれもなく犯人の一橋です。そして彼の右手には、肉厚の包丁が握られています。
「おや、お客さんかな」
彼は少し驚いた表情こそしましたが、それでも余裕のある態度で私達を見ます。灰色に濁った瞳は狂気に歪み、とても店であった男性と同一人物とは思えぬ印象を私に与えます。
「一橋だな。人を呼んだ。観念しろ」
犬塚さんの警告も無視し、一橋はゆっくりとこちらに近づいてきます。
「僕の料理を食べに来たのかな? それとも」
「近づくんじゃない」
「僕の料理になりに来たのかな?」
一橋は凄絶な笑みを浮かべると、包丁を振りかざして飛びかかってきました。躱そうとした犬塚さんは朔夜さんの足に躓いてバランスを崩し、肩口を浅く切り裂かれます。犬塚さんの身体が大きく傾ぎました。
「犬塚さんっ!」
私は反射的に催涙スプレーを発射します。しかし彼我の距離は三メートルほど。スプレーの有効射程からわずかに外れています。
それでもある程度効果はあったらしく、一橋は包丁を取り落して手で顔を覆いました。
「ああっ」
その瞬間を犬塚さんは見逃しませんでした。大きく傾いだ身体そのままに身を大きく沈め、一橋の股間あたりに強烈な掌底を放ちます。いくら体格で勝るとはいえ、この部位を攻撃されればひとたまりもありません。私は女性ながらその苦痛を想像して身をきゅっとします。
一橋が声も上げられず悶絶している間に、犬塚さんは彼に組み付き、体落としの要領で床に投げ飛ばします。どすん、と大きな音がして一橋が転がったのもつかの間、犬塚さんが追撃の踏み付けを頭部に放ちます。ゴン、という鈍い音と共に、頭を踏みつけられた一橋が沈黙しました。
「ふぅ……」
「い、犬塚さん。大丈夫ですか?」
大きく息をついた犬塚さんの肩を見てみると、服が切り裂かれ、少々出血こそしているものの、傷自体はそれほど深くないようです。
「心配ない。かすり傷だ」
「終わった……んでしょうかね。鯨組の皆さんもすぐに到着するそうですし」
「ああ。だが他にも人がいるかもしれない。他の部屋を見てくる。詠子君は一橋を拘束しておいてくれ」
わかりました、と私が返すと、犬塚さんはすたすたと入り口から出て行きました。
◇
廊下へ出て対面の扉を開くと、そこはキッチンだった。店の厨房のような大きな調理台。コンロには寸胴があり、なにやらスープのようなものがとろ火で煮込まれている。
わざわざ地下室にキッチンを作る間取り上の利点などない。それに先ほどの手術室のような場所、全裸で朔夜を監禁していた理由。
……まさか、人を食べていたのか?
嫌な想像が頭をよぎる。あまりに猟奇的な情景を思い浮かべてしまい胸が悪くなる。しかしそう考えなければ今この状況が説明できない。
だとすれば、この地下室は食材の貯蔵室、そして調理室といったところか。
ふと、キッチンの向こうにも扉があることに気が付いた。この奥にはいったい何がある? あるいは見て後悔する類のモノがないとは限らないが、半死半生のけが人がいる可能性も考えられる。鍵はかかっていないようだ。俺はほとんど無警戒に、その扉を開けた。
すると、思いのほか明るい空間に出た。天井にはシャンデリアが煌びやかな光を放っており、部屋の奥にはテーブルがある。高級そうなダイニングセットは白く清潔で、テーブルには肉料理と思しき種々の皿が丁寧に配膳されている。
……しかし、それだけではない。部屋の奥に『ナニカ』がいる。
それは、この空間にとって異質な存在だった。テーブルにさえぎられてはいるが、その人型の上半身は毛とも苔ともつかぬものに覆われている。人と犬のあいの子のような顔面。その口は耳の近くまで裂けている。そして臭い。隠しきれない獣臭があたりに漂っている。
ああ、この種の生き物を俺は見たことがある。人ではありえない存在。人ならざる存在。正常な世界の埒外にある異形の生命体。
それが食事をしている。喰らっているのではない。食事をしているのだ。ナイフとフォークを使い、丁寧に肉を切り分けて。
「誰かな」
俺が呆然としていると、あろうことかその存在が日本語で声をかけてきた。低くからみつくような声だ。思わず答えに詰まる。
「誰か、と聞いている。それとも名乗る礼儀を持ち合わせぬ強盗の類かね?」
しかし俺は、俺の理性は踏みとどまる。この人の存在を愚弄したようなモノに対峙するのは初めてではない。
「名乗る必要はない。お前はなんだ。食人鬼の類か」
努めて冷静を装うが、俺の心臓は早鐘を打っていた。
その存在は両手に持っていたナイフとフォークをテーブルに置き、しっかりとこちらに視線を合わせて答える。その瞳には、確かに知性の光が宿っていた。
「さよう。いやしい死肉喰らいよ。あまり驚かぬようだな? 初めてではないと見える」
「お前のような気持ち悪い生き物を見たことが、という意味ならば、そうだ」
「……なるほど、お主も深淵を覗く者か」
「何を言っている?」
「知らぬふりをせずともよい。眼で判る。お主も理解しているのであろう? 私のような存在が、この世にはまだいることを。人の知る世界の狭さを。この宇宙、いやこの地球にさえ、人の知らぬ世界が広がっていることを」
理知的に話す様子と、醜悪なその容姿はあまりにちぐはぐだ。しかしそれが話す内容は、俺の経験してきたことを正確に言い当てているように思えた。
「何が言いたい」
「この世界にはまだ神話が息づいているのよ。宇宙の神話がな。人はそれを知らぬ。人は無知のゆりかごの中で、矮小な安寧を貪っているに過ぎない」
それは、俺もうすうす実感していることだった。我々が知っている世界はあまりに狭く、そして思いのほか脆い。正気と狂気のはざまを、人は簡単に乗り越えてしまう。そのことを言い当てられたからこそ、俺は少しばかり度を失った。
「それがどうした。俺は乗り越えてきた。向こう側からこちら側まで、何度も戻ってきた」
睨み付けながら絞り出すように言うと、目の前でソレが嗤った。
「戻れぬよ。一度知った人間が戻ることなどできぬ。深淵は常にお主を覗き込んでいるのだ」
しばし、睨み合いが続く。引き下がることはできなかった。此処で引き下がれば、自分自身がそのまま狂気の世界に呑みこまれてしまうような気がしたからだ。
「おっと、人が来たようだ。私はそろそろ退散するとしよう」
大勢の足音がする。おそらく詠子君が呼んだ鯨組の人間達だろう。目の前のソレはそそくさと席を離れ、部屋の隅にあるハッチに手を掛けた。
「最後に一つだけ忠告しよう」
「…………」
「理解しようとはせぬことだ。正気のままでいたいならば」
そう言うと、ソレは素早くハッチをくぐってどこかへ姿を消していった。俺は鯨組の若衆が部屋に入ってくるまで、その場に呆然と立ち尽くしていた。
◇
今、私は赤間探偵事務所内、自分のデスクで報告書を書いております。あの後判明した様々な出来事についても記入しなければなりません。
別室の確認に向かった犬塚さんを見送ってしばらくすると、鯨組の若い人たちが部屋になだれ込んできました。全裸の朔夜さんが羞恥で叫ぶのも構わずに、一橋の身柄を手際よく確保し、朔夜さんを優しく介抱します。その指揮を執る人物は、若頭の久慈さんでした。
とはいえ、事態の収拾をすべて久慈さん達に任せるわけにはいきません。すこし青い顔をして帰ってきた犬塚さんが簡単に状況を確認し、後処理を警察に引き継ぎます。
のちに警察から聞いた話によると、あの地下室には大量の人肉が冷蔵されていたとのことでした。その誰もが、ここ数カ月で行方不明になっていた人々だとのことです。やはり、あの一橋という男性、信じがたいことに人肉を調理していたのです。
それはさておき、私達は朔夜さんを拉致されるという失態を犯したものの、何とか彼女を無傷で助け出すことに成功しました。しかし彼女は恐怖とショックにより精神のバランスを崩し、一旦故郷に帰ったという事を、久慈さんから聞きました。
それから、これは報告書には書けませんが。
犬塚さんはまた変なものを見たのだそうです。いえ、変なもので片づけるのは適当ではないかもしれませんが。とにかく正気の世界にはない何かと出会ったのだということです。別にその生き物を見たかったわけではありませんが、体験を共有してあげられなかったのが残念です。また犬塚さんに重いものを背負わせてしまいました。私は犬塚さんの背中を優しくなでてやることぐらいしかできません。
とはいえ私達は戻ってきました。狂気の只中から、再び正気の世界へ。そうです。それが重要です。もし向こう側に踏み込んでしまっても、私達二人なら戻って来られるのです。もし犬塚さんが取り残されそうになっても、私が引っ張って戻って来させます。それが犬塚さんの相棒としての私の責任です。
書きあがった報告書を犬塚さんにチェックしてもらっている間、私は膝の上に乗ってきたうーたんを撫でます。正気と狂気の境界について思いをはせながら撫でるうーたんの背中は柔らかく温かく、私を非常にほっこりとさせてくれます。そんな私を横目で見て、犬塚さんがふっと笑いました。その笑顔も、この温かさも、私が守るべき大切なもの。たとえ宇宙の神話が襲いこようとも、です。
そんな決意を余所に、事務所の時間はいつものように慌ただしく、しかしどこまでも正常に流れていくのでした。
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