銀色恐怖症
はじめは、車。
その次は、灰皿。
それから、ネックレス。
そして、給食のスプーン。
「――うぅっ」
急にこみあげてきた吐き気に、あたしはたまらず両手で口をおおった。
カレーライスを食べていたスプーンが、床に落ちて乾いた音をたてる。その音とあたしのうめき声に教室の中の視線が集まって、次いで悲鳴があがった。
まわりの席の子たちが、がたがたといっせいに立ち上がってあたしから離れていく。よろめいてぶつかった牛乳パックが、床に落ちて白いしずくを飛び散らせた。
のどもとにせりあがってくるものを、あたしは懸命に飲み込む。口の中に酸っぱい味とカレーの刺激的な味が入り混じって、よけいに気持ち悪くなってしまう。集中する視線に助けを求めても、それはすぐにそらされてしまった。
あたしに差し伸べられる手は、ない。
「たつみせんせい……」
つぶやき、あたしは床に胃の中でぐちゃぐちゃになったカレーライスをぶちまけた。
〇
まぶたの裏からぼんやりとした光を感じて、あたしは目を覚ました。
まぶたを開こうとしたら、なぜかできない。額とまぶたとを覆う手のひらが乗せられていることに気づいて、あたしはその手に触れた。
「……優里、目が覚めたか?」
その低くかすれた声は、巽先生のものだった。それに、あたしはほっと安堵の息をつく。手のひらが離れて目を開けられるようになると、のぞきこむ彼の顔がすぐそばにあった。
「……ごめんね、巽先生」
教室の床に胃の中のものをぶちまけたあたしは、そのまま保健室に運び込まれていた。
「落ち着いたか?」
「はい……」
嘔吐したあとのことが、頭がもうろうとして思い出せない。教室中が大パニックになって、悲鳴や罵声が飛び交い担任の先生だけでは収拾がつかない状態になってしまったのは覚えてる。そしてその騒ぎを鎮めてくれたのが、巽先生だった。
さすが保健室の先生なだけあって、吐瀉物まみれのあたしになんのためらいもなく接してくれた。そして担任の先生にあれこれ指示をして、ふらふらだったあたしを保健室に連れていってくれた。
汚れたブレザーを脱ぎ、ベッドに横になったとたん、あたしは糸が切れたようにことりと眠ってしまっていたのだった。
「早退するか?」
「大丈夫です」
「もう五時間目は始まってるから、もうすこし保健室で休んでろ。ついててやるから」
「片付けとかは、誰が……?」
「クラスの奴らにやらせたから。あとで礼言っとけ」
そう言いながら、巽先生はベッドのそばに椅子を置いてどかりと座り込む。白衣の下のワイシャツもスラックスもしわしわのよれよれで、けれど眼鏡の奥に潜む瞳だけはいつも吸い込まれそうなほどに澄んでいた。
「……先生、ご飯食べましたか?」
「いや。別に今日の給食で食べられるものなかったし。俺もここで栄養補給する」
あたしがこうして保健室に運ばれるのはよくあることで、巽先生が付き添ってくれるのもよくあること。
ベッドのまわりにカーテンをひいて、先生はあたしが眠りやすいように蛍光灯の光をやわらげてくれる。するとなぜか、周りの音が遠ざかっていく気がする。誰も来ない保健室。は、彼とあたしの秘密の空間だった。
静まりかえった保健室の中で、先生は白衣のポケットから焦げ茶色の包みを取り出す。かさかさと音を立てながらその包みを開くと、甘い香りがあたしの鼻腔をくすぐった。
ぱきっ、と、いい音をたてて先生はそれをかじる。たまらずあたしが顔を向けると、彼は「ほかのやつに言うなよ」と念を押した。
「言わないから、あたしにもちょうだい」
布団の端から手を出して、あたしはおねだりをする。先ほど吐いたばかりだというのに、むしろ吐いて胃が空っぽになってしまったからこそか、彼の元気の源をわけてほしかった。
「やだね。俺の大事な主食なんだ」
巽先生は毎日、チョコレートを食べて生きている。給食はほとんど口をつけず、チョコレートばかり食べている。生徒に見つかると面倒なことになるので、いつもこうやって隠れて食べていた。
「今日のカレー、おいしかったよ?」
「吐いたくせに」
「あれは別に、おいしくないからじゃないもん。嫌いなものぺってする先生とは違うよ」
巽先生が給食で食べられるものは、牛乳くらいだ。チョコレートの入ったパンが出ればなんとか食べることができる。昼休みの間は保健室にこもってチョコレートをむさぼり食べている先生の姿を、あたしはいつもベッドで横になりながら見ていた。
「で、今日はいったい何がだめだったわけ?」
二枚目の板チョコを取り出しながら、巽先生は訊いてくる。彼が唯一、あたしの恐怖症を理解してくれる人だった。
「給食の、スプーン」
「……ついにそれまでだめになったか」
苦々しげにつぶやきながら、先生はチョコレートをかじる。するとその甘さにほほを緩めて、でもなにかぶつくさとつぶやいているから不思議だった。
あたしが銀色のものを怖いと思うようになったのは、半年ほど前からのことだった。
「明日から、スプーンは自分で持ってきたほうがいいな。毎度吐かれたら大変だ」
「うん、そうする」
そしてあたしは、苦手な銀色のものが次々と増えていった。最初は車など大きなものだったのに、今ではスプーンまでもだめになってしまった。自分で気を付けることはできるけど、たまたま見つけてしまう銀色のものはどうしようもない。
「なんでこんなに、銀色のものが怖いんだろう?」
「それは俺にだってわかんないよ。優里が自分でつきとめるしかないじゃん」
「それはそうだけど……」
言いかたが冷たい。思わず唇をとがらせるあたしの頭を、先生が乱暴に撫でてくれた。
そして、先生はまたあたしの額に手を乗せる。その大きな手のひらが触れるたび、なぜか心が穏やかになっていくのが不思議だった。
「恐怖症の原因っていったら、小さいころのトラウマとかなのかな」
「トラウマ?」
そう言われても、なにも思い浮かばない。
「でも生まれつきのものもあるしな。よくわかんないから、ちょっと調べてみるわ」
布団を肩までかけなおしてくれながら、先生はポケットからまた新しいチョコレートを取り出す。毎日まいにちたくさん食べているというのに、彼の肌はニキビひとつなくつるりとしてまるで人形のようだった。
「それにしても、あのクラスにはお前のこと助けてやろうと思うやつ誰もいないんだな」
「だって、みんな目の前で吐かれたらいやだって思うじゃない?」
「それにしたって、大丈夫の一言もないんじゃあ、な」
眉間に険しいしわを刻みながら、先生はチョコレートを咀嚼する。彼のそばに行くといつも甘い香りがするのは、きっとその身体がチョコレートでできあがっているからだろう。
「相変わらず、浮いてんだな」
「それは……」
なにも言えない。黙り込んでしまうあたしに気づいて、彼は小さなため息をついた。
そしてまたチョコレートをぱきりとかじると、そのままベッドのふちに手をついて、あたしにおおいかぶさってきた。
彼の唇に触れるギリギリの位置で、あたしは自分の唇でそれを受け取る。彼の唾液がかすかについたかたまりを含むと、濃厚な甘さが口の中いっぱいに広がった。
すこしほろ苦い、ビターチョコレート。舌にしみこんでいくその甘さに、あたしは自分の身体もチョコレートのようにとろけていくのを感じた。
「もう一口、ちょうだい?」
上目づかいにおねだりをするあたしに、先生はもう一口かじり、また与えてくれた。
巽先生は変な人だ。
ごはんはまず、チョコレートしか食べない。そしてよく、他の先生も読めないどこかの国の本を読んでいたりする。授業中、窓際の席からふと外を見れば、なぜかグラウンドに出て白衣のままランニングをしたりしている。
校庭の花壇の世話をせっせとしているかと思えば、ある日突然それをすべて違うものに植え替えてしまったりする。たまに、虫取り網を持って少年のように駆け回る姿を見かけることがあった。
あたしたち生徒からも明らかに変だと思われていた巽先生は、ほかの先生たちにもそう思われていたらしい。ほかの先生に注意されている姿は見たことがあるけど、仲良く談笑している姿なんて見たことがなかった。
そんな巽先生と、あたしはよく一緒にいた。
六時間目の授業を無事に受けることができたあたしは、放課後に近所の公園でぼんやりとベンチに座っていた。コンビニで買ったココアを片手に、夕暮れまでぼんやりと座っているのがあたしの好きな時間だった。
そしてここでぼんやりとしていると、必ず巽先生に会う。彼はあたしの家の近くに住んでいるらしく、しょっちゅう公園の前の道を歩いていた。
最初は、コンビニの袋を下げて歩いていた。その白いビニール袋の中には、大量のチョコレートが入っている。店にあるものを片っ端から買っているらしく、袋から取り出したチョコバーを食べながら歩いていた。
そしてしばらく時間がたつと、彼は犬の散歩をはじめる。その犬の数が、とても多い。両手にたくさんのリードをもって、チワワから秋田犬までたくさんの犬を連れている姿は、散歩というより先生が引きずられているといったほうがいいのかもしれない。
そしてまたしばらくすると、なぜか小脇に猫を抱えて歩いている。外に遊びに行ったきり帰ってこない自分の飼い猫を、これまた何匹も何匹も抱えては家に帰っていた。
それからまたしばらくすると、なぜか鳥かごをもって歩いてくる。次はウサギを連れてくる。とにかくたくさんのペットを飼っているのか、たまにイグアナを肩にのせて歩いているのを見たことがあった。
「……あれ? 優里?」
先生がようやくあたしに気づいたのは、すっかり日が暮れて夜闇が東の空を覆い始めるころだった。近所のスーパーで買い占めてきたのか、彼の手に持ったエコバッグにはこれまた大量のチョコレートが入っていた。
「今日は、ピアノじゃなかったのか?」
「さぼっちゃった」
空になったココアの缶を握りしめながら、あたしはちろりと舌を出した。
「巽先生は、買い物?」
「そう。今日は特売だったからな」
満足げに見せてくれたエコバッグの中には、大量のチョコレートと猫缶やドッグフードが入っていた。はたしてどれが特売だったのかは、考えなくてもわかる。箱買いをしたチョコレートに違いない。
「チョコ、食べたいな?」
「だめだ。昼にあげただろ」
大事そうにエコバッグを胸に抱えながら、彼はあたしの隣に座る。そしてすっかり沈んでしまった西の空を見ながら、冷えてきた空気を吸い込み深く息をついた。
「ココアの缶は大丈夫なのか?」
「……そういえば、大丈夫かも」
言われて、あたしは手に持った缶を見つめる。缶の底は銀色だけど、それを見ていてもとくになにも感じなかった。
「なんでスプーンだったんだろうな?」
「それはあたしにもわかんないよ」
いつものように、給食のカレーを食べて。なんとなく窓の外を見て、今日は先生が外にいないんだなと思いながらスプーンを見たら、急に胸がざわめいた。
そのことを思い出そうとすると、また寒気がしてくる。思わず自分の腕を抱いたあたしを見て、先生は無理するなと言ってくれた。
「共通点がわかれば、対処もできるのにな」
「これからもっといっぱい発作が起きれば、わかるのかな?」
「でもそのたびに吐かれたり倒れられたりしたらたまったもんじゃないけどな」
そう憎まれ口をたたいても、先生は必ずあたしのことを助けてくれる。あたしのことを、面倒な生徒だと思わずに、ちゃんと接してくれるのがうれしかった。
「……先生、今年度いっぱいで学校辞めるって、本当?」
「もう、耳にはいってたか……」
つぶやきながら、先生は空を仰いだ。
「優里も卒業だし、ちょうどいいだろ」
あたしはもうすぐ、中学校を卒業する。あっという間で、濃厚な三年間だったと思う。
受験でピリピリしていたクラスの空気は居心地が悪かったけど、試験がひと段落ついてからはそれもすこし和らぐようになっていた。
「来年から、新しい環境になるだろ。そうしたら、優里もきっとまわりともうまくなじめるようになるさ」
先生が中学校に残っているかぎり、卒業してもこうやって会えると思っていた。けれど、学校をやめてしまっては、これからどうなるかまったくわからない。
「もう、会えなくなっちゃうの……?」
この三年間、あたしを支え続けてくれたのは巽先生だった。
恐怖症の発作が出たとき以外にも、しょっちゅう保健室を訪れるあたしを、先生はいつも黙って受け入れてくれていた。先生がいてくれたからこそ、あたしは毎日学校に通うことができていた。
春からの新しい環境はとても不安だけど、まだ先生と会う機会が残されているから、頑張っていけると思っていた。
「巽先生と、離れたくない」
「優里……」
困ったように、巽先生はあたしの名前をつぶやいた。
「俺もさ、疲れたんだよ。この生活に」
先生も、あたしと一緒だった。
この生活に、なじめない。あたしはあたしの、先生は先生の環境に。それぞれなじむことができないまま、同じ時間を過ごしていた。
だから、先生は仲間だと思っていた。
「あたし、先生と一緒に、遠いところに行きたいな」
それに彼は、なにも言ってくれなかった。
そして、額に手のひらをあててくれる。いつも保健室でしてくれるように、彼の手が触れるとそこがじんわりとあたたかくなる。そして、そのぬくもりですこしだけ心が軽くなるような気がした。
「巽先生……」
間近にある、彼の顔をあたしはじっと見つめる。日が沈んで電気が入ったのか、外灯の光を受けて、眼鏡の縁がきらりと光った。
それは銀色をしていた。
でも、今までは平気だった。特にそれを見てもなにも不思議に思わなかった。
「……優里、大丈夫か?」
なのになぜ、今日になってそれに反応してしまうのか。
「……こわい」
「怖い?」
「こわい。眼鏡が、こわい」
昼休みの時のような、吐き気は感じない。そのかわり襲ってきたのは、ひどい寒気とふるえだった。
「こわい。こわいよ、先生」
自分の身体を抱きしめても、ふるえがおさまらない。奥歯ががちがち鳴るほどに、寒気がする。指先が凍るように冷たかった。
あたしの異変の原因が眼鏡だと気づいた先生は、すぐに外してポケットに入れ見えないようにしてくれる。けれどそれでもおさまらないあたしを見て、ためらうことなく抱きしめてくれた。
「こわくない、優里。大丈夫だ」
泣いている子供をあやすように、先生はあたしの頭をなでてくれる。ゆりかごのように身体を揺らして、過呼吸を起こしそうになっている背中を優しく叩いてくれる。
「たつみせんせい……」
まわりに誰もいないのが幸いだった。あたしは甘えるように、彼の胸に顔をうずめる。そのゆったりとした鼓動に耳をすませて、それに重ねるように呼吸をおさえた。
「ずっと一緒にいて」
吐き出した息とともに、あたしは言った。
「一緒にいて、先生。どこにも行かないで」
「優里……」
あたしを抱きしめる先生の腕に、力がこもる。ふいに空を見上げた彼に続いて、あたしも広がりつつある夜空を仰いだ。
一番星がひとつ、頭上で瞬いている。そのささやかな光を見上げながら、彼は聞き逃してしまいそうなほどに小さな声でつぶやいた。
「俺には、この世界は生きづらいよ」
「え?」
そして彼は、あたしの前から消えてしまった。
〇〇
それから、あたしの銀色恐怖症は悪化する一方だった。
ついに、シャープペンシルの先っぽの銀色にまで、拒否反応をおこしてしまうようになった。そうなってはもう、ろくに授業を受けることもできない。教室と保健室とを行ったり来たりするあたしは、クラスの中から完全に浮いてしまっていた。
保健室の先生に、銀色のものがこわいと言っても真剣に受け止めてくれなかった。それどころか、あたしがクラスでいじめにでもあっているのかと思い、カウンセリングまでしてくれるようになった。
結局あたしのことを理解してくれるのは、巽先生だけだった。
巽先生が突然消えてしまったというのに、彼を探そうとする人は誰もいなかった。
むしろ、みんな巽先生なんていなかったかのように、淡々と毎日を過ごしている。保健室にいるのは全く別人の女性の先生に変わっていて、みんな前からそうだったと言わんばかりにそれを普通に受け入れていた。
巽という名の保健室の先生がいたことを、誰も憶えていない。巽といういもしない先生のことを何度も何度も口にするあたしのことを、ついに頭がおかしくなったのかという目で見るだけだった。
公園のベンチの上で、あたしを抱きしめていた先生は、あの言葉とともに消えてしまった。まばたきひとつのわずかな時間で、抱きしめてくれる腕を失ったあたしは、そのままベンチの上に倒れこんでしまったのだった。
「巽先生……」
どんなにその名前を呼んでも、返事はない。毎日公園のベンチに座って待っていても、犬の散歩をする彼の姿も、チョコレートを買い集める彼の姿も、どこにも見つけることができなかった。
彼の真似をしてチョコレートをかじりながら、あたしは暮れゆく空をただただ見つめることしかできなかった。
あたしは、彼の下の名前を知らない。
あれだけ一緒にいたはずなのに、何も知らない。彼の住所も、連絡先も、何も知らない。
けれど、あのぬくもりだけは覚えている。
なぜあたしは、彼のことをなにも知らないのだろう。
どんなにチョコレートを食べてみても、野良猫と遊んでみても、彼のしていたことを真似ても、知っていることはそれだけだった。あたしがひたすら日常生活を送っているのに対して、彼はおかしなことばかりをしていた。
「たつみせんせい」
彼は消えてしまった。
あたしはそれを、恐れていた。
彼がいなくなってしまうことを知っていた。
「たつみせんせい……」
目に浮かぶ涙をぬぐって、あたしはチョコレートの包み紙を開いた。
ぱきりと、冷えた板チョコレートを噛む。そして、そのしわしわになった包み紙に目を奪われた。
その色は、銀色だ。
釘づけになってしまいそうになる視線をそらそうと、あたしはとっさに外灯を見る。公園の端にぽつんとたたずむ、夜道を照らすための外灯。細い柱の上に、ちょこんと乗ったランプと、それを覆う傘。
それもまた、銀色だった。
「……いや」
またあの寒気が、あたしを襲った。
銀色の、外灯。それが夕焼けの空にぽつんとたたずんでいる。茜色の空の上を背に夕日を浴び、それは煌々と輝いている。
夕焼けの空に浮かぶ、銀色のもの。
「――銀色、の」
まるで夕日に吸い寄せられるかのように、あたしは立ち上がった。
そしてそのままふらふらと、歩き始める。銀色の時計に吸い寄せられるように――いや、銀色のあれに、吸い寄せられるように。
あたしの大切なものを奪ってしまう、銀色のそれに。
「巽先生!」
叫ぶと、彼はちゃんと返事をしてくれた。
「優里!」
誰もいない、学校の屋上。立ち入り禁止であるはずのそこの鍵を開け、彼は一人で佇んでいた。いや、一人ではなくいつも連れているペットが一緒にいる。でも、この屋上にいるのは彼一人だった。
「どうしてここが……?」
目を真ん丸に見開いて、彼は声を張り上げながら叫ぶ。強い風が吹いて、消し飛ばされそうな声をあたしは必死に聞いた。
「行かないで! 先生!」
茜色の空から、お迎えがやってきていた。
銀色の乗り物が。
「行っちゃいや!」
夕日を浴びながらやってきたそれは、円盤のような形をしていた。窓も出口もわからないつるりとした曲線を持ったそれは、下から強い光と風を吹き出し飛んでいるようだった。
その光に、犬や猫が吸い込まれていく。
彼はかつて、それに乗ってやってきたのだ。
だから、この世界は生きづらいと言っていた。学校の人たちと積極的にかかわろうともせず、校庭の土を掘り返してはいろいろと調べ物をしていた。たくさんの生き物を飼って、連れて帰る準備をしていた。
「この星の情報もだいぶ集めたし、俺の仕事もいったん終わりだ」
「帰っちゃうの?」
「ほかにもいろんな場所に降りて調べてる仲間がいるから、合流していろいろ話し合いたいんだよ」
学校の屋上に、変なものが浮かんでいる。それなのに、騒ぎになる気配は一向になかった。それどころか、部活動の生徒の声もなく、グラウンドを見下ろせば誰もいない。突然人が消えてしまったような奇妙なそれは、保健室での秘密の空間に似ていた。
吹き付ける風に飛ばされそうになりながらあたしがかけよると、先生は手を握って支えてくれた。
「そっか。だから優里は、銀色のものがこわかったんだな」
先生はひとり。納得したようにうなずいた。
あたしは、その乗り物を見たことがあった。
そして彼が、そこから降りてきたのも知っていた。
「優里に俺のこと忘れさせてたはずなんだけど、どっかでやっぱり覚えてたんだな」
巽先生は宇宙人。
だからいつか、銀色の乗り物に乗って帰らなければならない。
銀色のものが、先生を連れて行ってしまう。
「だからあたし、銀色が怖かったんだ……」
先生のことを待ち、空で待機するその乗り物に向かって、あたしはつぶやいた。
「俺にはやっぱり、故郷が一番住みやすいよ」
「でも……」
残ってほしいと、あたしは言えなかった。
まともな食事をとれない理由も、今ならわかる。周りの人とうまくコミュニケーションをとれない理由も、よくわかる。彼はいつも、愁いを帯びた瞳で空ばかり見上げていた。
そんな彼に、無理して残ってほしいなんて、あたしには言えない。
「……あたしも、一緒に連れてって?」
制服のスカートをぎゅっと握りしめながら、あたしは言った。
「犬とか、猫とか、連れていくなら。人間だって必要でしょ?」
「なにをバカなことを……」
呆れたようにため息をついて、彼はあたしの頭に手を乗せた。
「お前も一緒に帰るんだぞ、ユーリ」
「……は?」
宇宙船から、いっそう、強い風が吹いた。
「俺は生き物とか土とかそういう生物とか物質を調べる仕事。ユーリは人間に溶け込んで暮らして、生活や文化を学ぶのが仕事だろ」
「言ってる意味が、よくわかんないんだけど」
「俺たちがちょちょっと記憶を操作して、ユーリは地球人だって思いこませたんだよ。でもユーリ、人間生活に溶け込めなくてしょっちゅう変になるから、メンテナンスするの大変だったけどな」
ほほをつままれぐいぐいと引っ張られ、あたしは間抜けな声で「だって」を繰り返す。そんなこと突然言われても、理解なんてできるわけがない。あたしはこの星に生まれて、宇宙人の存在なんてまったくわからないまま今まで生きてきたのだから。
「三年間、一緒に地球に降りて調査をするのが俺たちの任務だった。だからユーリは卒業して、俺は学校をやめるっていうのが一番いい消えかただと思ったんだけど、やめた」
「……どうして?」
「ユーリが限界だったから。変な恐怖症を起こして、情報収集も何もできなくなったから」
そして彼は、あたしの手をとった。
「卒業式まで待とうと思ったんだけど、もういいだろ。ユーリも一緒に帰るぞ」
「えっ」
腕をひかれて、あたしは思わずたじろいでしまった。
「なんだよ。連れてってって言っただろ」
「いや、でも……」
事態が、さっぱり呑み込めない。
そんなあたしの額に、先生はまた手をあてる。まぶたまでも手のひらで覆い、視界をふさがれて戸惑うあたしの唇を唇でふさいだ。
その手のひらが、ぬくもりとともにぼんやりと光っているのがわかる。いつもこうして、彼があたしの記憶に蓋をしていたのだと気づくと、吐息とともに彼の唇が離れていった。
その唇に、あたしは懐かしさを感じた。
「あたし……ずっと前から、先生と一緒にいた?」
それに、満足げに彼はうなずいた。
「地球はまた来てもいいな。食料はほとんど食えるもんじゃなかったけど、チョコレートだけはおいしかった。たくさん買いだめしたから、しばらくはもつぞ」
あたしたちの頭上に、飛行船から白い光が降ってくる。まるで雲の切れ間からのぞく天使の梯子のように、それはあたしたちを導いてくれる。
「船に戻ったら、全部思い出すようになってるから。心配しなくても大丈夫だ」
ついに光の梯子があたしたちに差し伸べられて、先生はふいに照れくさそうに笑った。
「記憶がなくなっていても、俺のことを求めてくれるっていうのは、やっぱりうれしいな」
「たつみせんせい……」
「先生っていうのも、船に戻ったら呼ばなくなるさ。さぁ、行こう」
彼が梯子に手をかざした瞬間、あたしたちの身体が強い光に包まれた。
そしてあたしは、自然とこうつぶやいていた。
「――タツミ。つぎ地球に降りるときは、ちゃんと恋人同士のままにしてよね」
END