エピローグ
俺が目覚めた先に有ったのは、見慣れている黄ばんだ天井でも、新しく引っ越したばかりのアパートの真っ白な天井でも無かった。
緑だ。
一面グリーンという異様な天井を数秒眺めて、ようやく「病院」という単語が思い浮かぶ。普段お世話になることなど、定期予防注射ぐらいなので、なかなか思い出せなかったのだ。
しかし緑というのも慣れない。緑は視覚的に良いというし、安らぎや落ち着きを与えるから白よりかはマシだろうと、近年全世界共通で緑に塗り替えたらしいのだが……こうも塗りまくってあると、逆に落ち着かなくなってしまうような気がする。
窓から光が差し込んできて、眩しいと感じ、ベッドから体を起こそうとすると、腹部の辺りに重力を感じた。
なんだと思い、顔を上げてみると、そこにはソフィアが顔を俺の体に埋めて、ぐっすりと眠っていた。
頬には涙の流れた跡があったが、それでも彼女の表情は安らぎに満ちていたので、邪魔するのは悪いと思った。
起き上がらず、ベッドに体を預ける。まだ朝も早いようだし、もう少し寝るとしよう。
目覚めれば、夕方だった。
ソフィアも同タイミングで目を醒ましたらしく、目を眠そうに擦っていた。
やがて――ソフィアは俺が起きた事に気付くと、勢いよく抱きついて来た。
「おわっ。ソフィア、ちょ、ちょっと……」
――離れてくれ。そう言おうと思ったが、ソフィアが瞳から滴を零しているのを見て、何も言えなくなった。
代わりというように、俺はソフィアの頭にポン、と手を置いて、
「心配させて、悪かったな」
そう謝罪した。
ソフィアは顔を上げて、
「エイジが無事だったなら、良い」
――でも、もうあんな無茶はしないでと、少女の瞳は告げていた。
しかし、と俺は思いだす。あのピエロと、最後に起こした戦いを。
俺はあの時、この少女と繋がっていた。
最初の頃、俺は少女の瞳を見詰めた瞬間、一瞬で別の世界に誘われたが……今なら分かる。あの世界は少女の心象風景なのだ。
そして、それが彼女の宝具でもある。
使用者の心と、他者の心が繋がった時、繋がった他者に莫大な、無限とも言える力――もっと言うなら、宝具専用のガソリン見たいなもの――が供給されるのだ。
なるほど、それならピエロや他の奴らが狙ってきてもおかしくない。宝具は使用制限が無くなれば、誰でも最強に等しい力を手に入れられるのだから。
そして、ピエロが『壊した』と言っていたのは、予測するにきっと心の事なのだろう。心を壊す事によって心の防壁を脆くし、簡単に少女と繋がる為に、ピエロは少女の心を壊した。そう考えれば、辻褄があうかもしれない。そもそも、少女がベランダから飛び降りる事だって、極度の恐怖を与える事による、心を壊す事の一環なのだろうし、少女をわざわざサーカスなんて事をやらせていたのも、適度に希望を与えることで、絶望して壊れた時の、その壊れ方が激しくなる。例え途中で助けに誰かが現れた所で、その希望を少女の目の前でへし折れば、結果的には少女に絶望を与える事になる。
絶望を与える為の、無慈悲かつ、陰惨な計画。
あのピエロにどんな考えがあったにせよ、とても許容出来る事ではない。
でも、救えた。
救う事が出来た。今になって、そう実感できる。
でも―――――
最後に生み出した、あの扉。そこから生み出された、大量の殺戮兵器。
あれは一体何だったのか。否、何かなど分かっている。俺自身のアビリティの、『想像したものを、現実に創り出す』能力であることは、重々理解している。何故なら、俺自身が使ったのだから、分かって当然だ。だが、あの時の俺は、あんな大量の武器群など全く想像していない。そもそも、あの中の一つでも想像し創り出せはしない。だが、あの時何故あんなにも生み出されたのか?
まあ、今はコイツを守れただけで充分だ。そもそも、そんなこと分かった所で、別にどうでも良いだろう?
俺はソフィアの頭を撫でつつ、漠然とそんな事を考えていたのだが、
「お兄ちゃん、大丈夫―――」
バン! と騒々しい音をたてて、部屋の扉から現れた霧果の顔が、心配そうな表情のまま、凍った。
どうしたのだろうかと心配になってくるぐらい、長い間硬直した後、顔が一瞬で般若になった。
俺に抱きついたソフィアは、その顔を見て余計に恐怖を感じたのか、さらに強く抱き締めてくる。
霧果の顔が般若から閻魔大王になった。
「結城衛士。貴様は……灼熱地獄の刑だ!!」
「き、霧果? 口調が変わっているし、なんだか後ろに死霊の軍団が見える気がするんだが?」
どうも閻魔に乗っ取られたらしい。
霧果は暗く冷たく、見た者がゾッとするような笑みを浮かべて、霧果の宝具であるハンマーを生み出した。
「やばいな……」
以前を思い出し、思わず背筋が凍る。
過去にも霧果が似たような状態になった事があるのだが……その時は霧果のハンマーは半径五百メートル、直径一キロ、長さ五百メートルの大きさまでハンマーが巨大化していた。霧果の宝具の能力は巨大化(質量は変わらない)だが、しかし、いくらなんでも常識を逸した巨大さだった。あそこまでだと、宝具が暴走したんじゃないかと見紛うほどである。
過去の惨状を思い出し、如何にして止めるか思案する。隣ではソフィアが、
「エイジ……」
と、不安で縋って来るような声を出しているので、何が何でも止めねばなるまい。
しかし、前回の時は霧果が消費しすぎて気絶したので、何とか止まったが、残念ながら被害は食い止められなかった。しかし、今回は場所が場所なので、否が応でも止めなくてはいけない。しかし、そんな方法は、頭の悪い俺には、何一つ思い浮かばなかった。
どうする、と考えるが、しかしこうしている間にも霧果のハンマーははち切れんばかりに膨らみ始めている。
もうだめか、そう諦めかけた時、
「霧果さん、頭冷やして下さい!」
一つの影が声と共に現れ、霧果の服の襟首を掴むと、エイ! という間抜けな掛け声と共に強烈に床に霧果を叩きつけた。
「ゴォウフ」
勢いよく肺から空気を吐き出した霧果は、したたかに頭を叩きつけたらしく、完全に沈黙していた。息をしているから生きているだろうが、記憶障害等の後遺症が心配だ。
一方、霧果を叩きつけた影はといえば、
「はっ!? 日頃の鬱憤が溜まってて、思わず手加減なしでやってしまいました!!」
三木原さんが、口元に薄ら笑みを浮かべながら、まるで謝罪のような事を言っていた。きっと確信犯なんだろう。
「三木原さん、いくら柔道二段でも、それはあまりにも柔道の精神に反していると思うだけどね?」
後から、稔が苦笑いを浮かべて病室に入って来る。
「柔道二段?」
完全に初耳だ。柔道というのは、CQCに近いものらしいというのは聞いた事はあるが、詳しくは知らない。だが、二段というのが段位の中でも相当上であるという事は理解出来た。
三木原さんは妙にスッキリした顔で、
「学生時代は柔道にハマっていたんですよ。はまり込んだおかげで、全国大会の決勝まで進出する事が出来ました」
全国大会と言っても、日本全体でいう「全国」では無い。それは一昔前までの話で、現在では真の意味での「全国」。つまり世界大会となっている。つまり、三木原さんは日本で一番柔道が強いのだ。今はどうか知る由も無いが。
「元々、三木原さんはボディガードのつもりで雇ったっていう意味合いが強いからね。でも三木原さんが、『それだと立っているだけで、働いておらず、給料を貰うのが申し訳ない』というから、メイドをして貰っているんだ」
「それが働くどころか、迷惑にしかならなくなってしまいまして……」
稔の説明に、三木原さんは辟易した様子で呟いた。
「良いじゃないか、最近三木原さん頑張ってるし。このままなら、好きな人を振り向かせる事が出来るかもしれないよ?」
稔の勇気づけるような言葉に、三木原さんは顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「み、稔さん! 突然何を言い出すんですか!!」
とか言いながら、ちょくちょくこちらの顔を窺っている。一体何なのだろうか。
そんなやりとりを行っていると、稔がふとこちらを見て、
「やっぱり、君は凄いね。衛士君」
唐突に再確認するように言った。
「唐突に何ですか?」
不審に思い、聞いてみる。
「やっぱり、君はその子の心を開いたんだね」
そう言った時、一瞬だけ、稔の顔に陰が差した気がした。だが、ふと気付けば、いつもの稔らしい笑みが浮かんでいた。やっぱり気の所為だろうか?
稔はソフィアに近付くと、手を差し出した。
「こんにちは、お嬢さん。前にも会ったと思うけど、改めて自己紹介しよう。結城稔です。よろしく」
ソフィアは差し出された手をジッと見詰めたが、しばらくすると、身を少し引いて、こちらに寄せてきた。意味が分からなかったのかもしれないし、稔という人間が、まだソフィアの中で信用出来ていないのかもしれない。
「やっぱり、僕はまだ信用されていないみたいだね」
稔が、何かを諦めたような、悟った様な表情で、差し出した手を引いた。
釈明をすべきかと思ったが、ソフィアは不安げに俺の襟をチョンチョンと引っ張った。
やっぱり、一番怖い思いをしているのはソフィアなのだ。
俺はソフィアを宥めつつ、一つ気になる事があって、稔に問う。
「あのピエロは、どうなったんだ?」
全くもって、あの後の状況が把握できていない。もし捕まっていないなら、それだけソフィアの周りの危険度が増してくる。聞くに越したことは無かった。
稔は口許に手を当てて、
「これは僕もほんの少し前に話を聞いたばかりなんだけど……あのピエロは大量殺害に拉致監禁、不法侵入とか、色々罪があるからね。現在では地下独房で死刑を待っているよ」
現状の世界に、裁判は存在しない。
というのも、数が限られてくる裁判所に、山のように積み上がる訴訟の数々は、裁き切れなくなってしまったからだ。
その原因の一端は、宝具にある。
知っての通り、宝具は物理法則を無視した能力を持つ。つまり、それは誰でも一つは殺戮のツールを持っているのと変わらない。最近では、宝具の暴走を抑える為のワクチンを開発したという話だが、実際はワクチンなどでは無く、ナノマシンなんだそうだ。曰く、ナノマシンによって、脳内から宝具を形成する時に送られる信号―――F信号と呼ぶそうだ―――を遮断し、宝具の使用を制限しようという目的だったらしいが、ナノマシンの故障によって、別の信号が遮断されてしまい、危うく命を落とす所だったという事例から、回収騒ぎとなってしまい、結果現状の人類は、誰でも簡単に人を殺せる時代となってしまったのだ。
その所為で、一日の起きる殺傷事件の立件数は優に一万を超えていた。当然、世界全体での話だが、それでも相当数だろう。
この膨大な数の立件数を、効率良く裁くために生み出されたのは、スーパーコンピューターである『ジャッジメント』だ。
世界でも最も優れたスパコンと言われるそれは、全ての道徳観念を頭に叩き込んでいて、公正な裁決を下すことができる。事件の情報や、その人物の精神状態をもコンピューターで計測し、法律に基づく判決を、即座に下すのだ。
一秒間に三十件の判決を下す、『ジャッジメント』は、毎日五回は点検され、暴走や故障を起こさないよう、万全を期している。これが止まった瞬間、世界は瞬く間に事件で大忙しになるのだ。否が応でも働かせる必要があった。
今回は、ピエロの殺人が何十人にも及んだため、それだけでもう死刑なのだろう。
その迅速な判断は、無慈悲に等しい。
だが、今回の場合は、それでいいと思える。きっとあの男は、服役後もソフィアを付け狙う。その事を考慮すれば、この結末が最良なのだ。
「とにかく、ハッピーエンドということで、良かったじゃないか」
稔の言葉に、俺は率直に頷いた。こればっかりは、その通りだろう。
誰かのために、自分は動くことができた。
その事実は、俺にどんな変化をもたらしているのだろうか?
柄にもなく、そんなどうでもいい事を、期待してしまった。
いや、それこそが、一番の変化なのかもしれない。
「エイジ」
隣で、幸せそうに表情を綻ばせる、ソフィアが呼びかけた。
「何だ?」
「その、ありがとう」
なんだ、そんな事。今更、
「何を言ってるんだ」
当たり前のことを言われて、思わず笑みが浮かぶのを自覚した。
「約束したじゃないか、守るって。当然だろう?」
これからがどうなろうと、知ったことではない。
迷う必要がない。その必要性すら感じない。
俺はただ、約束通り、
君を守るだけだ。




