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「……ソ…フィア……?」
何故、と問いかけるような少年の声に、ソフィアは思わず安堵した。
遠くから見えた少年の姿が、まるで死人のように思えたからだ。
少年の周りには、腹の辺りから小さな血溜まりができていた。でも、それだけでは無く、少年の体中に、擦り傷や、切り傷が無数にあった。
本当に、ぼろぼろだった。
でも、生きている。
それだけが、少女にとって、唯一の救いだった。
同じく声に反応したあの男が、こちらに舐めるような視線を送ってきて、全身に恐怖が走り、総毛立つのを感じた。逃げ出したくなったが、それでも逃げなかった。
「わざわざ戻って来るとは、驚きですねー」
あの男の耳障りな声が、全身に突き刺さった。
「折角逃がして貰えたのに戻ってくるなんて、そんなにこの少年の事が好きなんですかー?」
ソフィアは否定せず、受け流して、エイジの許へ歩いていき、そしてエイジを守るように、あの男と対面する。
「エイジを、これ以上苛めないで」
それがソフィアの、これ以上ない確固たる意志だった。
「ソフィ…ア、どうし…て……」
懸命に掠れた声を出す少年に、思わず泣きつきたくなる。だけど、泣く事もしなかった。何故なら、
「エイジが私を守るなら、私もエイジを守る」
ソフィアは、少年を助けに来たのだから。
大切なものを、失わない為にも。
「だめ…だ、ソフィ…ア。早く逃げ―――」
「できないよ」
少年の呼び掛けに、一瞬で反対した。
「エイジを見捨てて、自分だけ逃げるなんて、そんな事、私には出来ない」
「ソフィア……」
少年は立ち上がろうとしているが、腕を動かすので精一杯のようだった。
「ククク、まるで悲劇のヒロインを見ている気分ですねー」
あの男は、ここまでの全てを否定するように、言った。
「『苛めないで』? もしかして、それでなんとかなるとでも思っているんですかー? もしそうして欲しかったら、なんらかの交換条件でもありませんとー」
「分かってる」
そんな理屈が通用しない事ぐらい、ソフィアは充分すぎるくらい承知していた。
だから、何を犠牲にしなくてはいけないかも、分かっている。
「私は、どうなってもいい。だから、エイジはもう苛めないで」
何の躊躇いも無く、言い放った。
「な……!! ソフィア、何を言って……!?」
後ろでエイジが、驚くような、それでいて反対するような声を上げる。
だが、ソフィアはとりあわなかった。
前方であの男が、ニタア、と嗤う。
「いいでしょうー。それなら―――」
と右手を突き出して、鎖を一本生み出す。
「ここで、拘束させて頂きますー」
バン、と鎖が拘束で射出され、ソフィアのすぐ脇を通り抜けた。そして腕が振るわれ、鎖がソフィアの体に当たり、クルクルと巻き付いていく。
恐怖で足が竦みそうだったが、それでも立ってあの男を睨みつけた。
「良い表情ですー」
あの男は、それを見て狂ったように嗤った。
それを見て、一瞬過去を思い出し、逃げ出したくなる恐怖が蘇る。だけどソフィアは、そのたびに、昨日の事、今日の事、エイジと過ごしたことを思い出して、勇気を貰った。
これで、エイジは助かる。
そう思い、心から安堵した。
「それじゃあ、やることも終わりましたし、帰るとしますかねー」
あの男は、ソフィアを招くように手を広げて、嗤う。
「あ、そういえば、そこの少年を苛めないという約束でしたねー」
それが今更どうした、とソフィアは疑問に思う。
「このまま悪戯に放置しても可哀想ですし、それだと彼を苦しませる事になりますからねー。だから、」
まさか、とソフィアは背筋に悪寒が走る。
その悪寒を裏付けるように、あの男は左手をエイジに向けて突き出した。
「止めて!」
ソフィアはエイジの前に飛び出ようとするが、
「おおっと、危ないじゃないですかー」
あの男が強引に右腕を広げ、ソフィアの体はエイジから突き放された。
そして、あの男の左手に光が集まっていく。
「止めて」
ソフィアは訴えるように嘆願するが、あの男はただ嗤うだけだ。
左手にはもう、鋭い切っ先の付いた鎖がある。
自分はもう、拘束されてしまっている。
エイジを助けることは、もうできない。
「エイジ!!」
ソフィアは、力の限り叫んだ。だけどもう、彼の体はだらりとして動かない。意識があるのかどうか定かではない。
だけど、ソフィアは叫んだ。
もう一度、力の限り、彼の名を呼んだ。
「エイジ!!」
しかし、その声と同時に、無慈悲にも鎖の弾丸は、彼の頭を穿つ軌道で発射された。
「私は、どうなってもいい。だから、エイジはもう苛めないで」
「な……!! ソフィア、何を言って……!?」
ふざけるな、と俺は思った。
このままではいけない。彼女が攫われてしまう。
だが、その言葉を紡ごうとしても、続かない。
意識は段々と暗闇に沈み、埋没していった。
ダメだと、分かっているのに。
救いたい、そう願っているのに。
それでも、ダメなのだろうか? 自分が初めて望んだ願いは、神様には受理されないのだろうか?
例え、この身を犠牲にしても?
それなら、あまりにも理不尽すぎるではないか?
あまりにも酷過ぎるではないか?
こんなふざけた運命があって良いのか?
こんな結果で、満足できるのか?
バッドエンドで満足できるのは、実らない願いで終わるのを、良かったなんて思えるのは、幻想だ。
現実に起きていいものじゃない。
起こして良いものじゃない。
例えどんな事があっても、そんな事にだけは、絶対させない。
このまま、終われない。
絶対に、終われない!!
「エイジ!!」
自分の名を呼ぶ少女の声が、暗闇の中に、一線の光を差した。
約束した筈だ、守ると。
このまま、ピエロの手には渡させない。
指一本、触れさせたくない。
それだけをこなせる、力が欲しい。
否、力など要らない。
その為の力は、既にこの体にもう、宿っているのだから。
守るための力。叶えるための力。
その夢を叶えるための力がもう、この身には宿っているのだから。
「エイジ!!」
もう一度、声が聞こえた時、俺の体にはもう、痛みも、疲れも、微塵も残されていなかった。
目を開き、迫る光をしかと見据えた。
「エイジ!!」
少女は叫ぶ。少年を呼び覚ますために。守りたいものを守るために。
「これでもう、終わりです」
ピエロは嗤う。より明確な絶望を与えるために。
そして少年は、
ふらつきながらも立ち上がり、自らを穿たんとする鎖を、見ることもせずに斬り払う。
「そんな!?」
ピエロが嗤うことを止め、思わず驚愕するが、少年は何も言わない。
最早、言葉を紡ぐ必要性すら感じない。
誰が何と言おうと、自分がやるべきことは、はじめから決まっているのだから。
その眼光だけが、静かに語る。
これ以上、やらせはしないと。
「エイジ!!」
少女が、泣きながら少年に近寄る。
させてなるものかと、ピエロは鎖を手繰るが、次の瞬間には鎖は爆散し、中に消え去った。
ここまで来て、少女すら取り戻された。
ピエロは改めて驚愕し、彼らを見る。
俺とソフィアは、互いに助かった喜びに、抱き合った。
しかし、いつまでもそうはやっていられない。
ピエロは、もう迫ってきているのだから。
だが、焦りは感じなかった。恐怖は無かった。
絶対の安心と、絶対の覚悟が、俺達をそういったものから、守っていた。
後はもう、決着をつけるだけだ。
「ソフィア」
俺は少女に呼び掛ける。
「エイジ」
少女も呼び掛けに応えた。
「一緒に行こう」
二人で手を取り合い、ピエロに向き直る。
ピエロは見るからに、うろたえていた。とても滑稽な姿だった。
もう、大丈夫と、握った手を、包むように、守るように握り締め、握り返される。
その瞬間、見ていた風景はガラリと変わった。
そこは腐敗臭漂う死屍累々とした、先程までの場所とは、打って変って全く別のものだった。
そこは、花畑だった。真っ白な睡蓮が、咲き誇っていた。
その世界はとても幸せに満ちていた。
視界の先、少女が笑みを浮かべて居る。
俺は手を差し出した。
少女も手を差し出す。
二つの手が繋がった時、
少女と俺は、繋がった。
少女から、湧き出るような力が与えられる。
きっとこれが彼女の能力。
心を繋げたものに、無限の力を分け与える。
否、これはきっと、彼女からの一方通行の力ではない。
互いの心で生み出す、圧倒的な信頼の証なのだ。
俺は、その力に、何か別のものが反応したのが分かった。
それは、もう一つの自分の力。夢を生み出し、叶える力。
夢を現に、引き出す力。
夢と現の境界を、繋げる力。
ある意味で、宝具そのもの。
その深奥が、ついに目覚める。
ピエロは気付いた。
二人の少年少女が、光輝き出していることを。
地獄を体現したとも言えるこの場で、地獄に救いをあげる仏のように。天使のように。
遍く照らし出すように。
少年は剣を掲げる。
そして、目の前を切り開くように、ストン、と剣を振り下ろした。
一体何を、とピエロが何もかも忘れて見入った時、
少年と少女を囲うように、
後方から、真っ白な扉が幾つも現れた。
徐々に、その扉に閉ざされた先が、姿を現す。
唐突に、開け放たれた。
その扉の中には、光が莫大にあった。
まるで、人の夢を漠然と映し出しているようなそれは、やがて扉から出て、形を創りだしていく。
それは武器だった。
幾千もの光が、少年の心を映し出すかのように、次々と変化していく。
そこには、ありふれた拳銃もあった。
剣もあった。機関銃もあった。機銃も、機雷も、手榴弾も、ライフルも、ミサイルも、戦場槌も、弓矢も、ロングソードも、エストックも、ハルバードも、バスタードソードも、フランベルジュも、刀も、荷電粒子砲も、グラディウスも、クレイモアも、グレートソードも、時限爆弾も、核爆弾もあった。
幾千、幾万の、おおよそこの世に存在する兵器が空中に展開され、空を埋め尽くしていた。
(なんですか、これは)
その全ての標準が、自分に向けられている。
そう思っただけで、足からすべての力が抜け落ちるようだった。
(こんなもの、幾らなんでも常識外れすぎるではありませんか!!)
今、目の前で広がる光景は、どんな景色よりも壮大で、どんな景色より異様だった。
「くっ!」
苦し紛れに、両手から同時に二十四本の鎖を出した。これが今できる限界だ。
放つ。
射出の途中で動きを加え、方向を縦横無尽に変化させる。
「これでどうですッ!!」
しかし、
「無駄だな」
突如幾つかの剣が一瞬にして光に戻り、形を変えて再生する。今度は盾となった。
盾になった幾つかが、黄金の鎖の進む軌道を阻む。ガキィ、と黄金の鎖は弾き飛ばされた。同時に盾も壊れたが、しかし光になった瞬間、バラバラに散って再集合し、新たにガトリングやミサイルランチャーを精製する。
こうなったらと、ピエロは周りを見回し、逃げ場を探す。もう百メートルも飛ぶことが出来ないが、姿を隠す為なら近場でも構わない。一瞬で消え去れば、向こうだって攻撃のしようがないはずだと。
だが、どこに?
気がつけば、前にも後ろにも、取り囲むように武器が空に構えられていた。その間はたったの数十センチしかない。しかも、見渡せば、四方百メートル以上に、もう早すでに武器が出現しているようだった。
「無駄だって、言ってるだろうが」
とどめというように、少年は突き刺すように言葉を放つ。
「……こんな所で、終わる訳にはいかないんですよー。私には、まだやるべき事が」
「あんたの事情なんかどうでも良い」
最後の言い訳すら、少年の言葉に阻まれた。
「あんたが、コイツを巻き込むっていうなら、コイツを苦しめるっていうなら、例えアンタのやる事が人類の為だったとしても、関係無い」
少年は、例えどんな理由であれ、こんな理不尽を許さない。
「俺は、コイツを守るだけだからな。だから」
だからこそ許せない。この少女を苦しめる目の前の男が。だからこそ、今彼女を完全に救う為にも、やるべき事がある。
ギリ、と拳を握った。
俺は、赤い剣を消した。こんな奴に、宝具を使ってやる必要は無い。
ズズズと、少年の意思に従うように、少年とピエロを結ぶ道を、武器が開けて行く。
ピエロはもう、完全に腰が引けている様子だった。こんな奴にソフィアが攫われていたのが、悔しくて悔しくて堪らない。
だからこそ、コイツはもう野放しにしてはいけない。
隣でソフィアが、心配そうにこちらを見詰める。大丈夫だ、と言うと、ソフィアは違うというように首を振った。
「私も、一緒に行きたい」
思わず、ふっと笑ってしまった。確かに、ソフィアにはその権利がある。
俺とソフィアは、手を繋いでその先へと歩く。
ピエロは必死に逃げ道を探しているようだが、そんなものはどこにもない。
やがて、ピエロの前までやって来た。
今まで、散々ソフィアを苦しめてきた男。必死で慌てふためいていて、良い気味だと思った。
俺達を弱弱しく睨んで、ピエロは負け惜しみを言う。
「良いんですかー? 貴方がその子と進む道には、茨しか無いんですよー。いや、下手したらもっと酷いかもしれません。ここの惨状とは比べ物にならないくらいに」
「そうだとしても、」
迷い無く、言い放った。
「俺が進む道は、変わらない」
ピエロはそれを聞いて、クックと嗤い、
「そうですかー。ならせめて、道連れにしてそこから攫ってあげましょう!!」
そう、飛びかかる悪魔のように、俺達に襲い掛かった。
だが、俺もソフィアも一歩も引かない。
そして、同時に腕を振るう。
俺は右拳で奴の左頬を、ソフィアは左の平手で奴の右頬を、挟むように殴りつけた。
そのままピエロは吹っ飛んで、ガクリと項垂れた。
終わった。そう思った時、周りに追随していた武器群は、全て光となって消え去った。
その美しい舞踏を二人で見つめながら、俺は一人、ソフィアを救えた喜びを噛み締めていた。
遠くでサイレンが聞こえた時、ふと目の前が真っ暗になった。




