4
Can he change her?
引越しが決定すると、稔は早速前俺が住んでいたアパートを引き払って、荷物をこちらに送ってきた。
まるで電光石火の如き勢いでここまでが行われていた訳だが、引っ越しにはやはり時間が掛かる。全ての荷物を新居に搬入したころには、すっかり日は落ちて、暮れを越して月が夜空に高々と掲げられていた。
霧果は明日の部活や勉強があるために先に帰っていたのだが、稔は引っ越しが終わるまで最後まで手伝ってくれた。なんでも「君達の新しい出発点みたいなものだからね。このくらいはやってやるさ」だそうだ。しかし、呼び出した引っ越し業者は当然稔が大株主なので、それを見て戦々恐々として、稔には出来る限り軽くて丈夫で壊れにくいものを渡して、自分達はまるで新鮮な卵の入ったパックを一〇個ぐらいもって運ぶような丁寧さで家具を運び込んでいた。
荷物を運び終えた玄関先で、俺は稔と話をしている。
「もう大丈夫かい、衛士君」
「まあ、お陰さまで無事に終わりましたよ」
互いにねぎらいの言葉を掛けつつ、しかし気になる事があって結局は気の抜けたものとなっている。というのも―――
「あの子のほうは、大丈夫なのかい」
稔は俺の後ろを視線で指し示したのに気付き、首を振った。
「よく……分かりませんよ。さっきまでは良かったのに」
引っ越しをしている最中の事だった。
流石に女の子に引っ越しを手伝って貰うのはどうか、と考えて、少女には一度アパートの中に元々供えられていた家具であるソファに座って貰っていた。
しかし、少女はこちらに来ようとしたらしく、ソファから動き出していたようだ。
その途中で、引っ越し業者の男とすれ違い、肩をぶつけた。
故意ではなく、完全に偶然だったようだし、そんなに強く肩をぶつけた訳ではないらしい。
しかし、少女は倒れ、脅えるように体を痙攣させ始めた。その異変に気付いた業者が、俺と稔を呼んで、俺達は少女が倒れている所を目撃した。
俺が抱き抱えてやると、痙攣は幾らか収まったものの、それでも震えは止まらなかった。
俺はその少女の表情を見て、不遜にもおぞましいものを感じた事を思い出した。
そこには、絶望しかなかった。そこには圧倒的と言えるほどの暗黒しかなかった。
稔はその表情を見てはいなかったが、傍に居るだけでもある程度は感じ取れたらしい。
今はソファに寝かせているが、稔は不安のようだった。
「本当に、一人で大丈夫なのかい? もし不安なら誰かメイドか執事を寄越すかい?」
先程までの笑みとは打って変って、不安を露わにする稔に、俺は逆に笑みで答えた。
「……大丈夫ですよ。そもそも、これは俺が言いだした事だ。その責任くらいは、ちゃんと背負いますよ。それに――」
不安はない。何故なら、
「自信があるので、きっとアイツをなんとかしてみせますよ」
絶対の自信で、そう言い放った。
俺の決意を読み取ったのか、稔はふ、と笑って、
「そうか、なら、安心したよ」
それだけ言って、
「じゃあ、さようなら」
と背を向けて立ち去って行った。
俺は家の中に入ると、改めて居住を一瞥する。
事前にある程度は見てあるが、再度見ても良物件だと実感せざるをおえない。
まず、玄関を入ると右には俺の部屋がある。四帖という大きさで、中はベッドや机があるが、前のアパートの荷物で煩雑としていて、埋もれてしまっている。後でベッドだけでも掘り起こそう。
廊下に戻ってもう少し進むと、今度は右に少女用の部屋、左にトイレ・バスルームがある。右の少女の部屋を覗けば、白とピンクが基調の鮮やかなデザインの家具達が整然としていて、先程の俺の部屋とは大違いだった。ベッドは天蓋付きで、まさしくお嬢様という感覚だ。確かここの家具などを用意したのは稔の筈なので、俺とは扱いが断然違った。
廊下を進んで行けば、今度は正面に広々としたダイニング兼リビングがある。左の方はまさしくダイニングで、奥には左から順に、冷蔵庫、食器棚、キッチンがある。食器棚の中には稔が持ってきた食器や台所用品が入っており、一式は揃っていた。
その手前にはなんとカウンターがあり、どうもそこで腹を満たせということらしい。
廊下からみて右側には、ダイニングと繋がってリビングがある。ここを借りる時にレンタルした六四インチもの大きな壁掛けテレビがあり、その手前には小さな卓袱台ぐらいの机と、ソファがある。
ソファまで目を行かせて、止まった。
緑のシンプルなソファには、一人の少女が横になっていた。
ボサボサした長くて白い髪を下に、スースーと眠っている。
俺はその顔を凝視して、思わずこう考える。
何故、こんなにも儚いのだろうかと。
少女はまだ、脅えているのかもしれない。
少女はまだ、俺を信頼していないのかもしれない。
それとももう、
絶望に世界を犯されてしまったのだろうか。
何も分からず、何も知る事の出来ない俺は、ただ見続ける事しかできないのだろうか。
この少女を、笑顔に戻すことは出来るのだろうか。
勢いで言ってしまったが、でも、自信がある事は事実だった。
ただ―――――
「お前は、いつになったら心を開いてくれるんだ」
漠然とした不安は、それでも残っていた。
夕飯を買うのを忘れていた。
地図を眺めてスーパー探しまわった。こういう時に慣れない土地に来るというのは不便だ。
結局コンビニしか見つからず、結果的に俺はコンビニの弁当を二つ持って帰る事になった。頼むから近くにスーパーがいつか見つかって欲しい。
駅の隣接しているコンビニは、つい最近犯罪に遭遇したばかりの例のコンビニと同じ会社のものだ。正直少し嫌な思い出を思い出すが、どうでもいい。
店内に入ると、店員の「い、いらっしゃいませ!」という声が聞こえた。殆ど無視してコンビニの弁当コーナーへと直行する。
それにしても、コンビニの商品というのはスーパーと比べて本当に高い気がする。というか高い。当然食費だって稔が払ってくれることは無いので俺持ちだ。もっとも家計を啄む家賃だけでもタダだと言うので以前ほどきつくはないと思いたいが、できれば出費は多少我慢してでも抑えておきたい。
明日までにはスーパーを見つけて、特売に走らなくてはと考えつつ、弁当をざっと見る。
俺は基本好き嫌いは無いが、あの少女はどうなのだろう。そもそも、アイツは今日は一食も摂っていない。いやでも食べさせるなら、やはりお粥等の流動食のほうが良いのだろうか? と思案し、レンジで数分温めればふっくらご飯ができあがると記載された、「チンチコチン! ご飯」を買った。正直に言えばかなり際どい商品名だと思う。
焼きそば弁当と共に際どい名前の商品をカウンターに置き、店員がレジを打ち始める。
「お、お会計は四百二十円になります」
店員は気の弱そうな同年代の少女だった。―――まて、どこかで見た気がする。
お金を財布から取り出して、店員に渡しながら、どこで見たかを思い出そうとしていると、
「あの、この間は、本当にありがとうございました」
その言葉で、ようやく合点がいく。
「アンタは確か、この間の強盗にコンビニに襲われた時の店員か……?」
「あ、はい」
気の弱そうな少女が、深く頭を下げる。一緒にレジ袋に入れられた商品も渡された。
「……そんな頭を下げられても。俺は自分の為にやっただけなんだが」
店員は首をブンブン振って、
「そ、そんな事ないです。私だったら逃げてましたもん」
少女は身を小さくした。
「あ、あのその……この後お時間開いてますかね? よければ一緒にお食事でも……」
「……? いや、すまない。俺はちょっと帰らないと」
何故唐突にお呼ばれしてきたのか分からなかったが、どのみち、あの少女を一人で放置にするわけにもいかないので、断るしか無い。
「じゃ、じゃあ、せめてメールアドレスだけでも」
……俺は携帯を持っていない。
すまないが無理だと、俺が言おうとしたその時だった。
――ピンポンピンポンピンポン――
唐突に入店を知らせる音が鳴り、少女と俺は同時にそちらを見る。
お客だろうか? まあ別にどうでも―――
と、楽観的に考えていたのが間違いだった。
ピシっとしたスーツ、ちょっと老いぼれた感じの白髪、そして綺麗に揃えられた髭。
………稔の執事だった。
「お探しいたしました、衛士殿」
そこは「殿」では無く「様」では無いだろうか、と一瞬思ったが、そんな事がどうでもいいと思えるくらい(実際どうでもいいのだが)の物が、執事の右手に収まっていた。
あの箱のパッケージはまさか……!?
「これは霧果様からの新居移転祝いです」
霧果は「様」なのか。
しかし、そんなツッコミなど最早どうでも良かった。
「これは……最新鋭のスマートフォン?」
確か、強度はGショック並、電波は例え富士の樹海ですら使えるという売り文句の。
「はい、ではまず説明を」
その後、利用規約や通信料や電話料金、各種サービスやオプションをどうするかなどの話をした。
「では、確かにお渡ししましたぞ」
そう言って執事は俺に携帯を押し付けると、いつの間にか持っていたのか三個程おにぎりをレジに持って行き、呆然とした少女がはっと正気に戻って、会計を済ませると、足早に立ち去っていった。
「「…………」」
あまりに突然なことに、しばらく声が出なかった。
しかし、色々と言いたいことはある。そもそも、霧果がこんな簡単にポンと携帯を買って俺に渡してくるなんて色々おかしい気がするし、というかそんな金の余裕があるのが理不尽だ。
「……赤外線通信、しましょうか」
「あ、ああ」
最終的に、俺はコンビニのアルバイトの少女と連絡先を交換した。
「磐瀬夜? ……普通の名前だな」
コンビニからの帰り道で、俺は携帯を弄り回していた。
なにせこんな文明の利器など扱ったことがない。機会音痴を自称するつもりは無いが、いくらなんでも、ある程度は使い慣れてみるべきだろう。
というわけで早速連絡先を確認した。さっきの少女には一応名前を聞いたので、名前を登録しておく。
他にはもう、霧果と稔の連絡先が登録されていた。確かに聞くのは面倒なのでありがたい。
家に帰って、早速家計簿をチェックするアプリでもダウンロードしようと、俺は一旦携帯をポケットに仕舞い込む。
しばらくも歩かない内にアパートに辿り着く。それはまあ、駅の目の前なのだから当然とも言えるが。
さて、俺の居住は二階だ。手早く階段を登って―――
ベランダの手すりの上に、少女が居た。
「アイツ何を―――!?」
言いながらも、理解はしていた。
精神が異常かつ錯乱しており、その理由が絶望から来るものだとしたら。
アイツが自殺をしようとしてもおかしくない!
それでも尚、何故という疑問は残るが、今やることはそれについて考える事ではない。
いくらアパートの二階とはいえ、落ち方によっては死を招く。
俺が駆け出すと同時、少女はベランダからゆっくりと前へ姿勢を崩す。
ふざけるな、守るって言ったんだ!
全力でダッシュする。少女はまるでスローモーションのように落ちてくる。
このままでは間に合わない―――!!
そう感じた俺は、迷わずジャンプする。
俺は自身が下敷きになるようにして少女と地面の隙間に入り込み、空中で少女をキャッチする。
少女をキャッチした勢いそのままに、一気に倒れる。
アスファルトに体を叩きつけられ、肺の中の空気を一気に吐き出し、激痛に身悶えそうになる。
それでもなんとか、少女は無傷だった。
「―――痛っ」
痛みに呻き声を上げながら、のしかかる少女を退かす。
「……お前、何やってるんだ」
立ち上がり、少女を抱きかかえつつ、質問した。
返答は無いと、知っていながら。
だからこそ、俺は一人で言葉を紡ぐ。
「何にそんなに怯えているのかは知らない。でも、死ぬのは駄目だ。死んだら元も子もない。何のために助けたと思ってるんだ。――大体、俺が守るって、言った筈だ」
少女を背負い、俺は息を切らせながら階段を登った。
部屋に帰って、少女をソファに座らせた。
「なんでそんなに、他人を信用できないんだ。お前」
返答は無い。
その筈だった。
「……そうやって言ってくれた人は、皆逃げちゃった」
「………………」
初めて聞く、少女の透明な声。
だが、そこには悲しみがあった。
「……だから、あなたも居なかったから、結局、裏切られたと思って」
「だから、死のうとしたって?」
思わず、歯ぎしりする。
ピエロの口ぶりからして、多くの人間がこの少女を助けようとしたらしい。だが、結局は何もできない腰抜けばかりだったのだ。
「……その方が、楽だから」
思わず、机を叩いていた。
「冗談をいうな!!」
たまらなく怒りが溢れてくる。
「誰も助けてくれない、誰も救ってくれないから死のうとしたって? ふざけるな。そんなもんは単なる逃げだろうが!!」
少女の体が驚きでビクンと跳ねるが、気にもならない。
「本当に死ぬのが良いって思っているのか。それが正しいって思っているのか」
静かに低い声で、尋ねる。
少女はゆっくりと頷いた。
きっと、死にたくて死にたくて、辛くて辛くて仕方がなかったのだろう。
だけど、そんな事知ったことか。
それでは、あまりにも報われない。
例え途中で逃げ出してしまったとしても、彼女を守ろうとした人々があまりにも報われない。
「死んだらどうなるかなんて、俺には分からない。だけど、」
例え天国があったとしても、例え何もなかったとしても、分かることはある。
「死は楽なんかじゃない。むしろ苦痛だ。死んだところで、後には何も残らない。死ぬことは簡単だ。だけど、生きるよりかは断然難しい」
「……だけど、」
少女は否定しようとする。
「……私の所為で、いろんな人が死んでいく。そんなのもう、耐えられないよ」
「お前の所為じゃない。それはそいつら自身の選択だ」
その否定を、否定する。
「例え切っ掛けがお前だったとして、救うという選択をしたのはそいつらだ。その死の責任はお前じゃなくて、そいつら自身の責任だ」
そうでなければ、命など賭けはしない筈だ。
「だから、もし、お前がそいつらに対して責任を持っているって言うなら」
持っているというならば、
「絶対生きろ。何が何でも生きろ。それがお前の出来る、最良の選択だ」
「……でも、無理だよ。あの人にまた捕まえられる」
あのピエロのことだろうか。だがもう、心配なかった。
「安心しろ、その時は俺が守る」
それが、俺の選択だ。
少女の表情が、驚きに満ち、そして一瞬でクシャッと崩れ、そして泣きだした。
そして、俺に抱きついてくる。
「ありがとう」
少女の泣きながらの一言が、俺の心に響いた。
少年は少女の思いを受け止め、ついに邂逅を果たす。
そして、少年は初めて、少女の心と触れ合うのだ――




