第2章 姉と妹-3
気が付くと、オレは忌野神社へと続く階段の前にいた。
オレ、いつの間にここに来ちまったんだ?
正門で待ち構えていた夏恋を撒くために裏門から学校を出て、考え事しながら自転車をこいでいるうちにここまで来たっていうのか? 家とはまったく逆方向だっていうのに。
らしくない行動に思わず失笑する。
「ニヤニヤしちゃって、何かいいことでもあった?」
「っ!」
背後からいきなり声をかけられ、オレは咄嗟に自転車から飛び降りた。
言わずと知れた夏恋だ。
こいつ、いつの間にオレの背後に。ロボットだから気配を感じないのか?
「何にもねぇよ」
さすがのオレもバツが悪かった。しかも、夏恋はロボットのくせにオレの心を見透かしたようなことを言いやがる。余計なことをしゃべれば何を言い出すかわかったもんじゃない。ここはさっさとこの場から離れる方が得策だろう。
が、オレの行動より夏恋の方が一歩先だった。
「せっかくここまで来たんだから梅子さんに会っていきましょうよ」
そう言って、オレの手を引っ張って階段を一気に駆け上がった。
境内は相変わらず人っ子一人いない。
と思ったら珍しく拝殿の前にセーラー服姿の女子生徒がいた。あれってオレの高校の制服じゃないか?
って、よく見りゃ悠花だ。アルバイトがあるからって断っておきながら、どうしてここにいるんだ?
すると、本殿の方から萌花が出てきた。遠目だが、萌花の表情が沈んでいるように見えた。
何だ? この胸を絞めつけるような苦しい気持ちは。母さんが死んだ時とはまた違う痛みだ。
「何だか面白いことになりそうね」
夏恋の双眸が妖しく輝いて見えた。明らかに何かトラブルを期待している目だ。
夏恋は嫌がるオレを抱きかかえて、参道を忍び足で歩いて拝殿の裏に隠れる。
「最低だな。オレは帰るぞ」
「何言ってるのよ? 悠花ちゃんが萌花ちゃんに歩み寄ろうとしているのよ。私たちはそれを影からやさしく見守ってあげなきゃ」
もっともらしいことを言って、夏恋はオレを逃がさないように腕をぐっと組んだまま聞き耳を立てた。
悠花の怒声が聞こえてくる。
「お姉ちゃん、何度も同じことを言わせないで! イタコ修業なんかやめて家に戻ってきなさいよ。叔父さんたちがどんなに心配しているかわかってるの?」
「私はただ悠花にお父さんとお母さんとお話してほしくて」
「私がいつそんなこと頼んだの? お父さんたちが死んでからずっと私たちの面倒を見てきてくれた叔父さんたちに悪いと思わないの?」
「だからこそ、私が独立すれば叔父さんたちの負担が少しでも減ると思って。それに私がお師匠様に選ばれたってことは、イタコの才能があるってことだし」
そういえば、萌花は住み込みイタコ弟子募集の広告を見て応募してここに来たって言ってたな。あんなトロ臭いのによく選ばれたな。
「それって、お姉ちゃんの他に応募した人がいなかったからでしょう」
オレは悠花の言葉に納得した。
よく考えてみれば、いくら不景気なご時世だからと言ってイタコの弟子っていうわけのわからんもんに応募する奴はいねぇよな。まあ一人いたわけだが。
「確かにそうだけど」
「だったら、イタコになるなんてバカな考えは諦めてちょうだい」
「私、諦めないよ。だって、やっと自分にしかできないことを見つけたんだもの」
「イタコの他にも何かあるでしょう?」
「私には人に褒めてもらえるようなものが何もなかった。小さい頃から何でもできた悠花にはわからないかもしれないけど、イタコはそんな私がやっと見つけた目指す道なの」
「えらいわ、萌花ちゃん!」
感極まったのか、夏恋が飛び出して萌花を抱きしめた。
あのバカ女、何考えてやがんだ。盗み聞きしていたのがバレバレだろうが。
萌花は唖然とし、悠花はうつむいて体をぶるぶる震わせていた。明らかに怒っている。まあ当然な反応だよな。
悠花は怒りで頬を紅潮させ、オレの前に足早に歩み寄ってくると右手を振り上げた。
何をしようとしているかは一目瞭然だ。しかし、オレも黙って叩かれるほど優しい人間じゃない。
オレは振り下ろした悠花の右手を掴んだ。
「最低!」
そう言った悠花の双眸は涙で潤んでいた。
思わず掴んでいた手を緩めてしまう。
刹那。
悠花は右手をすべらせるようにオレの手から引き抜くと、その反動でオレの頬を引っ叩いた。
乾いた音が境内に響いた。
「あんたなんか大嫌い!」
捨て台詞を残して、悠花は走り去っていった。
「悠花!」
萌花が慌てて追いかけていく。
残されたオレは茫然としていた。
何であいつに泣かれたあげく、叩かれんとならんのだ。別に嫌われるのはどうってことはないが、オレとしては納得がいかなかった。
「大丈夫? さすがの翔ちゃんも女の子の涙には弱いのね」
こうなった元凶である夏恋は、まったく心配した様子もなく覗きこんでくる。どちらかというとこの状況を面白がっている。
「こうなったのは全部お前のせいだろうが」
「そうだったかしら?」
明後日の方向を見てとぼける夏恋。
どんだけ人の神経を逆なでする気だ。もう我慢の限界だ。今すぐぶっ壊してやる。
オレは夏恋の胸元に手を伸ばした。
そこに。
「翔さん、ごめんなさい!」
悠花を追いかけていったはずの萌花が戻ってきた。
オレは咄嗟に伸ばした手を引っ込めた。
「あの、これ使ってください」
萌花が水に濡らしたハンカチを差し出してきた。
オレが素直に受け取ることができず黙っていると、
「こんなに赤くなってしまって……腫れがひかなかったらどうしましょう」
萌花があたふたしながらハンカチをオレの頬に当ててくる。吐息がかかるくらい萌花の顔が近くにあった。
オレはビクンと体を硬直させる。
心臓が早鐘のように脈打つ。
「あらら、翔ちゃんたらずいぶんと大人しくなっちゃってどうしたのかしらね」
夏恋の皮肉に反発する余裕すら今のオレにはなかった。
体内の血液が沸騰したかのように熱くて、息苦しくて、頭がぼーっとする。
どうなっちまったんだ、オレの体は。
「ところで、悠花ちゃんは?」
「あの子、足も速いからすぐに見えなくなっちゃうんですよね」
「大丈夫なの?」
「いつものことですから」
苦笑する萌花。
「頑張ってね、萌花ちゃん。私、応援してるから」
夏恋はオレの頬にハンカチを当てていた萌花の手を引きはがして、ぎゅっと両手を包み込むように握りしめた。
萌花が離れた途端、オレの体の硬直も解けた。
「ありがとうございます。夏恋さん」
「気にしないで。私たち同じイタコの弟子じゃない」
人が疑うことを知らないのか、萌花は夏恋に感謝の意を述べる。それを上から目線で受け取る夏恋。
そもそも二人の仲をこじれさせたのはお前だろうが。何いい人を気取ってんだよ? しかも、まだ弟子じゃねぇだろう。
突っ込みたいのをグッと我慢しているオレの顔を見て、夏恋が小悪魔的な笑みを浮かべる。
「今日は来るつもりなかったんだけど、翔ちゃんがどうしても来たいって言うから」
いつオレがそんなこと言ったんだよ?
声を大にして反論したかったが、喉の奥をぎゅっと絞めつけられたようで声を出すことができずにいた。
「せっかく来たんだし、梅子さんにご挨拶だけでも」
「すみません。お師匠様は口寄せの依頼を受けて出掛けております。お戻りは夜になるかと思います」
「夜ねぇ。あら、もうこんな時間?」
夏恋が腕時計を見て白々しく大仰に驚いてみせる。
「翔ちゃん、そろそろアルバイトに行く時間じゃない? 遅刻したらクビになっちゃうわよ。ほら、早く行かなきゃ」
オレは酸欠した金魚のごとく口をパクパクさせただけで結局何も言えないまま、夏恋に背中を押されてその場から追いやられる。
「翔さん、アルバイト頑張ってくださいね」
夏恋が何かを企んでいるような気がしてしょうがなかったが、萌花からの言葉を背に受けて振り向くことができかなったオレはそのまま階段を駆け下りていった。
胸の奥にあるわだかまりが何なのかわからないまま、オレは自転車のペダルを踏んだ。