―番外編― その背に並ぶために
※将軍と伯爵令嬢のお話。
伯爵令嬢は、いつからか将軍の姿を目で追うようになっていた。
理由を付けるなら簡単だ。
王城の庭園でも、廊下でも、軍の訓練場でも――
彼はいつも揺るがず、堂々としていたから。
けれど彼を見つめるたび、胸の奥に刺さる記憶があった。
王妃がこの国に来て初めて開いた茶会。
慣れぬ土地、慣れぬ習わしの中で。
異国の王妃に向けられた、あからさまな好奇と悪意。
遠回しな言葉に包まれた、鋭い刃。
あのとき、伯爵令嬢は声を上げられなかった。
ただ黙って――視線を伏せてしまった。
後悔は、時間が経っても薄れなかった。
それでも王妃は、謝罪に訪れた伯爵令嬢を責めることなく、静かに受け入れ、友として接してくれた。
その優しさが、かえって胸を締めつけた。
――こんな私が、あの将軍の隣に立つなど。
遠くから見るだけで十分だと、そう言い聞かせていた。
一方で将軍もまた、所在の分からない感情を抱いていた。
宰相との酒の席でふと、口をついて出た。
「……理由もなく、誰かを気になることってあるか?」
宰相はグラスを置き、静かに将軍を見る。
「――あなたは、両陛下の何を見てきたのですか」
その言葉に、将軍は息を呑んだ。
前線で何度も生死を分けてきたはずなのに。
こんな単純な気持ちには、ひどく鈍感だったのだと気づかされた瞬間だった。
*
王妃は二人の間に流れるその空気を、いつの間にか察していた。
伯爵令嬢を私室に招いた日、王妃はいつもの穏やかな笑みで向かい合った。
「私は……勇敢ではありません」
伯爵令嬢は膝の上で指を絡め、俯いたまま続ける。
「あの方の隣に立つ資格など……」
王妃は首を横に振り、やわらかく言葉を遮った。
「いいえ、それは違います」
そして、真っ直ぐに伯爵令嬢を見つめる。
「私に――謝りに来てくださいました」
伯爵令嬢は顔を上げた。
「それは、とても勇気のいることでしたでしょう?」
王妃はそう言って微笑み、最後にそっと付け加える。
「あなたは、逃げてなどいません」
その言葉は、長く閉じ込めていた何かを――
静かに解きほぐした。
*
ほどなくして。
伯爵令嬢は将軍から呼び出しを受け、その場に向かった。
王城の外れにある、古い見張り塔。
風がよく通り、遠くまで景色が開けるその場所で。
将軍は一人待っていた。
沈黙が流れる。
やがて将軍は、遠くを見るように口を開いた。
「俺は――どんな戦も怖くないんだ」
朗らかだが、確かな声だった。
「全部、命を懸ける覚悟ができてる――でも」
一拍置き、視線が伯爵令嬢へと向く。
「君に拒まれる可能性だけは、ずっと怖かった」
風が塔を抜け、伯爵令嬢の髪を揺らした。
「君が好きだ――隣に、いてほしい」
言葉は飾られていない。
それでも、真剣さが滲んでいた。
「命を預ける戦場より、ずっと真剣に、そう思ってる」
伯爵令嬢は胸の前で手を握りしめ、震える声で答える。
「私は――声を上げなければならなかったときに、それができなかった人間です」
唇を噛みしめ、続ける。
「あなたの隣に立つ資格など――ないと思っていました」
視線を上げ、涙を湛えた瞳で将軍を見る。
「それでも……よいのでしょうか」
将軍は迷いなく首を振った。
「違う」
一歩近づき、はっきりと言いきる。
「君は逃げなかった。王妃陛下に、ちゃんと向き合った」
その言葉に、伯爵令嬢の肩が小さく震えた。
「それだけで――十分すぎるほど、勇敢だ」
堰を切ったように、涙がこぼれ落ちる。
将軍はそっと腕を伸ばし、伯爵令嬢を抱き寄せる。
吹き抜ける風から守るように、その背を包み込んだ。
*
後日その話を聞いた王妃は、静かに安堵の息をついた。
並んで歩く二人の背中を、庭園の木陰から見つめながら、そっと微笑む。
――ようやく、並べましたね。
そう、心の中で祝福しながら。




