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頬擦りの始まり

昼下がりの王城。

回廊には、秋の気配を感じさせる光が差し込んでいた。


王妃は壁に穿たれた石の縁に腰を下ろし、王子を抱いている。

小さな手が母のドレスの袖を掴み、安心したように身を預けていた。


「本当に……可愛いですね」


そう言って、王妃は頬を寄せる。


王子はきゃ、と小さく声を上げ、さらに笑う。

王妃はもう一度、くすぐったそうに頬擦りをした。


そこへ、足音もなく近づいた影が一つ。


――魔王は、立ち止まった。


目に映ったのは。

王妃と王子の頬が、ためらいなく触れ合っている光景。


……胸が、ざわりとした。


(余の……)


一瞬、思考が止まる。


(……余のもの、だ)


自分でも驚くほど、即座に心臓が跳ね上がった。

相手は王子。実の息子だ。しかも赤子。


だが、それでも。


(……近い)


無駄に拳を握る。


(余より、近い)


どうしようもない感情が、胸の奥で堂々と渦巻いていた。


「……」


魔王は何も言わず、その場を離れる。


だが、背中にもまとわりつく嫉妬は。

夜まで消えることはなかった――



その日の夜。

王妃は王子を寝かしつけ、魔王が座る寝台の縁に座ろうとした。


しかし次の瞬間――

腰を抱かれ、当然のように膝の上に座らされる。


「……陛下?」

「離さぬ」


即答した。


「今夜は、離さぬと決めた」

「いつも――離してくださいませんよ?」


無言の魔王に、王妃は小さく笑いながら続けた。


「……理由を、お伺いしても?」


魔王は一瞬だけ視線を逸らし、低く言った。


「昼に」

「はい」

「お前が、王子に――」


魔王は一瞬だけ息を吸い。


「頬擦りをしていた」


王妃はきょとんとしたが、やがて理解した。


「……それで?」

「それでだ」


腕に力が入る。


「……余は」


わずかに悔しそうに。


「大変、不満だった」

「……王子ですよ?」

「分かっている」


即座に。


「分かっているが――感情は別だ」


王妃はしばし沈黙し、やがて。

少しだけからかうように微笑んだ。


腕は、緩まない。


王妃は膝の上で魔王を見上げ、静かに続けた。


「……お義姉さまが、おっしゃっていたのです」


魔王の耳がぴくりと動く。


「王子が、小さい頃の陛下によく似ていると」

「……」


魔王の思考が、完全に止まった。


「よく似ていて、目元も、眠くなると甘え方も……」


王妃は優しく続ける。


「だから、あの子にそうすると……小さな陛下に、お会いしているような気がして」


魔王は深く息を吐いた。

内心では、すでに何かが決壊していたが。


「……そうか」


声は、妙に穏やかになる。


「……余に、似ているか」

「はい、とても」

「……それなら」


腕がさらに、しかし優しく締まる。


「満足だ」


王妃は「まあ」と声を上げ――くすっと笑った。


「お心変わりしてくださいましたか?陛下」

「――ああ」


その後。

王妃は膝の上からなかなか解放されなかった。

理由は、簡単にして単純。


――魔王が、完全に機嫌を直したからである。



翌日。


女官長の日記にはこう記された。


《昼の嫉妬→夜の解決→翌朝の機嫌回復。通常運転である。なお原因は王子殿下。ゆえに誰も責められない》


穏やかな王城の日々は、こうして守られている。

息子にも嫉妬する魔王さんです( ◜◡◝ )

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