頬擦りの始まり
昼下がりの王城。
回廊には、秋の気配を感じさせる光が差し込んでいた。
王妃は壁に穿たれた石の縁に腰を下ろし、王子を抱いている。
小さな手が母のドレスの袖を掴み、安心したように身を預けていた。
「本当に……可愛いですね」
そう言って、王妃は頬を寄せる。
王子はきゃ、と小さく声を上げ、さらに笑う。
王妃はもう一度、くすぐったそうに頬擦りをした。
そこへ、足音もなく近づいた影が一つ。
――魔王は、立ち止まった。
目に映ったのは。
王妃と王子の頬が、ためらいなく触れ合っている光景。
……胸が、ざわりとした。
(余の……)
一瞬、思考が止まる。
(……余のもの、だ)
自分でも驚くほど、即座に心臓が跳ね上がった。
相手は王子。実の息子だ。しかも赤子。
だが、それでも。
(……近い)
無駄に拳を握る。
(余より、近い)
どうしようもない感情が、胸の奥で堂々と渦巻いていた。
「……」
魔王は何も言わず、その場を離れる。
だが、背中にもまとわりつく嫉妬は。
夜まで消えることはなかった――
*
その日の夜。
王妃は王子を寝かしつけ、魔王が座る寝台の縁に座ろうとした。
しかし次の瞬間――
腰を抱かれ、当然のように膝の上に座らされる。
「……陛下?」
「離さぬ」
即答した。
「今夜は、離さぬと決めた」
「いつも――離してくださいませんよ?」
無言の魔王に、王妃は小さく笑いながら続けた。
「……理由を、お伺いしても?」
魔王は一瞬だけ視線を逸らし、低く言った。
「昼に」
「はい」
「お前が、王子に――」
魔王は一瞬だけ息を吸い。
「頬擦りをしていた」
王妃はきょとんとしたが、やがて理解した。
「……それで?」
「それでだ」
腕に力が入る。
「……余は」
わずかに悔しそうに。
「大変、不満だった」
「……王子ですよ?」
「分かっている」
即座に。
「分かっているが――感情は別だ」
王妃はしばし沈黙し、やがて。
少しだけからかうように微笑んだ。
腕は、緩まない。
王妃は膝の上で魔王を見上げ、静かに続けた。
「……お義姉さまが、おっしゃっていたのです」
魔王の耳がぴくりと動く。
「王子が、小さい頃の陛下によく似ていると」
「……」
魔王の思考が、完全に止まった。
「よく似ていて、目元も、眠くなると甘え方も……」
王妃は優しく続ける。
「だから、あの子にそうすると……小さな陛下に、お会いしているような気がして」
魔王は深く息を吐いた。
内心では、すでに何かが決壊していたが。
「……そうか」
声は、妙に穏やかになる。
「……余に、似ているか」
「はい、とても」
「……それなら」
腕がさらに、しかし優しく締まる。
「満足だ」
王妃は「まあ」と声を上げ――くすっと笑った。
「お心変わりしてくださいましたか?陛下」
「――ああ」
その後。
王妃は膝の上からなかなか解放されなかった。
理由は、簡単にして単純。
――魔王が、完全に機嫌を直したからである。
*
翌日。
女官長の日記にはこう記された。
《昼の嫉妬→夜の解決→翌朝の機嫌回復。通常運転である。なお原因は王子殿下。ゆえに誰も責められない》
穏やかな王城の日々は、こうして守られている。
息子にも嫉妬する魔王さんです( ◜◡◝ )




