放されない腕
東の華国の第三皇子による、王妃誘拐事件――
それは公には伏せられた。
王城内でさえ、真実を知る者はごく限られている。
王妃が受けた恐怖も震えも、魔王の怒りも――
すべて、表には出なかった。
王妃はその日から、自身の誕生日を迎えるまで公務を控えた。
「立て続けの行事で、少し疲れが出たようだ」
それが公式の説明だった。
王妃は静かに過ごしていた。だが、決して一人ではない。
魔王は政務の合間を縫うように、王妃のもとを訪れた。
ほんの短い時間でも、必ず。
「陛下、お忙しいのでは……」
王妃が問いかけても魔王は何も言わず、ただ腕を伸ばす。
椅子に座る魔王の膝に、当然のように乗せられる。
背に回された腕は驚くほど強く、しかし決して痛くはない。
「……陛下?」
返事はない。
代わりに王妃の額に唇が触れ、髪に頬が寄せられる。
まるで確認するように。
そこに“在る”ことを、何度も――
朝も同じだった。
目を覚ませばすぐ隣に魔王がいる。
腕は王妃の腰を抱いたまま、ほどかれていない。
「陛下……朝です」
そう囁けば、低く短い声が返る。
「……行かぬ」
それ以上の説明はない。ただ、抱く力がわずかに強まる。
夜も同じだった。
灯りが落ち静けさが満ちても、魔王は王妃を放さない。
寝台でも、椅子でも、時には窓辺でも。
王妃は、戸惑いながらも抵抗しなかった。
(……怖かったのは、私だけではなかったのですね)
思い出すのは、あの日のこと。
自分が攫われた瞬間。
そして、その知らせを受けたであろう魔王の表情。
王妃はそれを見ていない。
だが今こうして放されない腕が、何より雄弁に語っていた。
その後も。
魔王は政務の途中、書類を抱えたまま王妃の私室へ来た。
王妃を抱き上げ、そのまま自分の膝へ乗せる。
書類を片手で捲りながら、もう一方の腕で王妃を囲い込む。
「陛下……そのようでは、お仕事が……」
「構わぬ」
即答だった。
「余が目を離した隙に――お前を奪われることの方が、問題だ」
王妃は息を呑んだ。
魔王の声は低く静かで、しかし強い響きを帯びている。
「お前は……余の妻だ」
その言葉に、すべてが込められていた。
――守るべき存在。
――奪われてはならない存在。
――失うことなど、考えられない存在。
王妃はそっと、魔王の胸に手を置いた。
「陛下……私は、ここにおります」
魔王の腕が、さらにきつくなる。
「……だからだ」
その囁きは、あまりにも切なく。
「ここにいると、確かめねばならぬ」
王妃は静かに目を閉じて、その胸に身を委ねる。
放されない腕は、檻ではない。
それは――魔王の恐れと、愛と、執着のすべてだった。
あの日を境に。
魔王は、王妃を放すことをやめた。
そして、魔王の独占欲が――
これまで以上に、はっきりと形を持った瞬間だった。




