決して失くせないもの②
その頃、王城では。
庭師――蔦が、珍しく取り乱して報告していた。
「申し訳ございません……!」
魔王は声を荒げなかった。
机を叩くことも、怒号を上げることもない。
けれどこの瞬間。
王城全体が、ぎしりと軋んだ。
魔王の感情に呼応し、地底に押さえ込まれた魔力が――
大きく、ざわめく。
「……あいつか」
「仰せの通りに……」
「すぐに場所を特定しろ」
そして、宰相と将軍へ伝える。
「東の華国へ進軍する」
宰相は顔色を変えた。
「陛下、東の華国は……」
「滅ぼす」
「大国です!」
そのとき初めて、魔王の声が荒れた。
「だから何だ!!!」
将軍が即座に膝をついた。
「陛下。まずは、一刻も早く王妃陛下を――」
魔王は静かに言った。
「王妃に、指一本でも触れていたら」
声は低く、凍てついていた。
「国も、歴史も。一切残さぬ」
そのとき。
どこからともなく黒猫が現れ、魔王の肩に跳び乗る。
その紫銀の瞳が何かを見据えたように――静かに光った。
*
廃墟に、足音が響く。
「――王妃」
その声を聞いた瞬間、王妃の胸が大きく波打つ。
第三皇子は内心怯みながらも、煽るように言った。
「ほう――これはこれは。随分とお早い」
魔王は第三皇子を見ることすらなかった。
視線はただ、王妃だけに向けられている。
「……触れたか」
低い問い。王妃は首を振る。
――それで、終わりだった。
魔王の心中を読むように。
黒猫が地に降り、紫銀の瞳が怪しく光ったその瞬間。
足元が崩れ落ちるような錯覚。
逃げ場のない恐怖――
それは絶望として彼を襲い、動きを奪った。
捕縛は一瞬だった。
魔王は王妃の前に膝をつき、そっと手を取る。
王妃はその手を、強く握り返した。
「陛下……」
声を聞いた瞬間。魔王は王妃を抱き寄せる。
「……遅くなった」
王妃は魔王の胸に額を預け、小さく息をついた。
「来てくださると――分かっていました」
魔王は一度だけ目を伏せ、王妃を強く抱きしめた。
その温もりを確かめるように。
「失うと、思った」
その言葉は王としてではなく、一人の夫としてのものだった。
*
事件は公にされることなく。
東の華国の皇帝にのみ、密やかに全貌が伝えられた。
そしてその治世下に置いて魔王国に逆らうことは、一切なかった。
その夜。
魔王は王妃の眠る寝台の傍らに座り。
そっと、その手を取った。
失いかけたものを、二度と失わないために。
世界がどうなろうと、歴史がどう記そうと――
守るものは、ただ一つ。
そう心の奥で誓いながら。




