日出る国のさくら
春風に揺れる船上。
大河を下り広い海を渡る船の上で、王妃は初めて目にする海の色に見入っていた。
「わあ……美しい光景ですね、陛下」
魔王は王妃の隣で静かに立つ。
長い黒耀の髪が風にそよぎ、鋭い眼光が遠くを見据えている。
「――そうだな」
王妃はその言葉に微笑みながら、潮風を胸いっぱいに吸い込む。
魔王は胸の内で――
この旅を王妃が楽しみ、満たすものとなるようにと願った。
極東の神国の港に到着し、船を下りた二人を華やかな装いの役人たちが出迎えた。
さらに二日ほど陸路を進み、皇都に向かう。
その道中でも、王妃は初めて見る異国の情緒に胸を高鳴らせていた。
*
皇宮では、皇と中宮が待っていた。
皇は威厳のある姿勢で立ち、穏やかに微笑む。
中宮は王妃に優しい視線を送る。
「遠路はるばる――ようこそお越しくださいました」
歓迎の式が終わると、中宮より王妃に贈り物が差し出された。
「春の宴に向け、ぜひお召しいただきたいものがございますの」
贈られたのは、幾重にも重なるこの国の伝統衣装――
十二単。
王妃は初めて手に取る豪華な重ね衣の数々に、目を瞬かせた。
布地の光沢、織りの細やかさ、袖や裳の長さ。
重く、しかし華やか。
淡い桜色から、若葉、空の青へと重なる色彩は、まるで春そのものだった。
「……こんなに素晴らしいお衣装を、よろしいのですか?」
中宮は王妃の手を取り、やわらかく微笑む。
そしてそのまま手を引かれ、女官たちに着付けをしてもらった。
着替えを終えた王妃が姿を現すと、魔王は言葉を失った。
「……」
「陛下?」
「……似合っている」
それだけで、王妃の頬は染まった。
*
桜の宴。
魔王国にはない、薄紅色の桜が満開だった。
枝は低く垂れ、風に揺れる花びらが淡く光を受けて、はらはらと舞う。
香りは甘く、ほのかに懐かしい春の匂い。
「まあ……」
花びらの絨毯を見つめながら、王妃はただ息を呑んだ。
そして手を差し伸べ、そっと触る。
「魔王国には……このような花はありませんね」
「そうだな……」
魔王は王妃の肩にそっと手を添える。
王妃は魔王を見上げ、頬を染めながら微笑んだ。
宴が始まり。
極東の神国の楽人たちが琴や笛を奏で、王妃はその音に心を躍らせていた。
宴の終盤、魔王は王妃に気付かれないよう皇に近づく。
「主上」
「如何された。楽しまれておるか?」
「――桜の枝を、一本分けていただきたい」
皇は一瞬、目を見張り――すぐに静かに笑った。
「なるほど。あの御方のためか」
魔王は答えない。
それが答えだった。
*
その夜。
客殿に戻った王妃の前に、魔王は一本の桜の枝を差し出した。
「……陛下?」
「土とともに用意させた。魔王国でも、咲くだろう」
やわらかな花びらが、月明かりに照らされて淡く光る。
王妃は目を輝かせながら受け取り、思わず枝を抱きしめた。
「ありがとうございます……!嬉しいです」
その姿を見て、魔王の喉がわずかに鳴った。
「……その衣装」
「はい?」
「重いだろう」
王妃は少し首を傾げる。
魔王は、低く続けた。
「重いものほど……脱がし甲斐がある」
一瞬の静寂。
「――っ」
王妃は一気に顔を真っ赤にし、桜の枝を胸元に掲げる。
「陛下……!」
魔王はかすかに笑いながらその手を握り、指に優しく口づけた。
王妃は照れながらも、指先の熱を感じる。
その瞬間、王妃の胸は春の桜の花びらよりもやわらかく、温かく満たされていった。
夜の帳に、桜の香りと甘やかな時間が溶けてゆく。
この春。
日出る国のさくらは、確かに魔王国へ渡った。
――そして王妃の記憶に、永く咲き続けることになる。
*
魔王国に戻った翌朝、庭園はまだ朝露に濡れていた。
王妃はドレスの裾を押さえながら、土の用意が整った一角に立つ。
そこは、彼女が気に入っている庭園の奥――やわらかな日差しが差し込む場所だった。
土の香りと桜の柔らかい枝が、王妃の手に温かく伝わる。
王妃は手を添えながら、優しく枝を植えた。
そして二人で土をかぶせ、根本を押さえる。
「綺麗に……咲きますように」
魔王は、そう呟いた王妃の手を取り。
土の汚れを気にすることなく、指を絡めた。
「幾年後かにはなるが――必ず咲くだろう」
王妃の頬が桜の色に染まる。
「ありがとうございます、陛下……」
風に揺れる枝を眺めながら、二人はしばし無言で立つ。
極東の神国での思い出と、手元にある桜――
その両方を胸に抱き、王妃は静かに微笑んだ。
「楽しみに、育てますね」
春の光の中、魔王と王妃――二人だけの庭園。
桜はこれからも二人の物語を見守るように、静かに芽を伸ばすことだろう。
極東の神国は、日本の平安時代をイメージしてます。




