甘露は罪を孕む
新年が明けて、しばらく経った頃。
王妃はようやく王城の書庫に来られるようになっていた。
分厚い書を膝に置き、慎重に頁をめくっている。
年始に読んだ、異国の文化を集めた書だった。
その中で、王妃の指がまたしても止まる。
――バレンタイン。
北西の典国に伝わる風習。
女性が想いを込めた甘味を、男性に贈る日。
「……チョコレート」
小さく王妃が呟く。
気持ちを言葉ではなく、形にして渡す。
王妃は、ゆっくりと本を閉じた。
(陛下に……)
思った瞬間、頬が熱くなる――
だが、目は逸らさなかった。
*
数日後。
厨房はまたしても静かな緊張に包まれていた。
王妃が真剣な顔で鍋を覗き込んでいる。
料理長は腕を組み、女官長は祈るように見守り、女騎士は材料を持って控えていた。
「……焦げて、いませんか?」
「大丈夫です、王妃陛下。今のところは」
今のところは、である。
王妃は、慎重に、慎重に。
何度も温度を確かめ、混ぜ、冷まし。
失敗しかけては助けられ。助けられては謝り。
それでも――。
「……できました」
小さな声。そして、確かな達成感。
*
その夜の寝室。
王妃は小さな箱を両手で抱え、立っていた。
扉の前で、深呼吸をひとつ。
魔王が入ってくる。
「王妃」
呼ばれただけで胸が鳴る。
王妃は、一歩前に出た。
「その……北西の典国では……今日、特別な日だそうで」
言葉を選びながら、箱を差し出す。
「女性が……大切な方に……気持ちを伝える日、と……」
魔王は黙って受け取った。
箱を開ける。
中には、形の揃わないチョコレート。
だが丁寧に作られたことは、一目で分かる。
魔王はひとつ摘まみ、口に含んだ。
――甘い。
舌に乗った瞬間、溶ける。
熱ではなく、体温で。
魔王はゆっくりと王妃を見る。
「……知っているか」
低い声。
「チョコレートは、媚薬とも呼ばれる」
王妃の肩が、びくりと跳ねた。
「わ、私は……そ、そういう……」
「分かっている」
魔王は静かに言った。
箱を置き、王妃の前に立つ。
「だが」
距離が、近い。
「余に向けた想いが、甘くないわけがない」
王妃の顎に、そっと指が触れる。
「溶けるのは――これだけではないな」
額が、触れた。
「……覚悟は?」
王妃は逃げなかった。
小さく、頷く。
「……はい」
魔王は微笑んだ。
それは外の雪も、理性も。
すべてを溶かす、夜の始まりだった。
――翌朝。
空になった箱だけが、静かに残されていた。
チョコレートは跡形もなく。想いとともに。




