壊した先の唯一 ―前日譚・王妃―
あの日のことは、何度思い返しても――
胸を焦がすような、気持ちになる。
*
魔王国に着いて、通された謁見の間。
扉が開き、王妃はただ前を見て歩いていた。
(……あの方が、魔王陛下)
名はもちろん知っていた。
恐ろしい存在だとも、聞かされてもいた。
だから覚悟はしていたのだ。
威圧。冷酷。鋭い視線。
――けれど。
玉座に座っていたその人は。
想像とは、あまりに違う人物だった。
流れるような黒耀の髪。
背は高く、紫銀の光彩を湛える瞳。
闇を思わせる衣装を纏い、顔立ちは驚くほど整っていた。
(……きれいな方)
一瞬、そう思ってしまった。
でもそれは本当に一瞬で、すぐに打ち消そうとした。
しかし、そこで――視線が交わった。
その目は、冷たくなかった。
鋭いのにどこか深くて、
――何故か、逸らされなかった。
心臓が、跳ねるような気がした。
(……あ)
理由は分からない。ただ胸の奥が、きゅっとする。
魔王は王妃を見ていた。
決して逸らさず、真っ直ぐに。
それが少し恥ずかしくて。
それ以上に、落ち着かなかった。
(……見られている)
怖いとは思わなかった。代わりに浮かんだのは。
どうしようもなく、的外れな感情だった。
(……緊張、する)
視線を伏せた瞬間。
自分の頬が、わずかに熱を帯びたのがわかった。
――そのときは、まだ知らない。
あの一瞬が。
制度を壊し、夜を変え。
自分の居場所を決めてしまったことを。
ただその日王妃は、こう思っていただけだった。
(……きれいな方)
小さく、心の中で。
そしてそれは。
初めて感じる、胸のざわめきだった。




